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2000年01月:ご破算で願いましては…

 湾岸戦争の直後にお会いした糸川英夫さんは、一九九〇年代を称して「ご破算で願いましては…の一〇年になるだろう」と予告した。
 「ご破算」とは、それまで続いていた一連の複雑な計算が終了して、再び新しい計算を始めるために、ソロバンの珠をいっせいにゼロに戻すという意味である。

 いまここに迎えた西暦二〇〇〇年…。ゼロがずらりと三つも並ぶこの年は、まさに「ご破算で願いましては」として始まる、新しい計算の出発の年となるにちがいない。
 ところでゼロに戻る、いやゼロに戻すということは、いったい何を意味しているのだろうか。それはたぶん物事の本質を見据えるということだろう。
 例えば「経済って何のこと?」とか「幸せってどういうこと?」など、これまでほとんど考える必要のなかったものを一つ一つ考え直すようなものだ。
 早い話、これまでの常識やら社会通念やらを、まっさらな気持ちで新たに見つめ直していく。というのも、従来の「信」がことごとく私たちを裏切り始めているからである。
 糸川さんの「逆転の発想」ではないが、「ご破算」から再び新しく始まるこれからの世紀は、価値観に完璧な逆転劇が起こってくるように思えてならない。そしてその最も象徴的なものが「信」の崩壊のように思える。

 これまでの社会は「信」こそが最高の美徳であり、そこに成長も繁栄も幸せも喜びもあった。
 しかしよくよく考えてみると、「信」とは他者に依存することであり、他者(信じる対象)におんぶして自らの運命を預けること。そこには真の自立も自己責任もない。「信」は美しい行為に見えて、その実、自己放棄・自己犠牲・責任回避・他者依存の別名でもあったのである。
 「信」を重んじた結果、何が起こったか。
 それは閉鎖的な集団主義の横行であり、それぞれの集団から誕生する「信徒」同士の競争やぶつかり合いであり、被洗脳であり、人生喪失であった。だからこそゼロが並ぶ二〇〇〇年に、「ご破算で願いましては」と「逆転の計算」を新たに始めなければならなくなるのだろう。

 二〇〇〇年というめでたい年に、「信は人を不幸にする」などと言うのは不謹慎極まりない話かもしれない。が、「信」の逆転として「不信」や「疑い」を勧めようとするものでは決してない。「信」は「人の言」と書き、自らの体験や判断なくして無批判に他者の価値観を受け容れることを意味する。ということから、ぼくの言いたい「信」の逆転概念とは、「自らが体験し判断した言葉」を持つということなのだ。
 人は本来それぞれ違い、それぞれの考え方を持つ。そんな個々が勝手に「自らの言葉」を発したとしたら、一丸・一致団結の集団組織はまるで成り立たない。が、ご破算後の新しい時代は、剛直な「信」ではなく、柔軟な「共感・共振」によって織りなされていくであろう。そしてこの両者の決定的な違いは、真のイニシアティヴ(自発性)の有無にある。
 それにしても真の自発性とは非常に難しい問題である。「キミは本当は何がしたいの?」と聞けば、多くの人々はそれなりの願望を述べるであろう。が、果たしてそこに本当の自発性があるのだろうか。それは単に社会の空気や流行によって誘発されただけのものではなかろうか。

 ミッシェル・フーコーは近代の権力の本質を「自ら進んでするようにし向ける権力」としている。つまり近代の権力は決して何かを無理強いしたりはせず、逆に、人々に優しく、厳しく、情愛に満ちて理性的に働きかけるのだという。要するに「踊らせる」のではなく「踊ることを可能にしてあげる」のだ。しかもそのために一人一人に注意を払い、一人一人の面倒を見る。そこには黒々とした権力の影などほとんど見えない。
 これを称して「パストラルの権力(牧人・司祭、羊飼いの権力)とフーコーは言う。早い話、羊飼いはヒツジ一匹一匹に気配りすることで「信」を勝ち取るのだ。そして群全体を自ら企図した方向へと巧みに誘導する。その意味で「信」はパストラルの権力を行使する引き金とも言える。

 ところがその「信」がここに来て馬脚を現し始めた。「笛吹けど踊らず」の世代の出現はそれをシンボライズしているかのようだ。パストラルの権力は教育と訓練を通して調教(誘導)することを目指したが、その教育や訓練にどうしてもなじめない若者たちが急増しているのだ。
 つまり新しい世代は「調教される」ことにしぶとく抵抗を示す。「キミのためだよ」という大人たちの説得に「うるせぃなぁ、余計なお世話だよ」と冷ややかな眼差しを向けるのみである。
 どうしてこんな現象が急増してきたのだろう。これに対して大人たちは「わがまま・自分勝手・甘え・大人になりきれない」などと顔を曇らし、「これでは将来が心配」と心を暗くする。なるほどこれまでの「計算」ならその通りであろう。が、これは「信」のご破算のプロセスにおける必然的な現象かもしれない。若者たちは調教によってではなく、自らのイニシアティヴで自らの人生を生きたいと思っているのかもしれない。
 その証拠に、学校を嫌い、就職を嫌い、仕事を嫌い、対人関係や利害関係を避ける彼らが、好きなことには夢中でのめり込み、その結果ものすごい事をやってのけたり素晴らしい能力を発揮したりもする。そんな彼らは人付き合いは下手でも幸せ顔そのものだ。そもそも競争(勝敗)原理や優劣の原理には従っていないから、平和そのものでもある。
 このような世代が社会に広がっていくとき、そこにはいまとは全く違った関係性の秩序が形成されるかもしれない。さまざまな「信の崩壊」が相次ぐなか、新しい芽生えが始まっていると感じるのは、果たしてぼくだけであろうか。

 歴史的なミレニアムの結節点にあって、一千年前に芽生えた新たな芽を思い起こすのも意味があるだろう。
 一千年前は果たしてどんな時代だったのか。
 歴史書をひもとけば、それは平安時代がピーク点を越え、「武士らしきもの」が誕生した時代だった。以後、鎌倉、戦国、江戸時代、そして近代に目覚めて明治維新、今日へと続く。この一千年を大胆(乱暴?)にもひと括りにすれば、それは「武士=力の論理」でブルドーザーのごとく突き進んできた一千年といえそうな気もする。
 「力の論理」は競争して勝つことを最大の目的とする。それには組織力が不可欠だ。個人はあくまでも組織(集団)のコマにすぎず、個々は明快な序列に組み込まれ、そこに初めて組織の秩序と安定、成長等々が約束される。つまり、力(武力・経済力)の優劣が秩序維持の基本にあった。秩序は力による支配によってもたらされてきた。まさに「武の力学」がこの一千年を支配し続けてきたのだ。それも、安心して人生を生きていくためには、集団・組織に所属しなければならなかったからに他ならない。

 私たちは長い間「社会や集団の空気(常識や社会通念)」に呪縛されてきた。個人の力は無力であり、だからこそ村八分を恐れて集団力学に身を委ねてきたのだ。「長いものには巻かれろ・寄らば大樹の陰」、それが生きていくための掟であり、絶対的な規範であり、必要条件だった。しかしここにきて、徐々に「個の自立」が芽生え始めた。というより「大きな集団」の問題点が露わになり、いよいよソロバンの珠をゼロに戻す「ご破算で願いましては」のときを迎えたとは言えまいか。
 二〇〇〇年の頭からラディカルな話になってしまった。しかし個々のイニシアティヴは無視できない。それには「信」への誘導ではなく、どうやら共感ネットワークの創出が不可欠のようだ。

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