1998年12月:宙返り何度もできる無重力

 ディスカバリー号から向井千秋さんが、「宙返り何度もできる無重力」と、おつな歌を地上に投げてきた。で、下の句を作れと言う。
 「それにつけても金の欲しさよ」ではさすがに寂しい。無重力空間からのこの歌に、いったいどんな言葉を投げ返したら宇宙的な響きが生まれるのだろう。

 そんなことを考えていたら、あるところから「若い人達に読ませたい一冊の本」というテーマで何かを書けと要求された。「若い人達に…」というその裏には、要するに「おじさんのキミから」という言葉が隠されている。なるほど、確かにぼくは歳は食っている。が、「若い人達へ」という発想の裏側にある年寄り扱いに、ぼくはなんとなくいじけてしまっていた。
 もう一つ、歳に加えて夢やロマンも食い続けてきたぼくとしては、「一冊の本」というのもしんどかった。好奇心旺盛といえば聞こえはいいが、雑食主義で雑多な本を食い(読み)散らかしてきた身にとって、一冊のみを選ぶことには戸惑いを覚えてしまうのである。
 一冊ねぇ…、なかなかの難題だ。が、迷いに迷ったその果てに、迷わずに?「これだ!」と言えそうな本といったら、やっぱりバックミンスター・フラーの本ということになるだろうか。それも『フラーがぼくたちに話したこと』辺りがふさわしい。なぜならフラーはその中で、「世の中や大人たちの常識のワナにはまってはいけないよ」と、純な子供たちに語りかけているからである。こうして天の邪鬼のぼくは、編集者の意図にあえて逆らうかのような本を選ぶことになった。

 フラーは科学者、幾何学者、発明家、建築家、デザイナー、教育者、詩人、哲学者、思想家、プランナー等々、実にさまざまな肩書きを持つ20世紀の天才である。にもかかわらず、なぜか日本ではあまり知られてはいない。彼の設計したあのフラードームが日本の象徴富士山頂に建っているというのに、フラーその人は決して有名ではない。しかし、「宙返り何度もできる無重力」とくれば、やっぱりその下の句に、ぼくはフラーのことを歌い込みたくなってしまうのだ。

 というのも、彼こそが「宇宙船地球号」という言葉を作りだした張本人だからである。彼は地球を宇宙空間に漂う一艘の船としてとらえ、地上から宇宙をではなく、宇宙空間から地球とそのシステムを考えた。そしてこの「宇宙船地球号」という概念からやがてエコロジカルなものの見方がすくすくと育ち、いまやガイアの思想にまでたどりついた。地球も一個の生命体であり、すべてがつながりあって生きているというこの思想は、環境問題を考える際の根っこでもある。そして彼が作りだしたもう一つの概念「シナジー」も、また新しい科学に新鮮な息吹を与えることになった。
 ということは、フラーは20世紀に生きながら、すでに21世紀的な思考法を身につけていたということだ。が、彼はあまりにも時代を先走りすぎていたために、常識人(特に日本の)から敬遠されるはめになったのだと思う。実際「エコロジー」が一般化する数十年も前に、彼はすでにそれを自らの思想の核に据えていたのである。
 しかし20世紀がどん詰まりにきたいま、フラーのメッセージがいよいよ輝きだしている。彼は現代人、特に価値観や常識を踏み越えなければならないおじさん族に、深いメッセージを送ってくれている。そのメッセージは「目からウロコが落ちる」がごとき新鮮な驚きに満ち、そこから新しい時代が見えてくる。フラーこそ、私たちを新世紀に誘ってくれる人物なのだろうとぼくは思う。

 ぼくがフラーと初めて出会ったのは二〇数年前のこと、その数年後、ぼくは日本を離れてヨーロッパ、アフリカへと旅立った。
 日本を離れてみると、いかに社会の常識が特異でいびつなものであったかが良く分かる。いや、それは決して日本人だけのものではなく、人間社会そのものが宿命的にもっている因業のようなものに思えた。その体験以来、フラーはぼくの思索の友になった。
 フラーは「人がこう言ってる」とか「常識ではこうだ」というものすべてを疑い、自分が本当に考えたことだけに目を向けた。権威のある学問や科学をも疑った。そして彼独自の全く新しい宇宙論、画期的なシステム論を生みだしていった。
 フラーを語りだすときりがない。が、なぜ彼はそう考えたのか? なぜそんなユニークな発想を持ち得たのか? 彼はいったい何者であるのか? この点だけは語っておく必要があるだろう。

 フラーは実にさまざまな顔を持っているが、その本質はやはり詩人であろう。そして詩人としてのその資質は、彼が自殺を決意したときに突如開花した。死の直前に、懊悩の核が一挙に溶解し、彼は宇宙と生命の本質的な何かを見てしまったのである。そのときから、彼は詩人になった。
 もし彼が単なる科学者だったとしたら、詩人の魂は獲得できなかったであろう。が、彼は自殺といういかにも人間的な誘惑にかられた瞬間に詩泉を掘り当て、以後ユニークな科学や技術やアイデアを次々と発表していく。このエピソードは、すでに神話化されているようにも見える。が、その人間くさいドラマにこそ、現代人の心に響く何かが潜んでいるような気がしてならない。
 つまり「天才フラー」は、「煩悩フラー」でもあったのだ。自殺を決意するほどに人生を悩み抜き、その果てにすべてを吹っ切った。彼は人間を「経験の目録」として考える。悩みも失敗もすべて経験の目録として織り込まれ、それが宇宙的な意味を新たに紡ぎ出すことになるというのである。

 フラーは私たちに、こんなふうに語りかける。
 「三角形を描いてごらん。そうそう、うまく描けたね。キミはいま、実は宇宙に二個の三角形を描いたんだ。一つは目の前にあるその小さな三角形。そしてもう一つは、その外部に同時に描かれた、宇宙サイズの三角形だよ。つまり、キミは小さな三角形を描くことで宇宙を二分した。キミは宇宙全体に影響を与えたことになるんだよ!」
 フラーはどんな小さな存在でも宇宙と関わり、宇宙に影響を与えていると指摘する。そう、個々の経験の目録をうまく使いさえすれば、誰もが宇宙サイズの人生を生きることができるというのだ。このメッセージには、どこか宗教的な薫りもある。しかしフラーは、あくまでも具体的なシステムやデザインを通じてそのメッセージを現わした。

 富士山頂に建つ気象観測ドームもその一つ。そこには「より少ない物質やエネルギーで、より多くのことを成すデザイン」が鮮やかにメッセージされている。実際、山頂まで建築資材を運び上げるのは大変な仕事だ。が、フラーはその難題を、具体的なデザインやシステムを描きだすことで、なんなくこなしてしまう。彼は宇宙や自然の究極のパターンとデザインを見てしまったからこそ、あのシンプルで合理的なカタチとシステムを開発することができたのだ。
 富士山頂は激しい台風や吹雪に襲われる。しかしフラードームはいまなお健在だ。それにしてもフラーがいま生きていたとしたら、厳しい環境に耐えてなお強く美しく機能する組織や社会のデザインをいったいどんなふうに描き出すだろうか。古いシステムが崩れつつあるいま、フラーが妙に懐かしい。大変革の途上にあるいま求められているのは、あるいは宇宙と人生の本質に触れた詩人、そしてデザイナーなのかもしれない。
 「宙返り何度もできる無重力」
 …そこからは、無邪気に子供のようにはしゃぐ向井さんのさまが伝わってくる。その楽しさはやがて祝祭のダンスにも移るだろう。歌と踊りは情感表現の究極のカタチ、ということから、下の句には
 「フラー(浮螺)ダンスもやがて始まり…」と歌いたい気分だ。

1998年11月:YESかNOか……それが問題だ!

 毒入りカレー、毒入りポット、毒入りウーロン茶、毒入り缶コーヒー、毒入り○○…と、ここ最近毒入り食品事件が世を騒がしている。その怖さは、おいしいはずの食品が生命を脅かすものに変貌してしまうこと。が、たとえ毒入り食品を食べたとしても、「おかしいぞ!」と思って咄嗟に吐き出した者は、かろうじて一命をとりとめた。
 この場合、「おかしい!」と思って吐き出すのは身体そのものであり、人間の身体は、毒物や異物が入ってくると咄嗟に吐き出すように作られている。吐き出すことによって生体を危険から守ってくれのだ。
 「吐き出す」知恵、これは食品だけに限らない。嫌な体験やむかつく感情、愚痴や不平不満も絶えず吐き出し続けられる。
 会社帰りに暖簾をくぐり、酒の勢いを借りて愚痴や悪口を吐き出すのも、またその知恵の一つであろう。毒物や異物をそのまま体内に留めていては、やがて毒が回り、異常が生じる。おかしなものは、やっぱりいち早く吐き出してしまったほうがいい。
 その一方、吐き出さずに飲み込み、時間をかけながら「毒を薬へ」と変えてしまうメカニズムも実は私たちはもっている。とうてい承服できない待遇や言動(毒)を、そのまま黙って飲み込み、ゆっくり少しずつ中和させ、あるいは薬に変えていく方法だ。が、この場合、自らの内にその能力が備わっていなければならない。それなしで飲み込んでしまったりすれば、やがては激しいストレスや鬱病に悩まされてしまうことにもなる。

 ということから、毒物や異物は吐き出してしまうのが何よりも安全、ということになろう。しかしここで問題なのは、何が毒物・異物であり、何が安全なものかを見極めるその識別・判断能力であろう。
 自分にとって何がYESであり、何がNOなのか…。それを的確に識別してくれるのが、すなわち「免疫力」ということになる。
 さて、「免疫」を辞書で調べてみると、
(1)〔疫病を免れる意〕生体が自己にとって健全な成分以外のものを識別して排除する防衛機構。伝染病などに一度かかると、二度目は軽くすんだり、まったくかからなくなったりすること。
(2)何度も経験して抵抗を感じなくなること。「中傷記事には―になっている」
 とある。が、ここではあえて「自分にとって安全なものにYES、危険なものにNOと判断して、即座に対応する能力」と考えてみたい。

 そう、免疫とは、早い話「YESとNOをはっきりさせること」なのだ。
 こいつはYES、あいつはNOと。
 免疫からすれば、それこそ「イヤならやめろ」だし、「ダメなものはダメ」なのである。自分の本当の気持ちを鮮明にせずに、躊躇したままに何もかも受け容れてしまうと、まさに大変なことになってしまうからである。

 が、これまでは「何でも受け容れる」ことが高く評価されてきた。「あいつはつぶしが利く」とか「どこに出しても心配ないやつだ」といった具合に。
 だから企業や組織はエリートにゼネラリスト教育を施したし、上司も「イエスマン」を優遇した。組織でNOと言うことは、サラリーマン(組織人)失格の烙印を押されることでもあった。
 しかし、イエスマンはストレスを溜め続ける。酒で吐き出しても間に合わないほどになる。限度を超えればプッツンも起こるし、無気力症候群にも陥ってしまう。こうして「NOと言えない社会」は酷くストレス度の高い社会となってしまった。
 その結果生まれたもの、それは「無個性化」ということではなかったか。レストランでの食事でも「何でもいいよ」という友は楽にして便利ではあるが、つかみどころがない。逆に、「これはイヤ、これもイヤ」という友は、わがままで処しがたくも思うが、好みだけははっきりと分かる。この事例から強引に法則?を導き出すとすれば、やや乱暴だが「なんでもYES=無個性」「NOの連発=個性的」ということになるのかもしれない。

 これからは「個性化の時代」とよく言われる。となれば、「NOの連発」もまた必要ということであろう。が、上司にNOなどといえばたちまちリストラの憂き目に遭う危険があるし、また得意先にNOと言えば仕事を失う恐れもある。それは倒産、失業多発時代にあっては、やはり避けなければならない。
 とは言っても、単なるイエスマンの延長ではストレスが溜まるばかり。ハムレットではないが「YESかNOか、それが問題だ!」といったジレンマに落ち込んでいるのが、現時点の個人と企業の偽らざる姿のような気がする。

 これで終わってしまっては、このエッセイも単なる紙の無駄遣いで終わってしまう。そこで最初のテーマに戻って考えてみると、「YESかNOか」の悩みは、実は免疫の本質的な問題でもあったのだ。というのも環境はどんどん変化していくから、免疫機構も当然それに柔軟に対処していかなければならない。
 そこで生体が考え出したのが「敵(毒)を味方(薬)に変えてしまう」という秘術だった。なぜ免疫が「毒を薬に」してしまうのかは不明だが、人間には生来ちゃんとそういった能力が備わっている。だから免疫力さえ高まれば、どんな環境変化にも対処することができるのだ。

 敵(毒)を味方(薬)に変えてしまうメカニズムが備わっているという事実は、「どんな環境変化にもめげずに、生きよ!」という鮮烈なメッセージが、生命にはプログラムされているようにも思える。旧約聖書でもそのことが綴られており、神は創造したばかりのアダムとイヴに対して、まず「Befruitful!(実り豊かたれ)」とメッセージした。これが神様が人間に与えた第一の(根源的な)祝福である。豊かな結実を見るためには、健やかな成長が大前提だ。だから毒をも薬に変えてしまう力を、私たちは与えられたのであろう。
 こうした文脈からすれば、「YES(受容)が進化を促す」ともいえる。「何が起きても平気」という生き方が免疫力を高めてくれるのだ。
 その一方、NOとはっきり意思表示することも、個性を磨いていくのに効果的といえるだろう。もっとも全部が全部NOならば存在すること自体が無理だろうが、NOを連発しながらも徐々にYESと心から断言できる自分の領域を見つけだしていく。それが見つかりさえすればサクセスで、そここそが自分の生きるべき場所ということになろう。
 「自分(自社)ならではの場所・才能=天の才」が発揮できれば、人生は楽しいし、面白い。その意味では無責任のようだが、「YESもよし、NOもまたよし」ということになりそうだ。

 しかしもう一度免疫に立ち返ると、免疫とは「自己にとって健全な成分以外のものを識別して排除する防衛機構」であるから、まさに「NOといえる免疫」なのである。そして「NOといえる」ということは、はっきりと自分自身を知っている(自己にYESと言える)ことでもある。
 「己を知る」ということは己の個性を知る、天の才を知るという意味であろう。ということからすれば、本当の自分を見捨ててイエスマンとして生きる生き方は自殺行為に等しいといえるかもしれない。
 とかく世の中は、NONONO!と否定したくなるほどの鬱陶しい現象に満ち満ちている。が、その中からほんの一つだけでも心から「YES!」と思えることが発見できたとしたら、そこから自己発見の旅が始まる。
 その意味でNONONOの環境は本当のYES(自己)を見つけだすチャンスを密かに用意してくれているのかもしれない。そう考えれば、「NOもまたYES」ということになろうか。
 まるで禅問答のような結論に落ち着いてしまったが、毒入り食品事件が頻発する時代は、これくらい鷹揚に構えたほうが免疫力が高まるというものであろう。

1998年09月:「RE」の時代……より遠く、遙かな地点へ

 その一。久々に同級会に参加したら、青春時代の若々しい気分に戻れた。旧友たちと想い出話にふけっていたら、なぜか元気があふれてきた…。そんな体験がきっと誰にもあるにちがいない。
 何十年ぶり?に会う顔は、最初はなかなか思い出せるものではない。人間の顔とはこうも変わってしまうものかと、自分のことはさておいてびっくりもさせられる。が、時間が経つにつれ、目の前の顔の奥から徐々に昔の懐かしい顔があぶり出されてくる。そのときには、自分の顔も気持ちもまた、すっかり若い時代に戻っているのだろう。
 その二。ふと見つけた古いレコードを何気なく聴いていたら、遙か彼方に消えかけていた遠い想い出が蘇ってきた。そうだ、この曲はあの場所で、あの人といっしょに聴いた曲だった。あのころの自分は貧しかったけど、夢だけは輝いていた…。
 いきなり懐かしい曲に出会ったりすると、なぜか急に涙があふれてきたりもする。涙は時間の落差のぶんだけ勢いを増す。かすれた記憶が一挙に蘇り、滝のように流れ落ちるからかもしれない。

 その三。故郷の訛りや文化など、自分自身の存在証明のようなものに出会ったりすると、そこからある種の匂いが漂ってくる。その匂いは、まるで安らぎの場所へと連れ戻してくれる呪文のようだ。人は異郷の地をさすらうほどに、故郷の匂いや香りを懐かしむのだろう。実際、タジキスタンで殺された秋野豊さんも、危険な日々にあって安らぎの香りに恋い焦がれた。タジキスタンのアパートから送られてきた電子メールには、「鞄の奥から飲み慣れたリヒト珈琲を見つけだし、ペンチで砕いて懐かしく味わった」ことが淡々と綴られている。その香りと味わいには、きっと珈琲以上のなにかが秘められていたにちがいない。

 人間の五感は、絶えず「いま」を受信し続けている。五感は「いまこの瞬間」の環境をデリケートにキャッチするレーダーであり、そこから受信される情報が、ひらめきや思いや思考を誘い出す。
 が、単なる「いまのリサーチ」の連続だけでは、人はともすれば感受性疲労、思考疲労を起こしかねない。だからこそ、人はときとして「より遠く・より遙か(昔)・より根源」へのダイナミックなリターンを衝動してやまないのだろう。
 同級会も古いレコードも、また故郷の匂いも、すべてダイナミックなリターン現象と言えるだろう。いや、それは心の中や意識の世界での出来事なのだから、リメンバー現象というべきだろうか。それはともかく、人は「より遠く・より遙か・より根源」へのリターンを通してリフレッシュする。その理由は「そこ」に立ち返ることにより、「いま」がより鮮明に見えてくるからかもしれない。

 やや遠回りな言い方をしてしまったが、今回考えてみたかったテーマは、「REの効用」である。実際昨今の社会では、なんと「RE」が重要なキーワードになってきていることだろう。
 リターン(return)リメンバー(remember)リフレッシュ(refresh)リラックス(relux)リサイクル(recycle)リフォーム(reform)リユース(reuse)リニューアル(renewal)リピート(repeat)リクリエーション(recreation)リヴァイバル(revibal)リスタート(restart)リセット(reset)等々の「REから始まる言葉」がいまや世の中にはあふれ返り、企業の経営でもリストラ(restructuring)リエンジニアリング(re-engineering)リインベンション(reinvention)リデザイン(redesigne)等々が、次代に生き残るための不可避の課題になっている。
 また政治でも刷新・改革(renovation)革命(revolution)リコール(recall)等々が熱っぽく語られ、さらに歴史的文化的領域でも、見失われ、見捨てられてきた価値観へのルネッサンス(renaissance)が声高に叫ばれている。
 いまという時代は文字通り「REの時代」、すなわち「より根源的な地点へのリターンの時代」と呼ぶにふさわしい。

 ところで「RE」には「再び・元へ・…し直す」などの意味があり、何かに行き詰まったときには必ずといっていいほど「RE」が衝動される。
 日本語の「初心に帰る・原点回帰・基本に立ち返る」なども、まさに「RE」のココロであろう。これは迷ったときの人類的英知なのかもしれない。

 こうした視点から「リストラ(restructuring)」を考えて見るとき、昨今社会に横行するリストラは果たして的を得ているのだろうか。それは本来リストラクチャリング、つまり再構築であるべきだが、日本ではどうやら「首切り・人減らし・減量経営」の意味で使われているようだ。
 「わが社でもリストラ風が吹いていてねぇ」などというときのリストラは、決まってそれで、要するに企業は人を切り捨てて生き延びようとしているのだ。それは企業の「ダイエット」といえなくもない。

 しかしダイエット(diet)とはそもそも「常食、(病人の)規定食、食餌」の意味であって、せいぜいが「新陳代謝」的な効果しかもたらさない。早い話、贅肉を落としてスリムな健康体に戻ろうとする試みだ。
 ということは、企業はこれまで常食を食べてこなかったということか。いつもご馳走ばかりを食べ、グルメに走り、あるいはゲテモノを食らってきたということなのだろうか。その結果肥満体となり、糖尿病あるいは血圧が高くなった。このままでは心臓もおかしくなり、肝臓や腎臓だって危ない。いや、ガンに冒されているかもしれない。だから食事療法をとり入れて、元の健康体に回復しようということなのだろうか。

 いや、企業はダイエット程度の処方ではなく、ずばりリストラクチャリング(再構築)を必要としているのだ。そのためには「より遠く・より遙か・より根源」へのリターンが必要となる。つまり「いったい何のための事業だったのか?」とリメンバーし、そこからダイナミックにリ・クリエイトする営みが求められているような気がする。
 言葉で言うのは簡単だが、しかしリ・クリエイトするというのは大変なことだ。少なくても単なるリターンで済むはずがない。メタファーとしてはそれはたぶん昆虫のメタモルフォーゼ(変態)のようなものであろう。
 すなわち、青虫が成長してサナギを作り、殻の中でそれまでの青虫の組織をドロドロに溶かし、そこから全く新しく成虫としての組織を組み上げていく。そうしたメタモルフォーゼのプロセスがいま必要なのではなかろうか。これは決してダイエットなどといったものではない。それは文字通りのリストラクチャリング、リ・クリエイションの営みそのものである。

 友人の心理学者と「REの効用」について雑談したことがあった。彼は言う。「REの本質とは、繰り返すこと(リピート)なんだろうね。で、リピート、つまり絶えず元にリターンし続けるというのは、いわば死に続けることさ。人は死の境地にまでリターンすることによって生の意味と目的が再発見できる。そこから癒しが始まるんだよ」
 同級会や古いレコードでリフレッシュできるのも、「そこ」に立つことによって「いま」の位相が見え、癒されるからなのだろうか。「いまの位相」とは確実に死に近づいているという事実である。若いときには夢や希望しかなかったが、しかし歳月とともにそれらは消えていった。が、その一方で「なんのための人生、なんのための事業(仕事)なのか?」という根源的な意味だけは鮮明に見えだしてきている。そしてその地点から発想するとき、初めて真の意味でのリストラ、リ・クリエイションが可能になるのかもしれない。
 とはあれ「REの時代」は「もの思う季節」である。どうせなにかを考えるとしたら、思い切ってより遠く、より遙かな根源的地点からいまの自分と事業(仕事)を考えてみたらどうだろう。

1998年10月:悩めるときの応援歌・全勝の果てに自分がいる!

 不景気、倒産、リストラ、失業、金融不安、異常気象、水害、毒物事件等々と、いま日本列島には暗いニュースが満ちあふれている。その日本列島の上空を物騒にも弾道ミサイルが飛び、さらには世界同時株安現象が地球を走る。
 こうなると、「生き残れないかもしれない」という寒々しい思いが体の中を吹き抜け、将来への不安がいよいよ高まる。「日本列島総不況」はすでに政府公認の言葉だが、「総不況」というよりはむしろ「総恐怖」。どうやら「不況」は「怖驚・怖叫・腐凶・負恐」のレベルにまで達しつつあるらしい。
 そんななか、ますますそれぞれの運不運が鮮明になりつつある感じだ。運不運という感覚は面白いもので、いったん「俺は運が悪い」と思ったとたんに、どんどん不運の渦に飲み込まれていくものらしい。
 反対に「運は運を呼び」といった現象もあるほどに、幸運が雪だるまのように膨らんでいくこともある。あるいは、不運な出来事をも「良かった!」と思うことで、新たな幸運に恵まれることもあるだろう。
 世の中ではこれを称して「プラス志向・ポジティヴスィンキング」などというが、なるほど起きてしまったことをいくら嘆いてみても仕方ない。人生で起るすべての現象にプラスマイナスの両面があるのだから、不遇に遭遇した場合でも、ポジティヴに自らの内なる幸運を見つけ出したほうが利口というものだろう。

 考えてみれば現在の不良債権も、バブル期にあっては宝物のように輝いて見えていたはずだ。輝いていたからこそ、多くの人々は希望を込めてそれに投資したのだろう。
 その反対に投資するだけの資金も担保もなかった者は、いま「皮肉な幸運」を噛みしめているにちがいない。こうして、時間が経ってしまえば運は不運となり、不運もまたたちまち幸運に転化する。それくらいに運不運は気まぐれで表層的なものなのだ。それだけに、たとえいま逆境のど真ん中にあったとしても、「不運を嘆く自分がここにいる」ということ自体が、逆説的ではあるが最高の幸運なのではなかろうか。

 思春期の頃、自分という存在をつくづく不思議に思ったことがある。
 なぜこんな田舎に生まれ、なぜこの時代に生まれなければならなかったのか。なぜ日本に?なぜこの家に?この両親の元に?…。いくら考えても答はない。
 そのとき、「自分の力で変えることのできないものは、潔く素直に受け容れるしかない」と思った。その一方で、自分の努力で変えることのできるものもいろいろある。若さのぶん、可能性は限りないくらいに開けていた。大切なことは、いったい何が変えられないもので、何が変えられることなのか、そのことを見極める目ではないかと思ったりもした。
 しばらくして父から戦争当時の話を聞いた。父の世代は一網打尽に軍隊にとられ、そして多くが戦死した。しかし、父は徴兵を免れた。父はやむをえざる家庭の事情もあり、「戦争に行かなくて済む資格を取る」という選択肢を選ぶことによって、かろうじて徴兵を免除されたのである。
 その結果、ぼくが生まれた。もし父が戦争に行っていたとしたら、ぼくはこの世に存在していなかったかもしれない。その父の父親(祖父)もまた、日露戦争から奇跡的に生還したらしい。そのことを考えてみただけでも、自分という存在はいくつもの幸運が重なった結果だったことが分かる。わずか二代前からの歴史を見ただけでも、そこにはしぶといサバイヴァルの血が流れている。
 父は軍隊を免れて生き残ったが、激しい戦闘を経て生き残った者も多い。そしてむしろそのほうが、運が強かったとも言えるだろう。なぜなら厳しい逆境や苦難ほど、強運を味方につけなければ生き残れないからだ。

 そうした視点から人類の歴史を考えてみると、そこにはおびただしい試練や苦難が幾重にも折り重なっている。人類の歴史は決して戦争のみならず、天災、飢餓、疫病、事故等々の幾多の苦難に見舞われてきた。そのなかで圧倒的多くの人々が無惨にも死に追いやられていったのである。
 にもかかわらず、「ぼく」に連なるすべての先祖が、その試練や苦難のすべてを見事にくぐり抜けて生き延びた。少なくとも「子を残す段階」までは生き続けた。
 それは十世代や二十世代レベルの話ではない。人類が始まった最初から連綿と続いてきてぼくに至るまで、すべての先祖がことごとく天災、飢餓、疫病、戦争、事故等々のあらゆる危機を免れて子を残したのである。その途上のほんの一人だけでも、もしも子を残す前に死んでしまったとしたら、いまぼく自身がここに存在できなかったことになる。
 ここでは「ぼく」としているが、これはいま地上に存在している「すべての人」に共通して言えることだ。そう、すべての人々が、過酷な試練や苦難に打ち勝って見事に勝ち残ってきた先祖を持っている。私たちに連なるすべての先祖たちが、すべてがすべてなんとか成人して子を残してきてくれた。だからこそ、私たちもいまここに存在できているのである。

 このことはいったい何を意味しているのだろうか。
 それは、私たちの遺伝子には「厳しいサバイヴァルの戦いに百パーセント勝利してきた!」というメッセージが書き込まれているということだ。
 運不運ということからすれば、これほど素晴らしい幸運もない。私たちのすべてがものすごい強運の血統とパワフルな遺伝子情報を持ち合わせていることになる。もちろんそれは、激しい「受胎競争」での勝利をも内包している。

 仕事や事業上の成功や失敗も確かに大事なことかもしれない。が、それは、飢餓や戦争、天災、疫病などでの生死の危機と比べれば、実に些細なことともいえるだろう。だから、落ち込んだときにはぜひ思い出してほしい。「自分の中には百パーセント強運の遺伝子が息づいているのだ」と。

 こんな激励のエッセイを書いてしまったのも、たぶん「もう俺はダメだ」といった感じの弱音を、周辺で頻繁に聞いてきたからかもしれない。いや、実はこれは自分自身への応援歌でもある。そしてその歌は「内なる声」として響いてくる。「変えられないもの」に潔く自らを明け渡したとき、そして「変えられるもの」を「変えてみよう!」と勇気を持ったとき、それは頭脳や知識の論理的回路からではなく、連綿と書き込まれてきた遺伝子からの原初的メッセージとして、心の深層に太く確かに響いてくるのである。
 とは言っても、「俺は強いんだ!」と無理に空元気を出すのはやっぱりよくない。あるいは肩をいからして「わが社は絶対に勝てるはずだ!」と盲信的に思いこむのにも無理がある。
 運不運も、ポジ・ネガも一つの現象や物事の表裏であるのだから、どちらかに偏ってしまってはバランスが崩れる。その意味では、陽気(ポジティヴ)でもなく、陰気(ネガティヴ)でもなく、何が起こっても「平気」であること。そのときに、そこに内なるサバイヴァルパワーが働くのではなかろうか。

 何が起こっても平気であるためには、いくつもの選択肢が発見できる目が不可欠だ。「これがダメだったらそれがあるさ、それもダメだったら、あの手でいくか」と。実際、「これがダメだったら人生は挫折」ということなどにはまずならない。成功者はむしろ、失敗や挫折に直面して柔軟に臨み、見事好機をつかみ取ってきたのである。
 その意味で、ぼくは過度のプラス志向にはどうもなじめない。それよりは「うまくいっても平気、失敗しても平気」でありたい。
 こう言うと「情熱がない・責任感がない」とも言われそうだが、下手な情熱や責任感の結果、破滅へと直進するよりはいいだろう。オープン、柔軟にして自然体、それが変化の時代を生きる知恵とはいえまいか。

1998年08月:軽くなりたがっているココロもカラダも

 世の中には、理解に苦しむ奇怪な現象が多発している。それは特に世代間のギャップとして浮上してきており、おじさん族としてはただおろおろするばかり。が、若い世代の新感覚を無視しては、もはや企業も社会も成り立たない。
 問題は、その新感覚とは一体なんぞやということになろうが、ぼくはそれを「無重力感覚」と呼んでいる。
 そう、それは「重力社会の秩序」を無力化し、従来の価値観をことごとく空洞化してしまうもの。なにしろ彼らは重要なものを軽くあしらってしまうから、とにかくこれはやっかいだ。
 この「無重力感覚」なるものを理解するには、まず「重力感覚」を説明しなければなるまい。が、重力感覚というのも実はぼくの勝手な呼び方で、一言でいえば「重いことはいいことだ」という価値感覚である。
 ちなみに「重」の字の付く言葉をざっと拾いあげてみると、重要・重点・重大・尊重・貴重・珍重・重厚・慎重・重恩・重宝・重責・重任・重役・重臣・重鎮・重用・自重・荘重などなど、「重」はとにかくいい意味で使われることが多い。よくない意味で使われる例は、たぶん重病・重症・重傷・重体・鈍重・重婚?くらいのものであろう。

 「重いことはいいことだ」という価値観を強調するためには、他方で「軽いことはいけないことだ」とも言い続けなければならなかった。
 実際、軽率・軽蔑・軽視・軽薄・軽浮・軽薄・軽侮・軽少・軽賎・軽猾・軽躁・軽挙妄動・軽佻浮薄等々はすべて良くないことを意味しており、いい意味の使用例としては軽快・軽鋭・軽便・軽妙くらいしか見つからない。こうして見ると、いかに「重」が「軽」に比べて優位な立場に君臨してきたかがよく理解できるのではなかろうか。
 口が軽い・尻が軽い・考え(思慮)が軽い・行動が軽い等々もその人の存在そのものを軽んずるものであり、人が立派な大人に成長していくにはとにかく重くならなければならなかった。「足軽から身を起こし、重臣、重鎮に出世」することこそ、まさに人生の成功方程式だったのである。

 言葉遊びはこれくらいにして、「重力感覚」なるものについてもう少し考えてみよう。「重い」ということには、実は「大きい」ということも暗に含まれているのだ。つまりは、大きいから重い。長い時間をかけて歴史の年輪を刻み、大きく重く均整のとれたものに成長したものこそが尊重され、重厚な風格を誇ることになったのである。
 そしてそのシンボルともいうべきものがピラミッドで、それは大きくて重くて均整がとれているほど美しい。だからこそ国家も社会も企業も集団も、すべてが美しいピラミッド組織を目指した。
 ピラミッドは統合、秩序、安定、均整(バランス)の象徴であり、また権威、権力、支配、組織力、効率、合理等々の別名でもある。それは天に向かって美しく屹立するものだけに、頂点を目指して精進努力邁進する競争原理がその美学となった。その結果、優劣、強弱、大小、上下、貧富なども生みだされたが、そもそもピラミッドは「だからこそ美しい」と考えられてきたのである。

 こうして重力の美学が圧倒的に社会を支配し続けてきた。しかしいまそのピラミッドが壊れ始め、「無重力感覚」が浮上しつつある。それも社会があまりにも重くなりすぎて、そのなかで窒息し、呪縛され、押し潰されつつあることをそれぞれが本能的に感じとっているからであろう。だから「翼をください!」と叫び、誰もが鳥のように自由に飛びたいと願う。重厚はもはや「美」ではなく、心も体も、軽くなりたがっているのである。

 「無重力感覚=浮遊感覚」は、こうして子供たちや若い世代にどんどん浸透し始めている。いや大人だって、本当は翼が欲しかったのだ。自分の好きなことを自由に楽しみ、好きなところに気軽に楽しく飛んでいきたい。しかしピラミッド社会にあっては「気軽」は許されなかった。丁重にマナーを重んじ、慎重に行動してこそ、初めて物事の分かった大人として認定されたからである。

 それに比べるといまの若者たちはとにかく軽い。組織の重圧を感じるやたちまちフリーターとなり、また明日への蓄積を重ねることよりも、いまを軽快に楽しんでしまう。実際、W杯サッカーに興味があれば仕事もそっちのけで飛んで行き、ウン十万円のチケットであっても惜しみなく手に入れる。その姿は「軽いことは楽しいこと」と、まさにこれまでの価値観に逆転して生きている感じだ。

 ところで浮遊空間での特徴は、上下感覚がまるでないということだ。それもそのはず、無重力空間ではどんなに重いものでもプカリプカリと浮かんでしまう。そこでは上下の関係性はすっかり消え、また重くて大きくて強いものが必ず勝つといったこともない。横綱曙と小さな女の子が押し合っても、どちらも浮かびながらただゆっくりと離れていくだけなのだから。
 ピラミッド社会=重力社会では上下関係が重要視されてきたが、若者たちの浮遊世界では、逆に上下関係こそが忌み嫌われる。親も上司も先生も、下手に偉ぶったりなどしようものなら「なにを偉そうな」と反発を食らう。そこはすべてが相対化された、自由でフラットな世界なのである。
 そしてまさにそのことに、多くの大人たちが不安を覚え、心配をする。
 このままでは秩序が成り立たなくなり、調和の美も失われてしまうと…。
 が、その本音は自分の得た優位なポジションが崩れ去る怖れにあるのかもしれない。ピラミッドの上位に位置している者は、やっぱりその美しいピラミッドを守りたいのである。

 というのも、浮遊空間での唯一の頼みどころは「自分そのもの」なのだから。そこでは組織や所属の看板はほとんど通用しない。それぞれが裸の個性やフィーリング、相性でつながり合い、形式よりも中身や実力が大きな意味を持つことになる。浮遊空間は「個人」と「自立」が基本になる社会であり、それだけに個人や個性を殺して組織に隷属してきた者には住みにくい世界なのである。
 ここでの「重力&無重力感覚」とはもちろんメタファー(隠喩)である。地球には厳として重力が働いており、その下で自然現象も仕事も暮らしも営まれている。しかし情報や意識や価値観の世界では、いままぎれもなく無重力化が進行し始めている。インターネットもパソコン通信も「重=ピラミッド」ではなく「軽=浮遊ネットワーク」を基本に日々営まれているのである。

 ここまで環境が変化した以上、「重」への郷愁ももはや時間の問題であろう。
 実際、ピラミッド組織は徐々に解体され、いまや個人を基本としたネットワーク機能に変貌しつつある。またデフレスパイラルの渦中では、とにかく責任も借金?も重いのは苦しい。デフレの到来までもが、こうして「重」から「軽」へのシフトを促している。
 重力感覚から浮遊感覚へ…。これが昨今の環境変化の軸ではなかろうか。
 とすれば、企業経営も否応なく変わっていかざるを得ない。その変革に必要なのはまず上下関係の呪縛からの開放であり、個々人が自由に自発的に羽ばたけるオープンな環境を創りだしていくことであろう。なぜならそのとき初めて「オレはいったい、なぜここでこんなことをしているのか?」と、仕事の目的も見えだしてくるからである。
 上からの管理や重圧は苦しいが、自ら発見し自覚してやる仕事は楽しい。
 要するに浮遊感覚とは、興味あることを自らが発見し、楽しく自由に追い求めていくことと見たり。
 そう考えると「軽い若者たち」の言動にも、また別な希望が見いだせるのではなかろうか。

1998年07月:「ヴァーチャル」の天性は、明るさとおおらかさ

 ヴァーチャルリアリティという言葉が、日本語の中に戸籍を獲得して久しい。それはほとんど「仮想現実」と翻訳され、現実らしくみせかけたニセモノ、そのくせ現実と虚構の見境を分からなくしてしまうやっかいなもの、といった否定的なニュアンスで多くの場合使われている。
 実際、TVゲームやアニメ映像、CG映画などの悪影響が批判されるとき、きまってこのヴァーチャルがやり玉にあげられるし、コンピュータで世界中をネットする国際金融経済なども、またヴァーチャルの名で呼ばれることがある。
 いまや大ブームのインターネットやパソコン通信等々も、当然ヴァーチャル(仮想)なコミュニケーションとして理解されているのであろう。
 要するに、ヴァーチャルとは怪しげでうさん臭いもの、得体の知れないお化けのようなもの、といった受け止められ方をしているのではなかろうか。だからこそそこに「仮想の世界に惑わされず、現実をきちんと見なさい」といった忠告が込められることにもなる。
 が、果たしてヴァーチャルは、本当に怪しげな存在なのだろうか。そんな疑問をふと抱くようになったのは、アメリカの友人とのメール交換でのことだった。
 メールの中には、ヴァーチャルオフィスとかヴァーチャルリポーターといった表現がどんどん登場してくる。が、そのニュアンスは、決して仮想とか虚構とかの否定的なものではなかった。

 Virtualという言葉は、そもそも「徳・善・美質・実質・長所・価値」を意味するVirtueの縁語で、本質的にポジティブな性格を持っている。そこには「virtualfocus=虚焦点・virtual image=虚像」といった光学用語もたしかにあるが、それは熟語としての特殊例であって、「virtual=虚」というわけではない。
 それなのに日本に移住してきたとたん、ヴァーチャルは突如として仮想・虚構の意味に変質してしまった。ヴァーチャル自体が化け物なのではなく、日本の精神風土が化かしてしまったのである。
 ちなみにVirtually ~と言えば「事実上こうだ・実質的、実際的にはこうだ」という意味であり、決して架空の話というわけではない。それは仮想や虚構というよりも、むしろ現実を強調するものである。
 もし「仮想」というのなら、Imaginaryのほうが適切であろう。事実、「実質=Virtue」の対語は「形式=Form」であって、形式(フォーム)のほうがはるかに虚構性をもつ。ヴァーチャルは「単なる外見・表面的なみせかけ」を意味するそのフォームの対語として、逆にポジティヴに使われているのである。

 ややこしい話になってしまった。ここで別に英語の勉強をしたいわけではない。ただ、ヴァーチャルがあまりにも日本で化けてしまったものだから、「彼はホントは明るいヤツなんだよ」と言いたかったにすぎない。彼は決して虚構でも仮想でもお化けでもなく、その心根はあくまでもポジティヴにして、その天性は「おおらか」なのである。
 問題は、なぜ日本にきたとたんに大化けしてしまったのかということだが、そのボタンの掛け違いは、ヴァーチャルリアリティという表現がCG映像といっしょに輸入されたことに始まるのではないだろうか。CGは現実以上の世界を現出してくれるだけに、そこに「虚」という概念がすっぽりはまりこんでしまったように思えるのだ。
 ヴァーチャルリアリティは多くの場合、「コンピュータによる」という意味を込められて使われている。早い話、ヴァーチャルは常にコンピュータとセットで語られるのである。しかしそれはひどく狭義な概念であって、たとえば赤いセロファンをゆらゆらと動かすことで炎をイメージさせることなども立派なヴァーチャルリアリティなのだ。そしてこの場合は仮想現実ではなく、実際に炎が揺らめいているようなリアルさのある光景ということになる。

 しかり、「仮想」ではなく「実際的、実質的にそう見える」ことが、まさにヴァーチャルリアリティの特技であり素性なのだ。だからウィンドウズのシステムでも、ヴァーチャルカラーとして256色を表示する。それは決して仮想の色というわけではなく、実際には無限色に近い画像をわずか256の色をもってそのように見えるようにしたものである。そしてそれ以上に精度の高いものをハイカラーと呼び、最高のフルカラーをリアルカラーと称している。
 興味深いのはアメリカでは印刷の色の品質でも、Good Enough Quality、Tea Table Quality、CabinetQualtyといった具合に三段階の品質に分けていることだ。そしてウィンドウズでのヴァーチャルカラーレベルが、印刷ではグッドイナーフということになる。ヴァーチャルはずばりグッドイナーフ。実際には本物の色とはほど遠いが、それでも実用に十分に耐えうるという意味である。

 このようにヴァーチャルには、どこおおらかさが漂っている。
 「ねっ、わずか256色でもちゃんとそれらしく見えるだろう?だったらそれでいいんじゃないの。それで良しとしなくっちゃ!」と…。
 そんな割り切り方と合理的な精神が、ヴァーチャルという言葉には秘められているのだ。そう、彼はいつも「オーケー、グーッド! グッドイナーフ」と、明るく茶目っ気たっぷりにふるまうナイスガイなのである。
 それなのに、日本でのヴァーチャルリアリティは、なんと不気味なイメージに彩られてしまったことか。
 素性はとても素朴でいいヤツなのに、彼はまるでお化けのように怪しまれている。それもあるいは日本という国が、長い長い間、実質(ヴァーチャル)よりも形式(フォーム)を重んじる社会だったからかもしれない。

 「ぼくは実際にこれこれができるんです!」、あるいは「わが社にはこういう実質的な技術があります!」といくら叫んでも、「ん?で、大学はどこ?」「会社の規模は?売上高は?」の一言で、フォームが貧弱なものを相手にもしてくれなかった日本。そうした形式や見かけ優先の社会体質が、いまだにバーチャル(実質)をうさん臭く思わせてしまうのかもしれない。
 が、立派に見えていたそのフォームも、やがて馬脚を顕わす時代となり、結局は実質がものをいう社会になりつつある。だからこそ、ぼくもヴァーチャルにまとわりつく怪しげなイメージを一新し、ヴァーチャル本来の姿を回復してあげたくなってしまうのである。

 ヴァーチャルリアリティとは仮想現実、しかもそれはCGの別名なりと錯覚している方々に、ぼくは日本の文化こそヴァーチャルリアリティの最先端と茶化したい気がする。
 実際、わずか17文字で季節感や情趣を繊細に表現してしまう俳句などは、もう立派なヴァーチャルリアリティであるし、宇宙や大自然の実相をシンプルな空間に凝縮した石庭や茶室などもそうであろう。
 それらはシンプルであってなおリアリティに富み、実物よりも鮮やかにその本質を映しだすことがある。そしてその場合のヴァーチャルリアリティは、当然コンピュータとは全く関係がない。

 まるでヴァーチャルの弁護人気取りで書いてしまったが、実際ヴァーチャルがその本来の天性に輝いてほしいとぼくは願いたい。なぜならヴァーチャルは「過剰な贅沢やムダはなるべく避け、シンプルで済むものはそれで間に合わそうよ」という合理精神の申し子であり、それこそが新時代に不可欠な資質と思うからである。

1998年06月:デジタルとアナログのニクイ関係?!

 デジタルって、なんだっけ?
 改めてそう思いたくもなるくらいに、いまやすごいデジタルブームだ。「デジタル」が、新しい時代のキーワードとして世界中を徘徊している。
 しかもこの言葉はすでにメタファー(隠喩)としても使われだし、デジタル頭脳、デジタル人間(デジタリアン)、デジタル企業、デジタルオフィス、デジタル住宅、デジタル社会、デジタル金融等々と表現されるまでになった。
 するとそこからは、知的、先進的、合理的、実質的、機能的、効率的、柔軟性、ネットワーク感覚……といったスマートなイメージが飛び出してくる。
 デジタルはまるで魔法のような、不思議な力を秘めた言葉なのだ。
 デジタルの対極にあるのは、いうまでもなくアナログだ。
 アナログのイメージは、なんとなくやぼったくて、古臭く、アナログ人間といえば、時代感覚のずれた、冴えないおじさん族が思い浮ぶ。
 またアナログ企業にも、古い体質から抜け出せずにいる、そんな保守的なイメージがつきまとう。こうしてデジタルもアナログも、技術それぞれの個性(特徴)というよりは、すでに善悪・新旧・好嫌を意味するものに変質してしまっている。

 ここまできてしまうと、へそ曲がりのぼくとしては、デジタルの本性を突きとめざるをえない。
 そこでその正体を探ってみると、それはDijit(手足の指の)に由来し、1、2、3…と指を折ってはっきり数えること。つまりは、ものごとを連続的にではなく、分節的、量子的にとらえることなのである。
 実際、デジタル化といえば情報を数値化し、2進法で処理することだ。すなわち、文字も、画像も、音声も、すべての情報を0と1の数値に還元し、それを電気的にオン、オフに作用させて、コンピュータ処理することを意味している。
 デジタル化とは、ずばりコンピュータのための処理技術なのである。

 コンピュータ時代にあって、だからこそデジタル化は避けては通れない。
 こうしてレコードも、カメラも、ビデオも、電話も、デジタルにとって代わられ、テレビもまもなくデジタル化される。しかし機械や道具はまだ分かるとしても、頭脳や人間、オフィス、社会までをもデジタル化してしまうというのは、なんとも恐い話ではなかろうか。
 なぜなら、それは本来連続的なものを、効率化のためにあえて単純な数値に還元することであり、デジタル化の本質は、ずばり「還元」にあるからである。
 実際、CDは、その音質の良さと、音質劣化がないこと、処理加工が簡単ということで、たちまちレコードを駆逐してしまったが、その一方で「なんとなく違和感があり、リラックスできない」という印象も持たれている。
 音に敏感なオーディオマニアは、そのきれいな澄んだ音に、なぜか冷たさや不自然さを、感じとってしまうのである。
 いったいなぜなのか。
 その理由は簡単だ。それはCDが、人間の耳に聞こえる周波数領域を十分にカバーして、20キロヘルツまでは拾ってくれてはいるものの、それ以外の波長は、切り捨ててしまっているからだ。
 が、人間の耳には聞こえずとも、音にはさまざまな波長が複雑多様に溶け込んでおり、それが音に微妙なニュアンスを与えている。それは耳にではなく、あるいはハートに響いてくる波長かもしれない。しかしCDは、それらの一切をあっさり「合理的に排除」してしまうのである。
 またCDは、たとえ20キロヘルツ以内の音ではあっても、サンプリングによって、多くの音を切り捨てている。
 サンプリング(標本化・量子化)とは、連続した波長の中から、一部だけを取りだして数値化することで、その間隔が狭いほど良質の音が再生できる。そのため現在のオーディオCDでは、一秒間に四万四千百回ものサンプリングを行い、ほぼ原音に近い音質を再現してくれている。が、それでもどこか微妙にニュアンスが違う。いかにサンプリングの数が多くても、それはあくまでも間引きにすぎないからだ。

 こうしてデジタル化は、「切り捨て」によって成り立っている。
 以上はCDの音だからまだ許せるとしても、しかし頭脳や人間までもがデジタル化してしまったら、どうだろう。それは合理的・効率的ではあっても、「幸せ」からはほど遠くなってしまうのではなかろうか。
 だが実際の社会は、まさにデジタル化されつつあるように思える。ちなみに偏差値教育なども、ある意味でのデジタル化で、極論すれば、子供たちを点数に還元して評価しているわけだ。なるほど、それは便利にちがいない。人間を数値化すれば、比較も簡単にできてしまうし、明快な序列化もできる。それは評価の効率化に貢献する。が、「キミは1番、あなたは2番と指が折れる(Dijit)ほどに、単純に子供たちを評価することなどできるものなのだろうか。

 ここで大切なことは、人間の感覚は、すべてアナログで知覚しているということだ。音や色やカタチも、すべて波長で感じとっており、コンピュータ処理に便利なデジタル信号もまた、最終的には再びアナログ信号に変換されて、初めて私たちに知覚できる情報となるのである。
 この事実から、重大ななメッセージが読みとれはしまいか。
 すなわち、情報のデジタル化が進めば進むほど、アナログ(連続的・全体的)感覚を豊かにしていかなければならないというメッセージが…。
 そう、これからの時代には、デジタル化によって切り捨てられ、排除されてしまったものを、再復元する能力が必要になってくる。その能力とは、一秒間に30コマという不連続な絵を、あたかも連続的に動く自然な映像であるかのように知覚する、人間の視覚機能に似ているとはいえまいか。

 かく言うぼく自身、実は仕事の多くを、デジタルツールに頼っている。インターネットやパソコン通信、各種データベースをフル活用し、さらに電子メールや、FAXにも頼っている。
 その意味で、仕事にもはやデジタル環境は欠かせない。にもかかわらず、いや「だからこそ」、情報の文脈や全体の流れを理解するアナログ感覚の大切さが、ひときわ痛感されてくるのだ。
 そこに必要なのは、決してデジタル頭脳などではなく、むしろ言外の余情や全体の文脈をトータルに微妙に読みとる「アナログ頭脳」なのである。

 企業もまた、いまこそアナログ感覚が必要なのかもしれない。
 その意味は、組織やシステムがますます効率化、合理化、機能分化されていくなかにあって、そこから全体性や連続性を読みとる、アナログ感覚が逆に問われてくるということだ。
 たとえば、企業理念や、思想や、企業文化などは、まさにアナログの世界そのもので、それは決して数値還元によって語れるものではない。
 また、効率のみを徹底追求する極端なリストラにも、やはりアナログ感覚が必要かと思う。それが粗雑なサンプリング(間引き)になってしまっては、企業の発するメロディ(メッセージ)も、決して美しく、心地よく、市場に響いてはいかないからである。

 「デジタル信仰」ともいうべき、奇怪な現象が湧き起こっている昨今だけに、あえて逆説的な見方をしてしまった。それはぼく自身の、内なるバランス感覚が要求したものかもしれない。
 近代合理主義は「要素還元論」を武器に、科学や技術を発達させ、産業や経済の発展に、大きな貢献を果たしてきた。そしていま、企業の業績は、日々売上額や株価という数値に還元され、日本経済もまた、幾多の経済指標によって語られている。
 が、数値のみが一人で歩きだし、それをアナログに復元する力を社会が失うとき、マーケットは実体を無視して暴走しかねない。そこには「見えざる(神の)手」ならぬ、「悪魔の手」に支配されてしまう危惧もある。デジタル化が進むほど、優れたアナログ感覚の不可欠なゆえんが、ここにもある。
 極は極に通ず。そう、デジタル社会にこそ、優れたアナログ感覚が必要なのだ。
 デジタリアンは、無機的な01情報を食べるだけでは、生きていけない。それを咀嚼して、栄養化していかなければならない。そしてそこにこそ、優れたアナログ人間(おじさん族?)の出番が、用意されているのではなかろうか。