~~~いま、自然界は叫んでいる
稲田陽子
朝のゴミステーションの横をゆったりとした足取りで
歩いて行く者がいる。だれかが、スマホで撮影までして
いた。私を振り返ると、シーっというパフォーマンスを
してくる。シカが歩いているという。その瞬間、雄鹿らしき
動物が悠然と去っていく後ろ姿が見えた。
こうした光景は、最近珍しくなくなっており、ニュースでも
報じられる。私も、近くの自然公園で2回も遭遇している。
出没は、やはり食べ物を求めてのことだろう。それにしても
ここ2~3年のことではないだろうか。クマは話題になって久しい
一方、シカは新しい話題だ。里山の喪失も野生動物の出没を招く
ことになっている遠因ではあるものの、人間の側にも自然保護の
考え方も以前よりは浸透している。このため、動物たちも警戒心を
棚上げにして人間社会を見物に来ているような風情も感じられて
くる。
とはいえ、問題は、自然破壊が止んではいないことでもある。
いい意味での共生感覚が発展していくことが望ましいが、1970年に
開催された前回の大阪万博では、衝撃的な芸術作品「太陽の塔」が
出現したのは、いまの時代を暗示して余りある。当時は高度成長期を
背景に進歩と調和を謳っていた万博だけに、文明の進歩はそのまま
人々の夢や豊かさへのシンボルであった。
ところが、それから半世紀を過ごしたいま、時代は様変わりした。
楽天的な進歩には懐疑的となり、自然や地球の未来が懸念される
ようになった。しかし、人々は、それでも技術進化を捨てることは
ないので、A Iは、革新的な夢の対象となっているのは間違いない。
一説に、A Iが人間に似てくるのではなく、人間がA Iに似ようと
しているという人もいる。これは、愛情や意思決定までAIに依存する
可能性も見え隠れしないだろうか。SFのストーリーにはよくある
が、実際にそうしたものに翻弄されては元も子もない。
養老孟司さんが言っているように、人間も自然であるということは、
昔もいまも変わらない。岡本太郎が時代に残したレガシー「太陽の
塔」は、皮肉なことに1970年当時、万博のアンチテーゼとなった。
しかし、そこには、縄文の原始のエネルギーが渦巻いている。岡本
太郎の有名な言葉に「芸術は爆発だ!」というものがある。
「太陽の塔」はまさにそんな原始のエネルギーの大いなる発露と
なっているのである。
「太陽の塔」には、現在、過去、未来、そして内部には生命の樹が
表現され、人間の根源的な姿をメッセージしている。真の進化が
どういうものか、考えさせられるもので、現在、未来の地球へ
強烈なレガシーとなっている。今年の万博を機に、この大いなる
叫びが共感を呼び、人々の話題になっており、国は、この作品を
重要文化財に指定した。