先日、伊達市と虻田町、豊浦町に行ってきました。
天気はあいにく曇り、深い雲(霧?)に包まれて、有珠山は全く見えません。
今回は千歳からも人が乗り込んだため、自由気ままな行動はできませんでしたが、それでもいろんな発見がありました。
虻田町役場に着いたとき、役場前の広場には装甲車がずらりと勢ぞろいしていました。
しかも全車両が大きなエンジン音を立てています。(いったいなんだろう? あるいは出動するのかな?)
話では、いつでも出動できるように時々エンジンをふかして待機しているのだそうです。
しかし、これまでの2カ月間、まだ一度も出動したことはないようです。
装甲車の背後には、沢口敏くんが学んだ虻田小学校がありました。
大きな桜の木には、すでに満開を過ぎた桜の花が寂しそうに咲いていました。
しばらくの時間、そこで感慨深い時間を過ごすことになりました。
虻田町・災害対策本部での打ち合わせが終わったあと、清水町の仮設住宅地にあるはずの沢口さんの家を訪ねました。
訪問する前から、そして現地で何度携帯電話をかけてもかかりません。
そこで仕方なく、一軒一軒しらみつぶしにしようと考えたのでした。
探し当てるのにかなりの時間がかかってしまいました。
その途中で、諦めて帰ろうかとも思いました。
しかし、「沢口」という名前をやっと見つけたとき、背後のほうから「いなださ~ん!」という声がしました。
沢口敏くんのお母さんです。で、仮設住宅の中に入れていただきました。
敏くんの遺作展の写真に再び出会えました。
本当はお借りして「ギャラリー」を充実っさせたかったのですが、手元から引き離すのはしのびません。
そこで写真をデジカメで撮影し、それをギャラリーに収めることにしました。
仮設住宅は狭い二間から成っています。
居間には、かつてぼくが手渡した「あのカレンダー」がかけられていました。
自宅から何も持ち出せなかった沢口さんは、いまわずかな家財だけで暮らしています。
それでもプライバシーが守れない避難所よりは心が落ち着くということでした。
ぼくが役場前に並んでいた装甲車の話をしたとき、「あれが出動してくれたら息子の作品が持ち出せるのに…」とつぶやきました。
装甲車というのは戦地では戦車の前を走って偵察したりするのに使われるもので、かなり速いスピードがでるとのことでした。
もちろん多少の砲弾を受けても壊れないよう頑丈に造られています。
だとしたら、確かに装甲車と、火山の状態を空から監視するヘリコプターや火山学者たちの緻密な連携プレーさえあれば、家に近づいて行って作品や大事な家財を持ち出すことは可能でしょう。
「でも、全く動いてくれないんですよ」
沢口さんのお母さんは、そう悔しそうにつぶやきました。
結果論を言っても意味がありませんが、有珠山はもう2カ月間も膠着状態にあります。
これまでの間にもし装甲車が出動していたとしたら、かなりの家から大事なものを持ち出せたのではないでしょうか。
そう思うと、なんとなく腹立たしさも感じます。
しかし現場では、やっぱり「人命第一」と考えて2カ月も待機しているのでしょう。
現地を歩いてみて、いろんなことを考えました。
詳しくは、あとで再びレポートしたいと思います。
まずは、取り急ぎ(遅すぎますが)の有珠山報告です。