その一。久々に同級会に参加したら、青春時代の若々しい気分に戻れた。旧友たちと想い出話にふけっていたら、なぜか元気があふれてきた…。そんな体験がきっと誰にもあるにちがいない。
何十年ぶり?に会う顔は、最初はなかなか思い出せるものではない。人間の顔とはこうも変わってしまうものかと、自分のことはさておいてびっくりもさせられる。が、時間が経つにつれ、目の前の顔の奥から徐々に昔の懐かしい顔があぶり出されてくる。そのときには、自分の顔も気持ちもまた、すっかり若い時代に戻っているのだろう。
その二。ふと見つけた古いレコードを何気なく聴いていたら、遙か彼方に消えかけていた遠い想い出が蘇ってきた。そうだ、この曲はあの場所で、あの人といっしょに聴いた曲だった。あのころの自分は貧しかったけど、夢だけは輝いていた…。
いきなり懐かしい曲に出会ったりすると、なぜか急に涙があふれてきたりもする。涙は時間の落差のぶんだけ勢いを増す。かすれた記憶が一挙に蘇り、滝のように流れ落ちるからかもしれない。
その三。故郷の訛りや文化など、自分自身の存在証明のようなものに出会ったりすると、そこからある種の匂いが漂ってくる。その匂いは、まるで安らぎの場所へと連れ戻してくれる呪文のようだ。人は異郷の地をさすらうほどに、故郷の匂いや香りを懐かしむのだろう。実際、タジキスタンで殺された秋野豊さんも、危険な日々にあって安らぎの香りに恋い焦がれた。タジキスタンのアパートから送られてきた電子メールには、「鞄の奥から飲み慣れたリヒト珈琲を見つけだし、ペンチで砕いて懐かしく味わった」ことが淡々と綴られている。その香りと味わいには、きっと珈琲以上のなにかが秘められていたにちがいない。
人間の五感は、絶えず「いま」を受信し続けている。五感は「いまこの瞬間」の環境をデリケートにキャッチするレーダーであり、そこから受信される情報が、ひらめきや思いや思考を誘い出す。
が、単なる「いまのリサーチ」の連続だけでは、人はともすれば感受性疲労、思考疲労を起こしかねない。だからこそ、人はときとして「より遠く・より遙か(昔)・より根源」へのダイナミックなリターンを衝動してやまないのだろう。
同級会も古いレコードも、また故郷の匂いも、すべてダイナミックなリターン現象と言えるだろう。いや、それは心の中や意識の世界での出来事なのだから、リメンバー現象というべきだろうか。それはともかく、人は「より遠く・より遙か・より根源」へのリターンを通してリフレッシュする。その理由は「そこ」に立ち返ることにより、「いま」がより鮮明に見えてくるからかもしれない。
やや遠回りな言い方をしてしまったが、今回考えてみたかったテーマは、「REの効用」である。実際昨今の社会では、なんと「RE」が重要なキーワードになってきていることだろう。
リターン(return)リメンバー(remember)リフレッシュ(refresh)リラックス(relux)リサイクル(recycle)リフォーム(reform)リユース(reuse)リニューアル(renewal)リピート(repeat)リクリエーション(recreation)リヴァイバル(revibal)リスタート(restart)リセット(reset)等々の「REから始まる言葉」がいまや世の中にはあふれ返り、企業の経営でもリストラ(restructuring)リエンジニアリング(re-engineering)リインベンション(reinvention)リデザイン(redesigne)等々が、次代に生き残るための不可避の課題になっている。
また政治でも刷新・改革(renovation)革命(revolution)リコール(recall)等々が熱っぽく語られ、さらに歴史的文化的領域でも、見失われ、見捨てられてきた価値観へのルネッサンス(renaissance)が声高に叫ばれている。
いまという時代は文字通り「REの時代」、すなわち「より根源的な地点へのリターンの時代」と呼ぶにふさわしい。
ところで「RE」には「再び・元へ・…し直す」などの意味があり、何かに行き詰まったときには必ずといっていいほど「RE」が衝動される。
日本語の「初心に帰る・原点回帰・基本に立ち返る」なども、まさに「RE」のココロであろう。これは迷ったときの人類的英知なのかもしれない。
こうした視点から「リストラ(restructuring)」を考えて見るとき、昨今社会に横行するリストラは果たして的を得ているのだろうか。それは本来リストラクチャリング、つまり再構築であるべきだが、日本ではどうやら「首切り・人減らし・減量経営」の意味で使われているようだ。
「わが社でもリストラ風が吹いていてねぇ」などというときのリストラは、決まってそれで、要するに企業は人を切り捨てて生き延びようとしているのだ。それは企業の「ダイエット」といえなくもない。
しかしダイエット(diet)とはそもそも「常食、(病人の)規定食、食餌」の意味であって、せいぜいが「新陳代謝」的な効果しかもたらさない。早い話、贅肉を落としてスリムな健康体に戻ろうとする試みだ。
ということは、企業はこれまで常食を食べてこなかったということか。いつもご馳走ばかりを食べ、グルメに走り、あるいはゲテモノを食らってきたということなのだろうか。その結果肥満体となり、糖尿病あるいは血圧が高くなった。このままでは心臓もおかしくなり、肝臓や腎臓だって危ない。いや、ガンに冒されているかもしれない。だから食事療法をとり入れて、元の健康体に回復しようということなのだろうか。
いや、企業はダイエット程度の処方ではなく、ずばりリストラクチャリング(再構築)を必要としているのだ。そのためには「より遠く・より遙か・より根源」へのリターンが必要となる。つまり「いったい何のための事業だったのか?」とリメンバーし、そこからダイナミックにリ・クリエイトする営みが求められているような気がする。
言葉で言うのは簡単だが、しかしリ・クリエイトするというのは大変なことだ。少なくても単なるリターンで済むはずがない。メタファーとしてはそれはたぶん昆虫のメタモルフォーゼ(変態)のようなものであろう。
すなわち、青虫が成長してサナギを作り、殻の中でそれまでの青虫の組織をドロドロに溶かし、そこから全く新しく成虫としての組織を組み上げていく。そうしたメタモルフォーゼのプロセスがいま必要なのではなかろうか。これは決してダイエットなどといったものではない。それは文字通りのリストラクチャリング、リ・クリエイションの営みそのものである。
友人の心理学者と「REの効用」について雑談したことがあった。彼は言う。「REの本質とは、繰り返すこと(リピート)なんだろうね。で、リピート、つまり絶えず元にリターンし続けるというのは、いわば死に続けることさ。人は死の境地にまでリターンすることによって生の意味と目的が再発見できる。そこから癒しが始まるんだよ」
同級会や古いレコードでリフレッシュできるのも、「そこ」に立つことによって「いま」の位相が見え、癒されるからなのだろうか。「いまの位相」とは確実に死に近づいているという事実である。若いときには夢や希望しかなかったが、しかし歳月とともにそれらは消えていった。が、その一方で「なんのための人生、なんのための事業(仕事)なのか?」という根源的な意味だけは鮮明に見えだしてきている。そしてその地点から発想するとき、初めて真の意味でのリストラ、リ・クリエイションが可能になるのかもしれない。
とはあれ「REの時代」は「もの思う季節」である。どうせなにかを考えるとしたら、思い切ってより遠く、より遙かな根源的地点からいまの自分と事業(仕事)を考えてみたらどうだろう。