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1998年07月:「ヴァーチャル」の天性は、明るさとおおらかさ

 ヴァーチャルリアリティという言葉が、日本語の中に戸籍を獲得して久しい。それはほとんど「仮想現実」と翻訳され、現実らしくみせかけたニセモノ、そのくせ現実と虚構の見境を分からなくしてしまうやっかいなもの、といった否定的なニュアンスで多くの場合使われている。
 実際、TVゲームやアニメ映像、CG映画などの悪影響が批判されるとき、きまってこのヴァーチャルがやり玉にあげられるし、コンピュータで世界中をネットする国際金融経済なども、またヴァーチャルの名で呼ばれることがある。
 いまや大ブームのインターネットやパソコン通信等々も、当然ヴァーチャル(仮想)なコミュニケーションとして理解されているのであろう。
 要するに、ヴァーチャルとは怪しげでうさん臭いもの、得体の知れないお化けのようなもの、といった受け止められ方をしているのではなかろうか。だからこそそこに「仮想の世界に惑わされず、現実をきちんと見なさい」といった忠告が込められることにもなる。
 が、果たしてヴァーチャルは、本当に怪しげな存在なのだろうか。そんな疑問をふと抱くようになったのは、アメリカの友人とのメール交換でのことだった。
 メールの中には、ヴァーチャルオフィスとかヴァーチャルリポーターといった表現がどんどん登場してくる。が、そのニュアンスは、決して仮想とか虚構とかの否定的なものではなかった。

 Virtualという言葉は、そもそも「徳・善・美質・実質・長所・価値」を意味するVirtueの縁語で、本質的にポジティブな性格を持っている。そこには「virtualfocus=虚焦点・virtual image=虚像」といった光学用語もたしかにあるが、それは熟語としての特殊例であって、「virtual=虚」というわけではない。
 それなのに日本に移住してきたとたん、ヴァーチャルは突如として仮想・虚構の意味に変質してしまった。ヴァーチャル自体が化け物なのではなく、日本の精神風土が化かしてしまったのである。
 ちなみにVirtually ~と言えば「事実上こうだ・実質的、実際的にはこうだ」という意味であり、決して架空の話というわけではない。それは仮想や虚構というよりも、むしろ現実を強調するものである。
 もし「仮想」というのなら、Imaginaryのほうが適切であろう。事実、「実質=Virtue」の対語は「形式=Form」であって、形式(フォーム)のほうがはるかに虚構性をもつ。ヴァーチャルは「単なる外見・表面的なみせかけ」を意味するそのフォームの対語として、逆にポジティヴに使われているのである。

 ややこしい話になってしまった。ここで別に英語の勉強をしたいわけではない。ただ、ヴァーチャルがあまりにも日本で化けてしまったものだから、「彼はホントは明るいヤツなんだよ」と言いたかったにすぎない。彼は決して虚構でも仮想でもお化けでもなく、その心根はあくまでもポジティヴにして、その天性は「おおらか」なのである。
 問題は、なぜ日本にきたとたんに大化けしてしまったのかということだが、そのボタンの掛け違いは、ヴァーチャルリアリティという表現がCG映像といっしょに輸入されたことに始まるのではないだろうか。CGは現実以上の世界を現出してくれるだけに、そこに「虚」という概念がすっぽりはまりこんでしまったように思えるのだ。
 ヴァーチャルリアリティは多くの場合、「コンピュータによる」という意味を込められて使われている。早い話、ヴァーチャルは常にコンピュータとセットで語られるのである。しかしそれはひどく狭義な概念であって、たとえば赤いセロファンをゆらゆらと動かすことで炎をイメージさせることなども立派なヴァーチャルリアリティなのだ。そしてこの場合は仮想現実ではなく、実際に炎が揺らめいているようなリアルさのある光景ということになる。

 しかり、「仮想」ではなく「実際的、実質的にそう見える」ことが、まさにヴァーチャルリアリティの特技であり素性なのだ。だからウィンドウズのシステムでも、ヴァーチャルカラーとして256色を表示する。それは決して仮想の色というわけではなく、実際には無限色に近い画像をわずか256の色をもってそのように見えるようにしたものである。そしてそれ以上に精度の高いものをハイカラーと呼び、最高のフルカラーをリアルカラーと称している。
 興味深いのはアメリカでは印刷の色の品質でも、Good Enough Quality、Tea Table Quality、CabinetQualtyといった具合に三段階の品質に分けていることだ。そしてウィンドウズでのヴァーチャルカラーレベルが、印刷ではグッドイナーフということになる。ヴァーチャルはずばりグッドイナーフ。実際には本物の色とはほど遠いが、それでも実用に十分に耐えうるという意味である。

 このようにヴァーチャルには、どこおおらかさが漂っている。
 「ねっ、わずか256色でもちゃんとそれらしく見えるだろう?だったらそれでいいんじゃないの。それで良しとしなくっちゃ!」と…。
 そんな割り切り方と合理的な精神が、ヴァーチャルという言葉には秘められているのだ。そう、彼はいつも「オーケー、グーッド! グッドイナーフ」と、明るく茶目っ気たっぷりにふるまうナイスガイなのである。
 それなのに、日本でのヴァーチャルリアリティは、なんと不気味なイメージに彩られてしまったことか。
 素性はとても素朴でいいヤツなのに、彼はまるでお化けのように怪しまれている。それもあるいは日本という国が、長い長い間、実質(ヴァーチャル)よりも形式(フォーム)を重んじる社会だったからかもしれない。

 「ぼくは実際にこれこれができるんです!」、あるいは「わが社にはこういう実質的な技術があります!」といくら叫んでも、「ん?で、大学はどこ?」「会社の規模は?売上高は?」の一言で、フォームが貧弱なものを相手にもしてくれなかった日本。そうした形式や見かけ優先の社会体質が、いまだにバーチャル(実質)をうさん臭く思わせてしまうのかもしれない。
 が、立派に見えていたそのフォームも、やがて馬脚を顕わす時代となり、結局は実質がものをいう社会になりつつある。だからこそ、ぼくもヴァーチャルにまとわりつく怪しげなイメージを一新し、ヴァーチャル本来の姿を回復してあげたくなってしまうのである。

 ヴァーチャルリアリティとは仮想現実、しかもそれはCGの別名なりと錯覚している方々に、ぼくは日本の文化こそヴァーチャルリアリティの最先端と茶化したい気がする。
 実際、わずか17文字で季節感や情趣を繊細に表現してしまう俳句などは、もう立派なヴァーチャルリアリティであるし、宇宙や大自然の実相をシンプルな空間に凝縮した石庭や茶室などもそうであろう。
 それらはシンプルであってなおリアリティに富み、実物よりも鮮やかにその本質を映しだすことがある。そしてその場合のヴァーチャルリアリティは、当然コンピュータとは全く関係がない。

 まるでヴァーチャルの弁護人気取りで書いてしまったが、実際ヴァーチャルがその本来の天性に輝いてほしいとぼくは願いたい。なぜならヴァーチャルは「過剰な贅沢やムダはなるべく避け、シンプルで済むものはそれで間に合わそうよ」という合理精神の申し子であり、それこそが新時代に不可欠な資質と思うからである。

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