~~~「ぼくに肩書きはない」…専門は「人間学」だったジャーナリスト その2
稲田陽子
時々、私の中で夫が三次元に存在しないことが不思議でならなくなる。
この感覚は、どうにもならないものである。
夫は、すでに「世俗」次元を離れ、魂的な進化に入っているのかも
しれないが、残された私の方は、多くのことを悟らなければならない。
夫は、ガンになったのも、不運な偶然の重なりであり、本来ガン体質の
人ではなかったのに、何故か「定命」に向かって、運命的に走り出している。
そもそも主に環境、福祉、人権、平和問題などをテーマとする
オピニオン情報誌であるエコろじーというニュースペーパーを
作ったところから始まっている。ここから、すべてが「お膳立て」されて
いたかのように、思わぬ「物語」が展開していった。
夫にはジャーナリズムに理想があり、フランスのルモンド紙をイメージ
しながら、「エコろじー」を企画し、執筆、発行した。この新聞への思いを
熱く語っていたことをいまでも忘れることはない。いつも、私たちは、
共感すると、すぐにその夢に向かって実行に移すことに夢中になる。
「現実」はその次に来る…世間一般の夫婦とはちょっと違うそんな
「夫婦」だった。もちろん、私もその書き手になることには二つ返事である。
これは、当時の朝日新聞に折り込みをしてもらったが、彼は、
民主主義の原点は、多様な言論を許容できる市民感覚にあるとしていた。
当然、権威に偏るマスコミとは一線を画す。
この市民感覚の強い新聞は、すぐに反響があり、マスコミから
切り捨てられた化学物質過敏症の親子から悲痛なSOSが入った。
いまでは禁止されているシロアリ駆除剤を使用した上、誤った使用方法で
工事が行なわれたために、親子は、大きな被害を被った。しかも、
1~2mほどしか離れていない隣家の工事ミスが原因でサリンの
仲間だというクロルピリホスの被爆をした。これは、当時の
「ニュースステーション」で報道されるはずだったというが、
どういうわけだか、土壇場になって、放映が中止されたという。
利権が働き、裁判に負けてしまったことが災いしたのだと、親子は言う。
そうであるなら、なおさら報道すべきだったと思われるが、
この詳細はどうなっていたのだろうか。
すでに米国で禁止されていた有毒物質が野放しで使われていた事実に対して、
企業にも行政にも責任はなかったのだろうか。裁判官の認識が問われるが、
その野放しの環境汚染で夫は大きな被害を被っている。まさに不条理な
「泣き寝入り」を強いられたことになる。こうした案件は、TPPに日本が
参入するとなると、企業側の権利が国よりも強くなるとも言われている
だけに、さらに増える可能性がある。
行き場を失った親子が頼ったのは、エコろじーという生まれてまもない
折り込みの「クオリティーペーパー」であり、私たちだった。当時、札幌市の
環境アドバイザーをしていたハイケさんというドイツ女性を取材したものを
読んで、親子はすぐに私たちに電話を掛けたのだという。私たちもまた、
即座に反応した。
被爆した家を訪ねると、10年近く経つのに、かなり濃厚に匂いが
残っており、空気清浄機の音がゴォーゴォーと響いている。夫は、
この家の戸棚に被爆の証拠品として保管してあった化学物質過敏症に
関する資料を借りてきたのだが、ここから染み込んでいたガスが、
めくるページから出てきていたことに夫は気づいていない。
このときに吸ったガスは、その後の夫の健康に大きな影響を与えたのは
言うまでもない。これは、私にも不毛のショックをもたらすに十分だった。
夫は、被爆事故という「マイナス」を拾ってしまった。ここが、
実はおよそ「平穏平凡」ではない晩年の人生航路の分岐点となったの
かもしれない。それは、あたかも解決され得ない不条理に関わる人生を
選択してしまった「運命」であるかのように、体温も低くなく、ガン体質では
なかった夫の晩年の人生を暗示するものであった。それを、私たちがどうして
知り得ようか。
しかし、マイナスをプラスに変えるのが、夫のマジックだった。
「起きることすべてベスト、起きることに意味がある」それが、
夫の信念である。
全身性の脂ろう性湿疹で入院するなど心身ともに疲れが出たその年の
締めくくりも、「被爆事件」でとんでもないことになっていたが、
時間が経つと、心の元気は回復していった。
この「事件」以来、ひどく疲れやすくなり、体調の方は思わしい
状態ではなかった。ガンの芽も、このころ出始めたのだった。
夫は、皮膚病くらいにしか考えていなかったので、始末に負えない
(苦笑)が、このときから、さまざまな「起きること」とともに、
10年以上ガンとの共存を果たし続けたことになる。幸か不幸か、私は、
夫の体力の回復と毒出しのために、厳密ではないが、この当時も
玄米菜食を実践していた。むろん、それ以前にも、不定期ではあっても、
玄米はわが家の食養に欠かしたことはなかった。
これほど酷いマイナスも、災いのままにしないのが夫の流儀である。
エコろじーは、夫が書く「笑む(M)」というHPと連動し、あるいは、
いまのHP「Creative Space」にもつながりながら、次第に評判になり、
共感者を増やしていった。この「エコろじー」は、いまでも在庫があれば、
欲しいというお問い合わせがある。
夫の話題は、化学物質汚染、ガン問題、鳥インフルエンザ、糖鎖関連、
狂牛病問題、千島学説、ワクチンなど多彩であり、私も気候変動、平和、
化学物質などの環境問題を追いかけた。
このころ明らかに取材で巻き込まれた化学物質中毒で、夫は
ガンの芽を作ったのだった。もう14年も前になった。
「起きることすべてベストだ」とした生き方には、想定外の
リスクを呼び寄せ、いつもその前方には果てしない多次元の
「荒野」が広がっているかのようだ。それは、すでに職業的な意味での
いわゆる「ジャーナリスト」の範疇を超えるものでもあった。
夫は、真のジャーナリズムを求めていたものの、実は、肩書きなど
どうでもよいと思っていたのは言うまでもない。その意味で、彼の
「専門」領域は、ジャーナリズム以上に「人間学」だったのかもしれない。
いつも彼は、何よりも「稲田芳弘」という「個」だったからである。
その「個」を主体に権力におもねることなく、「ジャーナリスト」を
その役割としたと捉えるのがより適切である。
だから、夫は、最期まで「荒野のジャーナリスト稲田芳弘」※の役割を
完璧に引き受け、天に回帰したのである。
※『荒野のジャーナリスト稲田芳弘
~愛と共有の「ガン呪縛を解く」』(稲田陽子著)