~~~視点が変われば、視界が変わる
最近後発性の白内障の手術を受けた。これは、 レーザーを照射する侵襲性の低いもので、翌日には 視力が回復してきた。この時、それまでの濁りで周りが 明るく見えなかったのが、すっかり様変わりして、 光がたくさん入ってくるようになった。と、同時に、 脳裏には、白内障で入院した時のことが蘇る。 見えないのが、見えるようになるというのは、こういう ことなのだと、感謝し、感動したものだった。光は、 明るく伸びやかであり、どこまでも新鮮だ。 手術の前日のこと、別のコンパートメントのカーテン越しに 患者の女性が看護師に翌日の手術のことを聞いている 声がはっきりとこちらにも届けられる。どんな手術なのか 質問しているようだが、不安で仕方がないのがこちらにも 重々伝わってくる。 その女性にしてみれば、ちゃんと聞かないとシュミ レーションもできないというわけである。私のほうは、 なるべく別のことを考えようにしていたから、この女性の シュミレーション話のほうが逆に「インパクトがある なぁ」(笑)と、思いながら、いつ話が終わるだろうかと、 携帯に表示される時刻を眺めていた。 どうやら女性は、目を使う音楽関係の人らしく、手術には 人一倍の神経を使っているのがわかる。こちらも目を使う 仕事をしている以上、よく理解できる。 翌日、神妙に手術を受け、私もその女性も視力を回復した。 光は、眩しいくらいにたくさん入ってくる。 手術翌日の外来で、声をかける人がいる。振り返ると、 その前日に看護師を質問攻め?にしていたあの女性だった。 その時、私に声をかけたのは、亡くなった姉と私が 同じ名前だったというのがその理由だと明かした。何か 不安なときに知っている人にでもあったような安心感が あったのかもしれないと、私も勝手な想像をして、前日の シュミレーション話(笑)を忘れることにした。 それで話が終われば、よくありそうな何気ない平凡さに 満ちたエピソードである。 ところが、話は不思議な方向に向かう。両眼とも手術を終えた 待合室で、お互いの過去が重なっていることを発見したからだ。 話がどこで折れ曲がったのかは定かではない。ショパン コンクールの話からだっただろうか。とにかくピアノの話題が 広がるうちに、その人と私が同じピアノの先生の弟子だったこと が浮かび上がってくる。その先生に習うのは、プロを目指すような目標を 持った人ばかりである。先生はコンクールの審査員を務められても いた。私は、三年ほど厳しかった「訓練」を受けていたが、進路を 変えたので、音楽とは縁がなくなっていた。一方、その人は、 しっかりとピアノ道に精進して、いまは指導者として歩んでいる。 しかも、私とその人は同学年で、全く同じ時期に「音楽修行」の ようなものに励んでいたことになる。その事実は、その当時は 会うこともなかったのに、二人を感慨深くするに十分だった。 実は、その頃、私はその先生が健在なのかとても気になって、 ネットで検索をしていた時期でもあった。 それに呼応するように「先生は、つい先頃亡くなったのよ」と、 その人は言い、私は先生が他界されたことを知らされた。 「生活のことは自分でできて、100歳まであと一歩だった」という。 このピアノの訓練時代に、私は自然と職人感覚を覚えた。 その後も、何かとそんな欲求が湧いてくるのだから、これは 一つの呪縛なのか、はたまたご褒美なのか…。しかし、曲を 仕上げる喜びは想像以上に大きなものだった。 そんな私だったが、「音楽修行」は、ましていろいろなことを 犠牲にしてまでやりたいことだろうかと自問自答したもの だった。確かに練習の果てに訪れる充実感覚とも言える 「自己満足感」は、何にも増して貴重な宝物のような気もして いた。メロディーの細い弾き方にもこだわりがあることを 学んで、面白さも感じる。 詳細は省かせていただくものの、ただ、自分に素直になれない のも、一つの呪縛にちがいない。 そうした呪縛を手放すことがまた一つの前進であり、 新しい可能性を切り開いていくのではないだろうか。 この時代に一生懸命心を傾けたことは、心に残るものであり、 力さえ与えるのだろうか。 その人との摩訶不思議な出会いは、私にはひどくミステリアス に思われた。方向を変え新しい道が開かれた私には、ある意味で 不満はない。むしろ、この出会いが私に改めて気づきのヒントを 与えるものだったとも言える。時を超えたつながりの暖かさも その一つだ。もちろん「先生が亡くなられた」ということを 知らせるだけのシンプルな現象がもたらされただけと言っても 不自然ではない。 ガンや病に限らず、呪縛はさまざまな場面で遭遇してしまう。 その都度、私たちはその呪縛を解いていくように導かれている ようでもある。それは、誰にでもある凡庸さの中の大切な歩み であり、眼病が治癒するようにそこにのびのびとした光が入って、 モノが見えるようになるのに似ているのかもしれない。