インターネットで世界中が結ばれ、情報通信網がまるで「地球脳」の神経系のように国際経済や政治を支え動かしている。すっかり情報ネット化された二〇世紀末の社会……。こうした時代の到来を早くも昭和三八年に予測したのが、実に梅棹忠夫さんの「情報産業論」だった。
昭和三八年といえば、日本の工業がまさにめざましい発展を遂げていた時期だった。そんな工業全盛期のど真ん中で、梅棹さんは「日本の工業秩序がやがて変わっていく」、つまり「工業社会の後が別にあるんですよ」と宣言したのである。
その後ダニエル・ベルが『脱工業化社会』を著し、アルビン・トフラーが『第三の波』を発表するが、梅棹氏は彼らよりも遙かに早く「工業社会の後には情報化社会がやってくる」と指摘した。
なぜ梅棹氏はそんな大胆な予測ができたのだろうか。
その答を一言でいえば、氏が社会学と生物学を重ね合わせて考え、発生学に基づいて社会の進化を見通したからだ。分かりやすくいえば、人間の体を発生学的に見た場合、受精卵が発生してからちゃんとした人間の体になるまでに、順次三つの胚葉ができることに着目したのである。
まずできるのは内胚葉、これは主に消化器官系だ。次にできるのが中胚葉、つまり筋肉や骨格、また臓器や血液などだ。そして最後に外胚葉、ここから皮膚や脳神経系が出てくることになる。
これを産業に当てはめて考えてみると、農業の時代に人々が生産していたのは食料であって、いわば消化器官系の時代。つまり三分類でいけば、農業時代とは内胚葉から出てくる消化器官系の充足の時代ということになる。そこで梅棹氏は、農業を「内胚葉産業」と名付けた。
農業の時代の次に来たのが工業の時代。工業時代の大きな特徴といえば、生活物資とエネルギーの生産だった。いわば人間の手足の労働を工業が代行したわけで、それは筋肉を中心とする中胚葉諸器官の機能充足の時代ともいえた。その意味で工業は「中胚葉産業」と呼ぶことができる。
そして最後の外胚葉からは、皮膚や脳神経、感覚諸器官などが生みだされてくる。ということは、こういったものの充足の時代が、「外胚葉産業」の時代として最後にやってくることを示唆している。具体的にいえば脳神経系の作用である情報、そして五感(感覚)や感性が充足される時代…。それが工業社会(中胚葉産業)の後に出現するというわけだ。
タネ明かしをすれば実にシンプルな予測だ。それだけに工業全盛期にあってこの「情報産業論」は、ともすれば眉唾的なものにも見えた。
しかし時が経つにつれ梅棹氏の仮説はいよいよ信憑性を増し、十数年前にそれが『情報の文明学』として再浮上したとき、すでに情報社会が工業社会に取って代わろうとしていた。ぼくが梅棹さんを訪れたのはそんなときだった。そのときに氏は、「生産第一主義から生活第一主義に、間違いなく移行するよ」とズバリ言ってのけた。
そしていま、実際に情報や感性がモノの価値を決め、モノを動かしている。
かつては「情報産業は工業のめかけにすぎない」と言われたが、いまでは逆に「かっこいい」とか「かわいい」という情報的価値がモノの価値を決めている。時代は文字どおり「外胚葉産業」へと移ったのだ。
以上が三六年前の「情報産業論」の概要であり、かつ荒っぽい歴史的な検証だが、それにしても凄いのは、単純な発生学を産業の進化論に結びつけた梅棹さんのその洞察力・推理力である。
そこにはややこしい数字や知識をいじくる姿勢ではなく、自然や生命そのものから素直に学び取ろうとする姿勢がある。それは複雑な実験や研究というよりは、むしろ産業史を生命体としての人間の自己実現プロセスと捉えた、直感的な営みだ。
その意味で梅棹さんは、三六年前にすでに外胚葉的な発想法を身につけておられたのかもしれない。外胚葉的な発想法とは、部分の分析ではなく全体を包括的に見る目であり、狭い専門的な知識よりは感覚や直感を大事にする姿勢、また静的・機械論的な見方よりも動的・生命的にものごとを見つめる目である。
そうしたものの見方ができたからこそ、工業絶対主義的な時代のど真ん中にあってその限界とその後の社会が梅棹さんには見えたのかもしれない。
にもかかわらず、私たちはいまなお工業社会的な価値観やシステムに縛られてはいないだろうか。
ちなみに「大きいことはいいことだ」とは、しっかりした骨太の体格と力強い筋肉、つまり中胚葉的な価値を求める姿勢である。確かに骨格や筋肉、また健康な臓器と血液循環は人や組織が生きていく上で不可欠なものだった。しかし、ともすれば大男は全身に知恵が回り損なうという弱点もある。これからの時代に必要なものは体格よりも体質であり、それを動かす知恵と感性であろう。
また『五体不満足』がベストセラーになったことからも分かるように、五体満足は決して存在の価値を決める基準ではなくなった。大事なことはその五体が何を思い、考え、行動しているかということだ。人々が共感するのは五体そのものではなく、それを動かす価値観なのだ。梅棹さんは三六年前、「産業の主流は、食うことから筋肉の時代、さらに精神の時代へと動いていく」と言ったが、まさに個々の精神のありようや個性がすでに多くの人々を動かしている。
このような視点から現在進行中のリストラや合理化を見た場合、いったい何が見えてくるであろう。一言でいえば、それは、中胚葉産業(工業社会)にはそれほどたくさんの人もエネルギーも不要だということだ。その多くは最終的には自動化され、臓器や血液を動かすのにそれほど大変なエネルギーは要らなくなる。実際、私たちの内臓器官はあえて意識しなくてもちゃんと自動的に動いている。自律神経というやつが実にうまく制御してくれているからだ。
にもかかわらず、私たちは長い間工業化社会の価値観やシステムに慣らされてきたため、臓器が自動化(自律制御)されることに不安を抱いている。工業化社会にあっては、自分が心臓や筋肉などを構成する細胞の一つとして役立っていること(組織の歯車?)に誇りを感じてきたからだ。
が、発生学的に見れば、中胚葉産業(工業社会)の自動化は進化の必然的なプロセスであり、そこに留まっていては本当の喜びはない。その意味でリストラは私たちを中胚葉時代から解放してくれるプロセスといえるかもしれない。
かなり楽観的なものの見方になってしまったが、それくらいの気持ちでこの厳しい時代の意味するものを考えるべきではなかろうか。
それは企業も同じで、要するに生産第一主義から生活・人生第一主義への転換が必要なのだ。しかしこの大転換期にあっては、工業的価値観にまとわりついて成長してきた情報システムが改めて新しく組み立て直される必要がある。それがいわゆるコンピュータ西暦2000年問題なのかもしれない。
となれば、いま必要なことは2000年の後の社会の姿、すなわち外胚葉産業社会を頭に描きだしながら、本当の意味でのリ・ストラクチャー(再構築)をすることではなかろうか。感覚や意識、感性、精神の時代には、部分の痛みは麻酔を打ち、切り捨てて解決するのではなく、その痛みを全体で感じながら全体で癒す治癒力が必要になろう。
まるで青臭い書生論だが、そうした営みこそ社会と産業の基本であるような気がする。
しかしこれはあくまでもぼく自身の願望である。三六年前に見事に「情報産業」の到来を当てた梅棹忠夫さんの腕、いや直感にかけて、この願望もまたぜひ実現させてほしいものである。