いざ、豊浦へ!
5月4日、沢口敏くんのご両親にカレンダーを手渡すため、避難所のある豊浦町に出向きました。家を出発したのは午前10時過ぎ、2時の約束でしたが、連休の渋滞を見越して、多少の余裕をもって出かけたのです。
しかし渋滞は予想以上のもので、特に中山峠を下りた辺りから喜茂別に至る道路はひどい状態でした。これでは約束時間に間に合わないかもしれません。いかにのんびり屋を目指す?ぼくではあっても、さすがにそののろのろ状態には呆れ返ってしまいました。
クルマはいったいどこに向かっているのでしょう。ルスツ高原?それとも有珠山見物?
なんとかルスツを過ぎ、洞爺湖が見える地点にまで至ったとき、湖の向こうにいく筋もの噴煙が見えてきました。ホントはその光景をカメラに収めたかったのですが、とてもそんな余裕などありません。そこで噴火風景は帰途撮影することにして、とにかくひたすら豊浦町を目指しました。
なんとか間に合い、1時40分に豊浦に到着。そこにはHTBのカメラクルーが待ちかまえていました。というのも、ぼくが沢口さんにカレンダーを手渡すきっかけを作ってくれたのは、HTBだったからです。ホントは密かに隠れて手渡したかったのですが(実は恥ずかしがり屋さんなんです<照笑>)、橋渡し役をしてくださった者を飛び越すわけにもいきません。そこで「ま、成りゆき任せにしょっと!」ということで、いっしょに沢口さんの家を訪れることにしたのです。
こうして沢口さんの避難しているところに着きました。そこからカメラクルーが動きだしました。恥ずかしがり屋の娘たちは、事の成り行きに驚いています。「こんなことなら、ついてくるんじゃなかった」と言っている感じです。
ぼくもこういうのは苦手です。しかし、カレンダーを待っている沢口さんのことを考えると、一刻も早く手渡して、敏くんの作品との再会を果たさせてあげたいと思っていました。
沢口敏くんのお母さんとの12年ぶりの再会!
ドアホンを押すと、沢口さんが顔を出しました。12年ぶりの再会でしたが、なぜか時間の経過など全く感じられないほど、とても自然に挨拶をかわすことができました。
家に入れてもらって、さっそくカレンダーを手渡しました。保存してあった5部のうちの4部です。1部はぼく自身の「敏くんとの出会いの記念」として再び大切に保存することにして、残りの4部を手渡したのです。
お母さんはとても喜んでくれました。ホントはそのときの様子をデジカメに収めたかったのですが、なにしろこちらにカメラが向けられていることもあって、それもままなりません。仕方なく撮影はあきらめ、自由にいろんな想い出話をすることになりました。
娘をわざわざ連れて行った理由は、12年前に沢口さんと電話で話をしていたときに、生まれたばかりの娘の泣き声を電話で聞いた沢口さんが、
「あら、赤ちゃんの泣き声ね。ずいぶん久しぶりに聞いたわ。赤ちゃんの泣き声って本当にいいものね!」ととても喜んでくれたからでした。
たった一人の息子を亡くしてしまったお母さんにとっては、きっと赤ちゃんの泣き声が希望の音として耳に伝わったにちがいありません。一方に悲しい死があり、他方に誕生の喜びがある…。たぶん複雑な気持ちだったでしょうが、しかし沢口敏くんのお母さんは、赤ちゃんの泣き声にとても大きな喜びを感じてくれたようでした。それだけに、あれから12年が経ち、いま小学6年生になった娘をいっしょに連れていくことにしたのでした。
その「赤ちゃん」もすでに小学6年生…、敏くんと同じ歳になりました。その当時のぼくとしては、まだその悲しみの実感が十分には分かりませんでしたが、しかしいまはかなり実感的に理解できます。それだけ時間が経っていたのです。
沢口さんとの会話の内容を書き出したらきりがありません。そこにはまぎれもなく、敏くんを中心に会話が回転していました。カレンダーがお母さんの手に渡ったことで、あたかも敏くんのスピリットが噴火口の近くの家から抜けだしてきて、ようやくお母さんのふところに帰ってきたような感じでした。もしもそのとき取材がなかったとしたら、そんな不思議な空気をもっとたっぷり深呼吸できたにちがいありません。ぼくとしては実際に一度も会ったことのない敏くんでしたが、その時間、敏くんがとても身近に感じられてきたのです。
HTBの取材のあと、北海道新聞からもインタビューを受けました。そして思うままいろんなことを話しているうちに、カレンダーを手渡すことが目的だったはずなのに、「それだけではいけない、敏くんのカレンダーの意図、つまり交通安全への祈りも伝えなくっちゃいけない」という思いもどんどん湧きだしてきていました。なぜなら、敏くんの夢と才能と命と人生とが、心ないドライバーの無謀な暴走運転によって無惨にも断ち切られてしまったからです。その意味で、取材を受けたことによって、ぼく自身が新たな目的を発見させられたような気がしました。
インターネットでも敏くんの絵を見る
その後、パソコンのある避難所の集会場に出向いて、インターネットを通して「敏くんのギャラリー」を見ることになりました。
そこにあったパソコンは、ぼくが使っているマックとはかなり操作感覚が違います。が、やや苦戦しながらもなんとかHPを呼び出すことができ、お母さんに見てもらうことができました。
こうしてインターネットを通して、敏くんの絵や、みなさんからの激励のメッセージにご対面と相成ったのです。そのときの沢口さんの目には涙がいっぱいたまっていました。
そのさまを見て、敏くんのHPを作って本当によかった!と思いました。有珠山の噴火は被害ばかりが大きい「招かざる天災」にはちがいありませんが、しかしその中にあって、もし敏くんのことと交通安全への決意をより多くの方々に伝えることができたとしたら、そこには違った意味での幸いもあります。それはさしずめ、「天災」が「人災(交通事故)」に警告を発するという構図にもなるでしょう。
話は尽きませんでしたが、そろそろお母さんとのお別れの時間がやってきました。しかしこれからが本当の再出発です。というわけで、このHP上ではこれからも「続報」を綴っていきたいと思っています。それだけに、今後ともみなさんから、いろんな意見や激励をお寄せいただきたいと思っています。なお、避難所の方々もぜひここのご参加いただけたらと願っております。
蛇足の温泉「しおさい」
「せっかく豊浦に来たのだから、ぜひ、しおさい(温泉)に入っていらっしゃい!」
そう勧められて、その後「しおさい」に行ってみました。
ここは海がすぐ目の前に迫っている立地抜群の温泉です。お陰様で、ゆっくり露天風呂につかりながら、今日一日のことを静かに反芻することができました。
それにしても有珠山の噴火の悲劇を目の当たりにしながら、火山の恩恵(温泉)にのんびり身をゆだねるとは皮肉な話です。大自然は恵みでもあれば、また脅威ともなりうるということなのでしょう。とにかくいろんなことを考えさせられた一日となりました。
「しおさい」から出てふとクルマを見ると、なんとタイヤに「カタツムリ」がへばりついているではありませんか! それも殻が破れた痛々しい姿で…です。
周りを見回したところ、そこにあるのはアスファルトの道路と植えたばかりの真新しい芝生だけ…。ということは、この場所でタイヤにへばりついたとは思えません。となると、カタツムリはいったいどこからタイヤによじのぼったのでしょうか。避難所の駐車をしていたとき? でも、そこもとうていカタツムリがいるとは思えない環境でした。ということは、札幌のわが家からずっとタイヤ、あるいは車のどこかにくっついていたのでしょうか(わが家の周りにはカタツムリがいっぱいいます)。
もしそうだったとしたら、ものすごい回転、あるいは高速のスピードに耐えながら必死でへばりついていたことになります。実際、殻が傷つき、かなり弱っている感じです。
それを知った娘たちは、カタツムリを大事に箱に入れ、そこに水分と青草とを入れて家に持ち帰りました。元気になるまで世話をするのだそうです。
「蛇足」ならぬ「蝸牛舌」でした<笑>。
有珠山の風景
豊浦の避難所から札幌への帰途、洞爺湖が一望できるサイロ展望台(だったかな?)に立ち寄って、夕暮れの有珠山を撮影しました。
眼下に広がる寒々しい洞爺湖の向こうに、白い噴煙がいく筋も大きく小さく立ち上っています。そのさまは、まるで時間をさかのぼって地球創世記のドラマを見ているような感じでした。
いちばん右端に立ち上っている噴煙のすぐ近くに、沢口さんのご自宅があるはずです。その家はすでに傾いているとのことで、もはや近づくこともできません。しかし家の中には敏くんの遺作が残され、じっと噴火の轟音を聞いているにちがいありません。敏くんはいったい何を思って噴火の音に耳を傾けているのでしょうか。
そのことを思うとき、とても言葉では表現できない痛々しい気持ちに襲われました。そして、たとえカレンダーの絵ではあったとしても、「敏くんの人生の証」を無事にお母さんに手渡せたことに、とても深い安堵感を覚えました。
サイロ展望台にはテレビ局のカメラが据えつけられ、有珠山の噴火の様子をキャッチし続けています。そしてあちこちにたくさんの野次馬?たち。ぼく自身も野次馬の一人にはちがいありませんが、でも沢口さんに会ってきた直後だっただけに、被災者たちのことが頭から離れませんでした。