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1999年05月:逆転した教育事情…ああ、それなのに

 「これまでは売手市場だったが、これからは完全に買手市場。だから選ぶ主体が逆転する」
 文部相で局長をやっていたX氏は、今後の大学受験に関してこう語る。これまでの大学入試は大学が学生を選別するための手段だったが、出生率が低くなってきたこれからは、大学が選ばれる立場に置かれてしまうというわけだ。
 こんなことはあえて言われるまでもなく、単純に全大学の学生募集総数と受験生総数を比べてみれば誰にも分かることだ。
 ちなみに平成四年に二〇五万人いた受験生が、二〇〇〇年には一五一人万となり、その後も現在の赤ちゃんの産まれる数は年間一二〇万人だから、進学希望者数は当然これ以下になる。さらに出生率が低下し続ければ、この落差は一段と大きくなっていくはずだ。
 ということから、大学は激しい顧客(学生)獲得競争時代に突入しており、このままでは大学経営が困難になる。そこで自ら大変身しなければならなくなる。黙っていても学生が殺到してくれた恵まれた時代は、もう昔話になったのだ。

 出生率の低下に加えて、もうひとつ大きな潮流が生まれ始めている。それは大学の「出口面」での急激な変化である。これまでの企業の多くは、人材募集の条件に「大学卒」というレッテルを重要視してきた。それも名門であるればあるほど価値があった。人間そのものよりもレッテルを評価し、信用して社員を選んできたのである。
 しかしこのレッテル信仰も、いまやどんどん風化しつつある。
 ソニーなどの場合は、もうかなり以前から出身大学名を伏せたまま人材評価をしてきたという。こうした動きは今後さらに加速度を増し、最終的には「大卒」すら問われなくなるだろう。となれば、いったい大学って何のために行くところのなの?と問われてくることにもなる。

 こうして出生率の低下と大卒信仰の風化が、大学経営をますます危機に追い込んでいく。
 「だから入試の時代はもう終わり。これからは大学と学生のお見合いの時代なんですよ」。
 文部省元局長のX氏はこう語る。
 お見合いとはそれぞれが実際に会って、それぞれの魅力を発見し合う場だ。となれば、大学にも学生たちにも共にステキな個性が求められてくることになる。
 ところが、「いまの教育システムでは個性教育はまず望めません。そこで教える内容を三割がた減らして、今後はゆとりのある義務教育が行われることになります。もちろんフリースクールも認められます。個人的な意見を言えば、私は大学入学検定試験制度すら不要だと思っています」
 なぜ教える内容を減らすのか、その理由は、
 「無理に教えても消化不良を起こすだけで、なんの栄養にもなっていない。それどころか不登校とか学級閉鎖などといった不幸な副作用が続出するばかり」。だから「これからは全く逆の方向に動きだすことになる」とX氏は強調する。

 文部省の頭脳部で、こうして画期的な方向転換が図られようとしている。
 にもかかわらず父兄の側は、相変わらず従来の慣性に身を委ねたまま動いているようだ。すなわち、「教える中味を減らす」と文部省が宣言すれば「それでは子供の受験が心配、不安」と反応し、子供たちをますます学習塾に追いやっていくというわけだ。「これでは元の木阿弥なんですけどねぇ」とX氏は苦笑する。
 親が子供たちに塾通いを強いる動機は、子供の将来を思ってのことであり、子供の幸せを願ってのことだろう。しかしいまや環境は大きく変わり、その出口には幸せどころか不幸が待ち受けているかもしれない。いや問題は将来の不幸ではなく、いまの不幸を強いていることだ。遊びたい盛りというのに夜遅くまで塾通いとは、多くの子供たちにとって不幸以外のなにものでもないだろう。
 こうした思いこみの悲劇はこれまでにも多々起きてきた。例えば青春を犠牲にして花形産業に飛び込んだはずだったのに、飛び込んでみたらそこはすでに斜陽産業だったこともある。これにはかつての海運、造船、石炭、鉱山、繊維等々、最近では銀行、証券など金融産業も含まれる。
 バブルもまさに思いこみの悲劇に終わった。ぼくの友人にも四億円の資産がそのまま四億円の借金に逆転したケースがある。こうした悲劇をもたらすのは、決まって時代全体を覆う熱病ともいうべき空気だ。空気に支配されるまま流されていったら、常にとんでもないことが起きてしまうのだ。

 話を戻そう。そう、教育の話である。これまでの教育は企業にとって必要な人材や、国家に求められる人材を養成するための効果的な手段になってきたが、そこにはともすれば「個人の幸せ」という視点が抜け落ちていた。ピラミッド社会の上部層にもぐり込むことができた人ならいざ知らず、国民全体の幸福論は教育でほとんど無視されていたのではなかろうか。
 ということから、ここで「教育っていったい何のために必要なの?」という疑問が改めて浮上することにもなる。それは仲間と競争して勝つためのレースなのか。それとも人間を、それもみんなを幸せにしてくれるためのものなのか。
 その答はあえて言うまでもない。教育から個人の幸福論が抜け落ちてしまっては全く意味がない。

 ここでの「教育」という言葉は、「経済」あるいは「仕事」に置き換えて考えることもできる。
 すなわち、国家や企業のための経済(仕事)、あるいは競争して勝つための経済(仕事)から、人間、それもみんなを幸せにしてくれるための経済や仕事にシフトしていかない限り未来はない。このことは大学経営でも全く同じで、単に市場競争を勝ち抜くために擬似個性化を図ってもほとんど意味がないだろう。なぜなら学生たちとのお見合いは決して目的ではなく、単なるきっかけにすぎないからである。目的はあくまでも「相互の幸せな人生」の実現にある。

 こうした視点から、実はいまあちこちで大学改革が盛んに起き始めている。
 国際的文化人類学者として名高い山口昌男氏が新学長となった札幌大学も、その一つだ。
 新学長は新任のメッセージに「海賊大学構想」を提唱した。これは文字どおり大学のキャンパスを市民に乗っ取ってもらおうというものである。
 すなわち土日祭日を市民に開放し、そこでセミナーや講演会、サークル活動などをどんどんやってもらう。この構想はこれまで毎週開催してきた市民参加型オープンセミナーの拡大版でもあるわけだが、とにかく大学をエキサイティングな出会いと学びの媒体にしていこうというわけだ。
 この海賊大学での講師に公的な資格など不要。面白くて意味のある話ができる人なら、誰もが自由に簡単に講師になれてしまう。そしてその人気が、長年教授というレッテルに安住してきた教授たちを刺激し、揺さぶることにもなっていく。
 また「ニセ学生、モグリ大歓迎」というのも山口学長のモットーで、そのココロは「学生証ではなく、学びたい意志のある者こそが真の学生」とか。こうして大学がいま大きく変わり始めている。

 ああ、それなのにそれなのに、子供たちの父兄、それも特に母親たちの意識はいまなお厳としてレッテル信仰に呪縛されている。その出口にピラミッド社会が崩れていることを知ったとき、子供たちは奪われた青春の不幸を嘆くのではなかろうか。
 繰り返すようだが、これからの教育は売手市場である。だから売れる個性を磨くことこそが求められてくる。その証拠に大失業時代とは言われても、しっかり「売り物」を持っている人たちは引っ張りだこだ。失業でうろたえている者の多くは個性や技術をもたない均質的な人材であり、彼らもまた「空気社会」の中で行われてきた教育の犠牲者と言えるかもしれない。

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