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沢口敏くんについて | 稲田芳弘コラム
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沢口敏くんについて

【このカレンダーを企画した趣旨】

昭和59年1月、洞爺湖湖畔で一人の小学生が、暴走車にひかれてなくなりました。

 その名は、沢口敏くん…。亡くなったあと、その短い人生の結晶として、67点の絵が残されました。

 絵が大好きだった沢口敏くんは、小学3年のときから絵の勉強を始め、わずか3年あまりの期間に数多くの国際的コンクールの入賞を果たしてきました。特に亡くなる前年、ユネスコジュニア世界児童画展に出展した作品は「個人最優秀賞」を受け、沢口くんはその将来性を強く期待されていたのでした。

 しかし無惨にも、沢口敏くんは交通事故によって亡くなってしまったのです。

 そして昭和63年9月、沢口くんのご両親によって「交通安全」を願う「沢口敏・遺作展」(HTB主催)が開催されました。会場を訪れた多くの方々は、敏くんの絵に感動し、同時に「交通安全への決意」を新たに分かち合いました。そして、その感動と決意をより多くの方々に……。

 それが、ここにカレンダーとして再現されることになった理由です。
 「描いたきみは、もういないけれど」…「交通事故の悲しみをくりかえさないように自覚し合おう」と、どうかそんな気持ちが育まれますように…。

 そのことを心から願いながら、ここに沢口くんの遺作によるカレンダーを制作させていただきました。

【沢口敏くんのプロフィール】

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1971年
洞爺湖温泉に生まれる
1980年
小学3年より大島忠昭先生の指導を受ける。
第13 回ユネスコジュニアアート展で「こいのぼり」が入選。8歳
1981年
第14 回ユネスコジュニアアート展で「剣道・先生の試合」が特賞。9歳
1982年
第14 回ユネスコジュニア世界児童画展で「重い雪」が入選。10歳
第14 回ユネスコジュニアアート展で「穴熊と犬」が特選。10歳
1983年
第15 回ユネスコジュニア世界児童画展で「版画をする僕」が入選。11歳
1984年
第16 回ユネスコジュニア世界児童画展で個人最優秀賞を受賞。11歳
個人最優秀賞「熊と犬」特選「材木を運ぶ舟」入選「きつねを追う犬」
1984年
1月31日朝、登校中暴走車による事故のため死去

【沢口敏くんのご両親を訪ねて】

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 洞爺湖から太平洋に向かう国道沿いに、沢口敏くんの育った家があります。玄関を一歩入ると、そこは「ミニ画廊」…。廊下や部屋いっぱいに敏くんの作品がところせましとばかりに並べられ、ここを訪れる人たちをこころよく迎え入れてくれています。

 「敏は私たち夫婦の生きがいでした。その敏が亡くなって、絵だけが残されました。いいえ、絵と同時に“交通事故を繰り返さないで!”という悲願も残されたことになります。だから絵を通して交通安全を訴えかけたいと思っています」

 この4年間、ご両親は「信じられない事実をなんとか納得する」事に努め、部屋中を絵でいっぱいに埋めて生活してきました。そして、その悲しみをいまや“交通安全への悲願”へと変え、新しい人生を力強く生きていこうとしています。

 「短い一生だったけれど、敏は私達以上の仕事をしたのかもしれません。もしこの残された絵が少しでも交通事故死をストップすることに役立つのなら、それも大きな仕事ですから。だから、親としては悲しみよりもうれしさを感じなければならないのでしょう。そう思いそう生きることがせめてもの供養だと思っています」

 言葉ではとても言いあらわしきれない心の痛み、それを越え、安全へのメッセージを一人ひとりの心の中に豊かに育てていくこと、「それがこのカレンダーの役割だと思います」とご両親は語っています。

【沢口敏君の遺作とその周辺】

 このカレンダーは、沢口敏君がその短い生涯を通して描き上げた合計67点の全作品の中から6点を選んで組みあげたものです。どの作品を見ても、そこに表現されているのは元気で明るく伸びやかな沢口君自身の姿。絵を見るかぎり、その彼がまさか交通事故の犠牲になろうとはとても考えることができません。それどころか、沢口君は絵を通して、私たちに“希望のメッセージ”を語りかけてくれているようにさえ思えます。

 沢口敏君は、とにかく大自然が大好きでした。まだ小さい頃からお父さんに連れられ、雪山に狩に行ったこともありました。そんなときいつも近くにいたのは3頭のアイヌ犬で、一人っ子の敏君はまるで犬たちと兄弟みたいに遊びながら大きくなりました。大自然を愛し動物たちを愛し、そして“自然児”そのままにすくすくと育っていった沢口君……。作品には、そんな敏君の姿が、生き生きと表現されています。

 もちろん木や草や昆虫たち、また花々も大好きで、特に花では大きなひまわりが気に入っていました。そしてその理由も、「太陽にまっすぐと向かって動いていく花だから」……。その言葉には、いつも大きく胸をはり、まっすぐに力強く生きていこうとしていた日々が語られているような気がします。そんな敏君に対して、お母さんは庭に毎年たくさんのひまわりを作りました。ご両親のそういった温かい気持ちに育まれ、敏君はまさに明るく素直に成長していったのです。

 こうした暖かい愛情で強く結ばれた親子は、よくいっしょにそろって出かけました。近くの野山はいうまでもなく、時には遠く小樽の水族館や、そして札幌のジャンプ競技などを見に……。カレンダーの中にも、そんなときの想い出がつづられています。敏君は作品を通して、あるいはその時の“親子の温かい想い出”をいつまでも残したかったのかもしれません。

 小学3年生の時から絵を本格的に学びはじめた沢口君は、りっぱな成績をとると、親子いっしょに東京の表彰式に出席できるということを発見しました。でも、まだ親子3人そろって上京したことは一度もありません。「いつか、きっと3人いっしょに行くんだ!」……、それが敏君の夢でした。が、3人いっしょに行くためには、よほどりっぱな成績をあげる以外に方法がありません。そんな親孝行の動機も手伝って、沢口君は一生懸命に絵の勉強を続けたのです。

 すでに何度も入選していたこともあり、どんな絵を描いたらよいかということも分かりはじめていました。カレンダーの表紙になった「熊と犬」の絵は、「これなら絶対に大丈夫!」という自信作でもありました。実際に、昭和59年度の第16回ユネスコジュニア世界児童画展にはこの作品をはじめ五展を出展し、そのうちの3点が見事に個人最優秀賞・特選・入選を獲得しました。ほんとうならこの時に、敏君の夢だった「親子3人いっしょ」の表彰式参加がやっと実現できるはずでした。

 ところが、喜ばしいその入賞の知らせを聞くこともなく、沢口敏君は交通事故で亡くなってしまいました。表彰式のその日には、沢口敏君の遺影を胸にしたご両親の悲しい姿がありました。そしてこの日を契機に、“親子3人いっしょ”の強い願いは、「絵」から「交通安全運動」の悲願へと向けられていったのです。

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