1998年08月:軽くなりたがっているココロもカラダも

 世の中には、理解に苦しむ奇怪な現象が多発している。それは特に世代間のギャップとして浮上してきており、おじさん族としてはただおろおろするばかり。が、若い世代の新感覚を無視しては、もはや企業も社会も成り立たない。
 問題は、その新感覚とは一体なんぞやということになろうが、ぼくはそれを「無重力感覚」と呼んでいる。
 そう、それは「重力社会の秩序」を無力化し、従来の価値観をことごとく空洞化してしまうもの。なにしろ彼らは重要なものを軽くあしらってしまうから、とにかくこれはやっかいだ。
 この「無重力感覚」なるものを理解するには、まず「重力感覚」を説明しなければなるまい。が、重力感覚というのも実はぼくの勝手な呼び方で、一言でいえば「重いことはいいことだ」という価値感覚である。
 ちなみに「重」の字の付く言葉をざっと拾いあげてみると、重要・重点・重大・尊重・貴重・珍重・重厚・慎重・重恩・重宝・重責・重任・重役・重臣・重鎮・重用・自重・荘重などなど、「重」はとにかくいい意味で使われることが多い。よくない意味で使われる例は、たぶん重病・重症・重傷・重体・鈍重・重婚?くらいのものであろう。

 「重いことはいいことだ」という価値観を強調するためには、他方で「軽いことはいけないことだ」とも言い続けなければならなかった。
 実際、軽率・軽蔑・軽視・軽薄・軽浮・軽薄・軽侮・軽少・軽賎・軽猾・軽躁・軽挙妄動・軽佻浮薄等々はすべて良くないことを意味しており、いい意味の使用例としては軽快・軽鋭・軽便・軽妙くらいしか見つからない。こうして見ると、いかに「重」が「軽」に比べて優位な立場に君臨してきたかがよく理解できるのではなかろうか。
 口が軽い・尻が軽い・考え(思慮)が軽い・行動が軽い等々もその人の存在そのものを軽んずるものであり、人が立派な大人に成長していくにはとにかく重くならなければならなかった。「足軽から身を起こし、重臣、重鎮に出世」することこそ、まさに人生の成功方程式だったのである。

 言葉遊びはこれくらいにして、「重力感覚」なるものについてもう少し考えてみよう。「重い」ということには、実は「大きい」ということも暗に含まれているのだ。つまりは、大きいから重い。長い時間をかけて歴史の年輪を刻み、大きく重く均整のとれたものに成長したものこそが尊重され、重厚な風格を誇ることになったのである。
 そしてそのシンボルともいうべきものがピラミッドで、それは大きくて重くて均整がとれているほど美しい。だからこそ国家も社会も企業も集団も、すべてが美しいピラミッド組織を目指した。
 ピラミッドは統合、秩序、安定、均整(バランス)の象徴であり、また権威、権力、支配、組織力、効率、合理等々の別名でもある。それは天に向かって美しく屹立するものだけに、頂点を目指して精進努力邁進する競争原理がその美学となった。その結果、優劣、強弱、大小、上下、貧富なども生みだされたが、そもそもピラミッドは「だからこそ美しい」と考えられてきたのである。

 こうして重力の美学が圧倒的に社会を支配し続けてきた。しかしいまそのピラミッドが壊れ始め、「無重力感覚」が浮上しつつある。それも社会があまりにも重くなりすぎて、そのなかで窒息し、呪縛され、押し潰されつつあることをそれぞれが本能的に感じとっているからであろう。だから「翼をください!」と叫び、誰もが鳥のように自由に飛びたいと願う。重厚はもはや「美」ではなく、心も体も、軽くなりたがっているのである。

 「無重力感覚=浮遊感覚」は、こうして子供たちや若い世代にどんどん浸透し始めている。いや大人だって、本当は翼が欲しかったのだ。自分の好きなことを自由に楽しみ、好きなところに気軽に楽しく飛んでいきたい。しかしピラミッド社会にあっては「気軽」は許されなかった。丁重にマナーを重んじ、慎重に行動してこそ、初めて物事の分かった大人として認定されたからである。

 それに比べるといまの若者たちはとにかく軽い。組織の重圧を感じるやたちまちフリーターとなり、また明日への蓄積を重ねることよりも、いまを軽快に楽しんでしまう。実際、W杯サッカーに興味があれば仕事もそっちのけで飛んで行き、ウン十万円のチケットであっても惜しみなく手に入れる。その姿は「軽いことは楽しいこと」と、まさにこれまでの価値観に逆転して生きている感じだ。

 ところで浮遊空間での特徴は、上下感覚がまるでないということだ。それもそのはず、無重力空間ではどんなに重いものでもプカリプカリと浮かんでしまう。そこでは上下の関係性はすっかり消え、また重くて大きくて強いものが必ず勝つといったこともない。横綱曙と小さな女の子が押し合っても、どちらも浮かびながらただゆっくりと離れていくだけなのだから。
 ピラミッド社会=重力社会では上下関係が重要視されてきたが、若者たちの浮遊世界では、逆に上下関係こそが忌み嫌われる。親も上司も先生も、下手に偉ぶったりなどしようものなら「なにを偉そうな」と反発を食らう。そこはすべてが相対化された、自由でフラットな世界なのである。
 そしてまさにそのことに、多くの大人たちが不安を覚え、心配をする。
 このままでは秩序が成り立たなくなり、調和の美も失われてしまうと…。
 が、その本音は自分の得た優位なポジションが崩れ去る怖れにあるのかもしれない。ピラミッドの上位に位置している者は、やっぱりその美しいピラミッドを守りたいのである。

 というのも、浮遊空間での唯一の頼みどころは「自分そのもの」なのだから。そこでは組織や所属の看板はほとんど通用しない。それぞれが裸の個性やフィーリング、相性でつながり合い、形式よりも中身や実力が大きな意味を持つことになる。浮遊空間は「個人」と「自立」が基本になる社会であり、それだけに個人や個性を殺して組織に隷属してきた者には住みにくい世界なのである。
 ここでの「重力&無重力感覚」とはもちろんメタファー(隠喩)である。地球には厳として重力が働いており、その下で自然現象も仕事も暮らしも営まれている。しかし情報や意識や価値観の世界では、いままぎれもなく無重力化が進行し始めている。インターネットもパソコン通信も「重=ピラミッド」ではなく「軽=浮遊ネットワーク」を基本に日々営まれているのである。

 ここまで環境が変化した以上、「重」への郷愁ももはや時間の問題であろう。
 実際、ピラミッド組織は徐々に解体され、いまや個人を基本としたネットワーク機能に変貌しつつある。またデフレスパイラルの渦中では、とにかく責任も借金?も重いのは苦しい。デフレの到来までもが、こうして「重」から「軽」へのシフトを促している。
 重力感覚から浮遊感覚へ…。これが昨今の環境変化の軸ではなかろうか。
 とすれば、企業経営も否応なく変わっていかざるを得ない。その変革に必要なのはまず上下関係の呪縛からの開放であり、個々人が自由に自発的に羽ばたけるオープンな環境を創りだしていくことであろう。なぜならそのとき初めて「オレはいったい、なぜここでこんなことをしているのか?」と、仕事の目的も見えだしてくるからである。
 上からの管理や重圧は苦しいが、自ら発見し自覚してやる仕事は楽しい。
 要するに浮遊感覚とは、興味あることを自らが発見し、楽しく自由に追い求めていくことと見たり。
 そう考えると「軽い若者たち」の言動にも、また別な希望が見いだせるのではなかろうか。

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