~~~「神」が抽象に変わるとき、何が起きるのか。
「カム」の世界への希求と感受…………私のカタカムナ考
稲田陽子
カタカムナは、上古代人が感受した言語だと言われるが、 もともとは、単純な図象符であり、カタカナの音声符ができたのは、 天才的な科学技術者であった楢崎皐月の解読のおかげである。 しかし、その音声符以前の図象符とは、言語学的な発生の手順として 考えるとき、きわめて自然なことにちがいない。先日、「メッセージ』という 映画を見たときにも、何やらカタカムナに似た円形図象符がエイリアンの 言語として出てきていたのに興味深く思ったものだ。これは、 おそらく人間が壊してしまった生命論的な「原点」を描こうとして いるものと思われ、カタカムナと照らし合わせても、類似なものが 感じられるのもうなずける。原初的な思念がそのまま伝達される点、 まさにカタカムナ的である。 こうしたカタカムナが、日本語のカタカナに変換されて特異な存在感を 放っている。その意味するものが、意味されるカタカナとの意味論的な 統合性があるため、独特なのであり、そこに言語学者のチョムスキーが著した 『変形生成文法』の考え方を想起させたりもするから、そう簡単に 目移りするわけにはいかない。つまり、チョムスキーの言う「意味するもの」 には、原初的に(潜在的に)言語の基として存在するものとして、 カタカムナの「思念」と相似するものがあると見られる。 カタカムナは、まず潜象の「思念」ありきなのである。その思念を基に 言語体系としての図象符が現れたと考えられる。つまり、「思念」の カタチが図象符となったというわけであり、その後音声符ができ、 意味論的な統合が「タイコウハッセイ(対向発生)」している。 とはいえ、その本質は思念にあるのを忘れてはならない。 カタカムナの「思念」への直感を理解した上で、『ペスト』(カミユ著) について語ってみるのも、意味深いものということになりそうだ。 この書籍について書こうと思いついたのも、たまたま見たEテレの 『100分で名著』で取り上げていたからにほかならなかった。 そもそも実存主義というのは、懐かしい響きがあるというのも理由である。 おそらく私よりもずっと上の世代でそのファッションにも影響をあたえられた ほど、強烈な近現代思想として、哲学文学文化の世界でもてはやされた ものである。有名なところでは、サルトルとボーボワールは定番の登場者であり、 私も、ボーボワールの『第二の性』はつまみ食いして読み、いろいろ考えさせら れたもの。 一世を風靡した実存主義は、何もこの二人だけの代名詞というわけではなく、 ノーベル賞を受賞までしたというカミユも、その一人であった。ただ、 カミユの無神論は、サルトルのそれとは本質的な違いがあり、最後まで地中海の 自然と太陽が与えてくれる恩恵と幸福感を愛していたという。カミユには、 アマウツシがあり、欧米・ヨーロッパを支配した「神」に変わる「カム」の 相似として幸福な世界の抽象を感受していたと思われる。 そのため、『ペスト』でも、集団的不条理として押し寄せてきた ペストという最悪の感染症で街ごと隔離される人々を描く中で、次第に人々が 絶望的な現実を容認しつつ、支配し自由を奪う権力に抗うのも、人々のために 自分を犠牲に連帯する姿が描かれる。 人々は、自分たちの生きる街ごと国の方針で隔離され、日々の生活を支える 経済活動もできなくなっていた。その完全に自由を奪われた絶望の日々、 不条理を超えていくために現実と向かい合い(ムカイ)、受容と適応を 個人の内面で「実存化」していく。しかし、そうした個人的なサトリだけでは、 何もできない。人々は、全体が救われるためには、ついに「抽象」を無視する ことができなくなり、連帯して抗う道を選択することになる。そこにあるのは、 人のために自分が犠牲となるのも辞さないという「宗教的なサトリ」に近い ものがあった。 カタカムナ的に言えば、「ジツゾン」とは、「多様な状況が集まる中で、 現象界にいながら、外側に立つ自分の持続を感じ、そこからあらゆる可能性が 励起される力を感受できる状況」というのが妥当だろうか。 この意味から、「外的な不条理に対して、自分の意識の変容により、内的な 自由を得られる状況」とでも言えるのだろう。 カミユの実存的な文学は、この状況を得て、ペストという不条理を克服 しようとするが、そのためには、人々が互いに連帯しあって抗い、そこには 自らを犠牲にしながらという不条理な「抽象」を伴っている。 カミユにとっては、街を隔離した権力者と対等にものをいうことのできる 状況を作ったということでもあるが、その抗いには「人のために自己犠牲を 引き受ける側に立つ」決意を伴うことを「抽象」し、あたかも、カミユが 否定した有神論の世界と逆説的に相似している。 これは、「神」という概念に変わる「善なる絶対的概念」を人間が必要として いることを表しているように思えてならない。「リアルな神」として実際に 政治的文化的にも支配した欧米ヨーロッパの「神の支配」から逃れた実存 (ジツゾン)主義者の一人であるカミユ。また、同時に文学者でもあったカミユは、 「神という存在」をより個人的なものとしてとらえ、「内在化」する方向に無意識の うちに導いているようにも解釈できるかもしれない。それは、人々がより自由で 近代的な「自我」を持つ個として相互に認めあう世界観を創出するにも大きな助けと なったにちがいない。 もっとも、カミユの中では、無意識裡にある優れた感受能力により、 アマウツシが起きていたのであり、それを通して「カムウツシ」にある抽象を 感受し、あたかも「神への信仰」と相似する世界観を醸し出さざるをえなかった。 これは、逆説的ではあるが、矛盾ではない。 カタカムナ自体は、宗教でも何でもなく、あくまでも上古代人という彼方の 人々が感受した「思念」であり、天然の物理、サトリである。だからこそ、 そうしたカミユの感受をアタリマエに回帰させ、受け入れることだろう。