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1999年02月:減らすことでより多くをなすmore-with-lessing

 「昔々、みんなで一生懸命に学び、無我夢中で働きました。お陰で日本という国はお金持ちになり、技術もどんどん進みました。技術が進むと、それまで大勢でやっていた大変な仕事が、とても少ない人数や材料や時間、エネルギーで簡単にできてしまいます。そのぶん人々はのんびりでき、豊かになれるはずでした。
 ところが、実際にはそうはなりませんでした。それどころか仕事から開放された人々は、仕事のない不安に恐れおののくようになりました。みんなで作り出したはずの豊かさが、みんなのところに戻ってこなくなったからです。いったい豊かさはどこに吸収され、どこに行ってしまったのでしょうか」
 いま直面している世紀末的な不安を一言でいえば、こんな物語になるのではなかろうか。豊かな土壌と、いい気候に恵まれて開花、結実した果実がいつのまにか誰かに盗み取られてしまい、それまでの努力の恩恵が享受できなくなっている。要するに豊かな果実を分かち合うためのシステムが、どこかおかしくなっているのである。
 そのからくりには、究極的には実体経済と金融経済の関わり方なども関係しているのかもしれない。が、一個人として金融経済を論じてみても始まらないので、「一人の人間の人生」を例に、この問題を考えてみることにしたい。

 私たちの多くは社会人となるために勉強をし、やがてそれなりの職を得た。それは「食うため」の職だったかもしれないが、豊かな社会を築き上げる上でそれなりの意味を持っていたはずだった。しかも多くの者たちは必死で働き続け、せっせと知識や技術も身につけてきた。にもかかわらず、社会全体にいま不安が色濃く垂れ込めている。そしてその不安がサイフのヒモをしっかりと閉めさせ、ますます世の中をおかしくさせる方向に作用してしまっている。
 こうした悪循環から脱出するにはどうしたらいいのだろうか。これはもはや逃れることのできないアリ地獄なのだろうか。
 いやいや、そうではあるまい。というのも、不安の大きさをそのまま希望へと見事に変換し、全く新しい生き方と事業のモデルを提示してくれている事例を、社会のあちこちに発見することができるからである。
 例えば青梅慶友病院。この病院では「大往生の創造=老後の安心と輝きを創造する」をテーマに素晴らしい経営を行っている。一言で言えば、この病院では心から「あぁ、本当にいい人生だった」と思えるような有終の美を飾ることができる。一人の人間の長い人生の途上にはいいこともあれば嫌なこともあるだろうが、「終わりよければすべてよし」といった実感が持てるようにと病院全体で患者様をサポートし、患者様にはいうまでもなく家族たちからも喜ばれているのである。そう、慶友病院では患者は「患者様」なのだ。
 考えてみれば、人間だれもが人生の最後の一瞬くらいは心の底から「いい人生だった」と思いたいだろう。最後に恨みや後悔、不安や心配が残るようでは、とうていいい人生などとはいえるはずもない。しかし実際には、なかなかそういった心穏やかなハッピーな最後を迎えることはいまや難しい。下手をすれば家族や友人たちから切り離され、疎んじられ、プライドすら無視されて、病院や老人ホームでみじめな最期を過ごすことにもなりかねない。あるいはたくさんの医療機器やチューブにつながれ、スパゲッティ人間として人生を閉じることにもなってしまう。これではたとえ財産や名声を残したとしても、決していい人生だったなどとは喜べない。社会や家族のために必死で生きたその最期が、苦しくて寂しくて空しくては、とても豊かな人生などとはいえないであろう。

 慶友病院の大塚院長は、まさにそうした視点から病院のあり方を考えた。
 その動機は、「自分の両親を安心して入院させることのできる病院づくり」にあった。しかし現行の医療システムは、大塚院長の掲げる理想とはまるで違った方向に敷かれている。そのため理想の実現には、いくつもの困難な障害を乗り越えなければならなかった。
 社会のシステムや医療システムとずれる方向に経営を進めていくことは、きっと大変なことだったにちがいない。しかし、患者やその家族たちが大塚院長を勇気づけることになった。
 いまの医療は医師を中心とした医療ピラミッドが厳然と築き上げられているが、慶友病院では「患者様」を中心とした逆ピラミッドシステムが実に鮮やかに機能している。なぜなら医療はサービス業であり、それだけに「患者様=お客様」に喜ばれる医療であってこそ意味があると大塚院長は考えるからである。
 そのためここではさまざまなサービスが工夫されており、ちなみに病院側の都合で一方的に「給食」するようなことはせず、「フードサービス部」が患者様のために多彩なおいしいメニューを用意したりする。まずは徹底したサービスの実現、コストはあとで工夫すればなんとかなるといった姿勢がそこにはある。

 実際、その方法でさまざまな不可能を可能とし、慶友病院は見事に無借金経営をやってのけてきた。そしていま患者様の居住空間を倍化するための増築が行われている。それも、申請さえすれば出るお役所からの補助金には頼らない。下手に補助金を手にしたりしようものなら、自らの考える理想が実現できないと考えるからである。
 「これは私の趣味道楽なんですから、税金を使ってやったりしたらバチが当たりますよ」。
 大塚院長はそう言って笑う。医療経営が一段と厳しさを増してきているご時世でのその笑顔には、医療と事業の本来あるべき姿がずばり秘められているのではなかろうか。

 この事例は、本当に人々が求めているものを提供しさえすれば、事業も経営もちゃんと成り立つことを物語ってくれている。しかしそれには常識や規制のシステムを超えなければならないことが余りにも多すぎる。が、大塚院長は「何のための医療か、事業か?」と問うことで、自らの「趣味道楽」を勇気を奮って貫いてきた。「趣味道楽」というその表現には、自らの生き方、考え方に照れ笑いする響きがある、しかしその信念がいま世の中から評価されていることが実感できるからこそ、さらに前に進むこともできるのだろう。

 前回紹介したバックミンスター・フラーのキーワードの一つに、「モア・ウイズ・レスィング(more-with-lessing)」(減らすことでより多くをなす)というものがある。つまり技術の進化は、より小さなエネルギーや材料、時間の投入によって、人々の豊かさや幸せをより可能にしてくれるということだ。実際、慶友病院では発想とサービスシステムをチェンジすることだけで、お役所が用意してくれた数々の補助金もシステムも使わずに、より大きな成果を社会に生みだしている。また「大病院」などといった余計な社会的名声や評価などを求めずに、院長自らが「本当にいい人生だった」と実感できる趣味道楽に目標を限定して病院を経営してきたことも、more-with-lessingを実現させている理由の一つかもしれない。

 みんなで努力して生きてきたその結果が、不安で寂しいというのではたまらない。人類の進化はまぎれもなくmore-with-lessingの方向に向かっているというのに、現実はより大きな努力をしても多くは実らない。しかし、いつのまにか肥大してしまったそのおかしなシステムが、いまや音を立てて崩れつつある。そう考えれば、崩壊の不安が一方で新たな希望を灯してくれているように見えてくるのではなかろうか。
 経済や技術は決して目的そのものではない。それは幸せに役だってこそ意味がある。「老人力」が見直されてきた昨今、そろそろ「いい人生」を考えてみようではないか。

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