~~~ご夫妻と旧アカデミーとの信頼関係、そして『ソマチッドと714Xの真実』をめぐって
稲田陽子
ネサーンさんの訃報は、今年の3月に萩原先生(イーハトーブ・
クリニック)からもたらされた。
ケベックの春を待たずに、2月16日に亡くなられたという。
「日本の皆さんにはまだ伏せておいてほしい」旨、ネサーン夫人の
意思もこの時伝えられた。その後、旧アカデミー(ガストン・ネサーン
アカデミー準備室)の元メンバー数名で意見合わせをしつつ私が文章を
仕上げることになり、ネサーン夫人宛のお悔やみ状を作成。それが
フランス語に翻訳されてようやくカナダに届けられたのは、遅い春を
迎えるケベックもすでに5月の声を聞いていた。
というのも、いつも心を配って「訪問団」の私たちを歓迎して
くださったネサーンご夫妻を想い、手紙の内容にも様々な配慮を加えた
ためでもあった。お悔やみが遅れた分、メールではなく心のこもった
お手紙として出したい、そんな思いがメンバーの気持ちにはあった。
そこで末尾には旧アカデミーの呼びかけでカナダ訪問に参加した
有志たちの名前も一緒に連ねられることになったわけである。
久しぶりの連絡には、旧アカデミー事務局の吉澤さんが奔走した。
さらにはカナダにいつも同行していた通訳者の都合がやむなく悪くなった
ために、代わりの翻訳者も見つけ出さなければならず、それには、
萩原先生が尽力された。
ようやく思わぬ山坂を超え投函されたネサーン夫人宛の手紙に、
それからしばらくして感謝を込めた返事が届いた。おそらく私たちの
ために何度も開いてくださったご夫妻の意義のあるセミナーの思い出を
大切に、軽くはない喪失の辛さと共存しながら、書かれたのにちがいない。
「すべての親族を代表して」という末尾の言葉には夫人の気持ちが
にじみ出ており、ご夫妻がビジネスを超え私たちに関わっていた
ことが心をよぎった。
ガストン・ネサーンさんは、その偉業にもかかわらず波乱に満ちた
生涯を送られた。その半生については『ソマチッドと714Xの真実~ガストン・
ネサーンを訪ねて』(稲田芳弘著/Eco・クリエイティブ刊)に詳しい。
この本は、2008年に最初のカナダ訪問をした夫、稲田がジャーナリスト
として『完全なる治癒』(クリストファー・バード著)を検証する意味も
込めて、ソマチッドや714Xなどネサーンさんの偉業を取材し、書き下ろした
もので、これにネサーンさん(特別寄稿)や萩原先生そして私の文章が
「寄稿」としてプラスされている。
稲田は執筆を、『ガン呪縛を解く』の中で紹介したネサーンさんの
研究に興味を持たれ、「ソマチッド基金」の発案者になった山田バウ
さんに強く勧められていた。ところが、奇しくも夫は、以前から「末期
ガンであれば、714Xを使いたい」という個人的な思いがあり、カナダへの
取材を通して自ら714Xを体験し、ガン患者向けの本を書くつもりでいた。
そのため、バウさんの勧めは、大歓迎だった。
ガン患者であった夫がこの書籍に取り組んだのは、二回目の訪問を
した2009年も秋を迎えていたころだった。このころになると、バウさんが
なかなか書き始めない夫に業を煮やして、ハッパをかけるようになっていた。
バウさんとは、神戸の大震災がきっかけで知り合い、ある意味で同志のような人
であったが、バウさんも腎臓を病んでおられ、透析があるため、カナダには
行かれなかっただけに、夫に託している気持ちにも強いものがあったのだろう。
もっとも、それ以上にソマチッド基金に協力してくださった方々への思いも
あった。これは、もちろん夫も同じである。
しかし、一見元気そうでも、私には、夫は無理をしすぎているように
思われた。実は夫の二回目のカナダ訪問には私は、断固として反対していた。
これに素直に耳傾けていたら、夫の運命は変わっていたのであろうか。
結局、夫は、すでにこの二回目の訪問で一つの選択をしてしまったのだろう。
それは、また一つの分かれ道をつくった。
ただ、夫は、私から見ても、千島学説に従って、かなり完璧に千島学説的
療法に取り組んでいた時期もあった。例えば、『ガン呪縛を解く~千島学説
パワー』をhpに連載をしていたころである。(※ガン宣告以来1年、ガン検診
に行き、進行ガンでもまったく進行していなかったことが実証された!)
本業も制限し、何も束縛なく執筆に専念できるそうした穏やかな生活を
送れたことが、夫の健康を支えたのは明らかな事実だった。そんな夫は
「ジャーナリスト」以外は肩書き嫌いで、根っからの「自由人」志願者だ。
これは、すべてにおいてクリエイブに生きることをよしとした「仕事中毒人
と見まごう生き方」であることを意味している。その上、非常に大雑把な
言い方だが、「運命を耕す」のではなく、「開拓する」方が好きなタイプ
でもあった。だから、それがために彼の生命が癒されるのと同じように、
脅かされたりもする。いわば、それは両刃の剣と言えた。
その夫が、ガン宣告を受けた時に口にしたのが、「末期になるような
ことがあったら、ネサーンに会いに行こう」というもう一つの「物語」を
暗示する言葉だった。ガンになってからは、企業からの仕事は一部を除き
制限し、ひたすら自分がやりたいものに限局しようとしていたのだから、
これまでもテーマを持ち書いてきたノンフィクションの執筆を、夫は
やりがいのあるものとしていたのは言うまでもない。
本業(企画編集会社)を制限しても、「良い仕事にはおのずと結果が
ともなう」というのが夫の持論だった。本当にその通りだ。
しかし、私の心中は穏やかではなかった。
「起きること、すべて意味がある」これは、夫のモットーのような
もので、最初は起きる現実をそれほど限定せず受け入れるのは夫の
十八番だ。その後、時間制限でもあるかのようにさまざまな意欲ある
「物語」を創っていこうとしていたようだが、いつまでもそれでは自分
の身が持たないではないか。私は、頼むから書くことだけに専念して
ほしいと、どんなに願っただろう。
結局、末期であるかどうかの確認はさておいて、「ソマチッド基金」の
流れの中で、夫は、二回もネサーンさんに会いに行ったのであった。
その結果、ネサーンさんの誠実な人柄、研究三昧の人生、世間に疎い天才肌の
研究者の姿、独創的な発明品であるソマトスコープのこと、それによる研究
成果であるソマチッドの生態や714Xのこと、そしてソマチッドの注入と太陽光
エネルギーで成長する肉片(バーベキュー用肉片)の事実など、興味深い
研究者の実像とその研究の実体が明らかになり、夫の思惑通り書籍となった。
私は、萩原先生が714Xに意欲的な医師として、夫がガン患者である
ジャーナリストとして参加した最初の訪問に同行した。仏語通訳者1名を
含む5名ほどのこの訪問でソマチッドのことも深く学ぶことができた。
その後数年続いた旧アカデミーの訪問も、通訳者のお陰も手伝って
この最初の訪問で培われた相互の人間的信頼が礎となったように思われる。
特別に開いてくださったセミナーではご高齢のネサーンさんに代わり
ネサーン夫人がもっぱら解説にあたり、時折ネサーンさんが補足する
というスタイルで、まさにお二人の夫婦愛が結実した「勉強会」を
作り出していた。
夫は、ネサーンさんの研究にも、結局無罪となった「ネサーン裁判」にも
大きな関心を寄せ、とりわけ、714Xにまつわる裁判問題には抑圧された
ネサーン側に立ち、氏を「社会的に封殺された科学者たち」(ref./『ガン
呪縛を解く』)の一人と捉えていた。
そういう意味からも、『ソマチッドと714Xの真実~ガストン・ネサーンを
訪ねて』は、ネサーンさんの研究成果はもちろんその人間としての全体像にも
迫るものとして刊行された。書籍は、いまも読みつがれ、この秋に完売の
ため重版が決まっている。
ネサーンさんが亡くなられたのは、2月16日。94歳になるはずの3月16日
までちょうど一ヶ月だった。夫の稲田も、誕生日のまさに一月前に天に
回帰した。偶然か必然か、何かの繋がりを感じ不思議な思いがする。
さて、不思議といえば、ハッとすることがある。
今日23日は、お彼岸の中日であっことに…。
ガストン・ネサーンさんとの類まれなご縁に深く感謝し、
氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。