AI時代の『教養主義の没落』

~~~いま、時代が求めるもの

稲田陽子

自律型の生成AIの到来が噂されている。人間の
いうことを聞かなくなるタイプのAIの話である。
これまでのツールとしてのAIとはまったくコンセプトが
異なる。ある意味で危険を伴うものだ。ツールなら、
頼んだ仕事をただ黙々と実行するだけであり、それ以上の
ことはしない。 CHAT GPTに例えばビジネスレターを
作成するように指示すれば、その通りにしてくれる
便利ツールに徹している。それが、自分の意思を持つように
自己成長を遂げていくのが、AgentタイプのAIというわけだ。

これがいまの社会を脅かしている。まして、人間によって
悪用されてしまえば、元も子もない。このAIの性質上、
人間の指示に従わないことで、人間の操作でオフにする
ことも叶わなくなる可能性もあるという。

こうしたことに代表されるような不安定で不安な状況が
潜在しているせいか、人々をある方向に搔き立てている
ようだ。一見便利で効率のよい世界が日常に用意されて
いるかのような錯覚を覚えることもあると思われるが、
それは、AI社会をあくまでも表層部分で捉えているだけ
である。

『教養主義の没落』(竹内洋著)という書籍が、不思議な
浮上をしている。2000年代初頭に出版された書籍にも
関わらず、30年近く経ついま、再評価され、注目を浴びて
いる。単なるノスタルジーなどではない。非常に現実的な
人々の欲求から出てきた一種の蘇りだと言えるかもしれない。

未知のAI時代に新しい価値を与えるものとして、「教養」
という概念が見直され始めている。

そもそも教養主義とは大正時代から1970年代にかけて
繁栄した教養に対する文化的な概念で、時に人々を縛り
つけるエリート格差意識を生み出すものでもあった。
それは、人格主義とも親和性が高く、社会的な権威主義
ともなっていた。簡単に言ってしまえば、難しい本を読む者が
尊敬され、学歴エリート社会を形成していったという
ことでもある。

旧制高校や帝国大学の学徒などは、数も少なく、完全に
エリート層に属して時代をリードする存在となり、自由な
大正ロマンの時代的背景とともに人々の憧憬さえ生み出し
たかもしれない。日本を代表する文豪たちも、この時代の
後押しで排出されたと言って、過言ではない。

しかし、戦後になると、高度成長時代を背景に大学の
大衆化が始まり、高等教育が一部のエリート層に
限られなくなった。それは、教養主義の持つ権威が
尽く失墜していき、相対化されていく運命を招く。
その論法の基盤を与えていたのが、吉本隆明だとされている。
人格主義に結びついていた教養主義が相対化によって
揺るがされ、それはいつの間にか左翼思想(マルクス主義)
に取って変わられたと、著者は述べている。これは、まだしも
教養主義の匂いを残している時代だっただけに、その
空気感のもとに広く読まれることになったという。

価値の相対化、大学の大衆化やビジネススキルへの希求、
効率性を重んじる実用的社会への変化により、次第に
教養主義が衰えていくのは、自明のことだった。

そうした傾向は、現代のAI社会が生み出す不安とどこかで
結びつきながら、静かな変容を求め始めていることを意味する。
一言で言えば、教養主義という権威的なものを求めなく
なったその根底には、普遍的なものへの渇望があるのでは
ないだろうか。その時、教養は、その意味するものを本質的な
ものに昇華したがる。人々は、縛られるのではなく、ネットや
AI社会で自分で考えようとしているに違いない。時代が求める
教養は、より健康にクリエイティブに活性化し、本当の意味での
多様性への寛容を生み出す可能性もある。それは、AIに支配
されない思考を支える原動力となると言えるのではない
だろうか。陽極まれば、隠となり、隠極まれば、陽となる。
そんなバランス感覚が働いているようにも思われる。
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