おっと、いけない! …こんなことを書き始めるときりがありません。
言いたかったことは、日本を離れて多様な文化風土から日本を眺めてみたことで、
「土と文明」の意味するものが実感的に理解できたばかりでなく、
日本という閉鎖社会の特異さがはっきりと見えてきたということです。
日本に帰らざるをえなくなったとき、
ぼくは東京を飛び越して、いきなり北海道に渡りました。
とても東京のリズムに戻って仕事や暮らしをするだけの自信がなく、
だから北海道という風土で新しく生きてみたいと思ったからです。
こうしてぼくの「北海道移住?」が実行に移されました。
そして札幌に小さな会社を起こし、いまに至っています。
もちろん札幌でも「土と文明」的な視点に立って、
仕事とライフワークに取り組んでいます。
札幌では、さまざまな仕事をしてきました。
その中でも特に意義深かったことは、
移住?直後から「農&自然の現場」を絶えず歩くことができ、
かつ「経済」の領域にも深く目を凝らすことができたことでした。
前者の「農の現場」は、ホクレンの季刊誌の取材編集で可能となり、
幸いにもぼくは北海道全域を合計16回歩き(走り)回ることができました。
これは「農の現場」のみならず、観光的にも意味がありました<笑>。
そしてその結果、北海道212市町村の地域情報を網羅した
「北海道大百科」(南北編)の2冊が結実しました。
(この情報はデータベース化され、そこから情報分野にも道を開きました)
この経験は、北海道というこの島を考える上で、非常に有意義でした。
そこから「北海道独立論」の意識も芽生えてきたからです。
もう一つの意義「経済」を見つめたという点に関してですが、
これは「たくぎん」の月刊誌の企画・取材・編集を通して得られました。
ぼくが札幌に会社を起こして間もなく、
わが社で「たくぎん」の会員誌の編集を担当することができたからです。
「たくぎん」は都銀でしたので、仕事で毎月数度の東京取材、全国取材ができました。
それにはまず企画が不可欠、企画のために常時さまざまな本に目を通しました。
本を探してまずむさぼり読むこと、ありがたいことにそれがぼくの仕事となったのです。
そしてこの仕事は「たくぎん破綻」まで十数年間続きましたから、
年間にして約40名の取材(インタビュー)、破綻までの十数年の期間に、
合計500人以上の人物のインタビューしたことになります。
しかも幸いだったことは、一冊の月刊誌を作るに際して、
銀行に不似合いの人物の取材までもが、寛容にも許されたことでした。
ちなみに盛んに銀行批判をしていた佐高信さんをインタビューしたときには、
「まさかぼくが銀行に取材されるとは思いもしなかった」と笑われたほど。
それくらい、たくぎん総研担当者の度量は大きかったのでした<笑>。
というよりも、ぼくのわがままが許してもらえたのでした。
いけない、また迷路にはまりこみそう…。
とにかくぼくは「たくぎん」の仕事を通して、
「経済・金融・経営」の領域にもかなり踏み込むことができました。
そして、これがその後のぼくに「エコロジー・シフト」を促したのです。
こう考えると「たくぎん」はぼくにとって、とても貴重な意味深い存在でした。
仕事を通して500人以上の方々との出会いを生み出してくれただけではなく、
「経済」という得体の知れないものを考える機会を与えてくれたからです。
このことは、「エコロジー」をライフワークとしてきたぼくにとって、
特に意義深かったように思われます。
なぜなら、同じ「エコ=オイコス=家」から誕生した双子の兄弟、
つまり「エコロジー(生態系)」と「エコノミー(経済)」の両方を
まさにその根源から、ぼくに考えさせてくれることになったからです。
簡単にちっちょっとプロフィールを書けばいいものを、
気がついたら、ずいぶん長々しいものになってしまいました。
もうこのくらいで締めくくることにします。
最後に、いまぼくが思っていることだけを付け加えて…。