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2000年04月:恐るべしちっちゃな存在

 「俗に言えば、運が悪かったというべきか…」
 新潟県警の不祥事問題で、正直すぎる小渕首相は、ふと本音を洩らした。この失言に対して野党各党からは激しい野次が飛びかったが、首相の言いたかったことは決して間違ってはいなかった。
 そう、新潟県警の本部長は、誠に運が悪かったのだ。もしもあの日に行方不明だった少女が見つかっていなかったら、発見が一日だけでもずれていたら…、雪見酒も、駆け麻雀も、表沙汰になることはなかったのである。
 「運が悪かった」は、地下鉄日比谷線の脱線&衝突事故でも語られた。なぜあの時間に乗ったのか、なぜあの車両に、あの位置に乗ったのか…。不意の事故に命を奪われた者たちの家族は、運命のいたずらを呪いたくもなるにちがいない。運不運は文字どおり紙一重だったからである。

 運不運はほんのちょっとしたことから大きく分かれることになる。しかもそれは、見る角度や立場によって全く違って見えてくる。ちなみに行方不明の少女が発見されたケースでは、新潟県警や本部長、警察庁、公安委員会にとって、誠にもって不運だった。そこから組織の構造全体、体質全体が問題にされ始めたからである。
 ひるがえって市民サイドから考えれば、胸のすく思いもあるだろう。なにしろ九年間も監禁拉致され沈黙していた一人の女の子が、天下の警察機構を根底から揺さぶることになったのだから。その意味で、その女性は、歴史的な快挙を成し遂げたとも言える。ジャンヌ・ダルクではないが、彼女は革命的な動きを社会全体に広げることになったからである。
 こうして九年間も監禁拉致され沈黙していた一人の女の子が、天下の警察機構を根底から揺さぶることになった。圧倒的な国民が、いま彼女に深い同情と愛情を注いでいる。彼女の心の痛みを気遣っている。小さな存在が大きな警察機構を動かすに至ったのだ。

 四月というのに重苦しい話になってしまった。いつもの調子で軽口をたたくことにしよう。そう、ついつい深刻な口調になってしまったが、言いたかったことはただ一言、「恐るべし、ちっちゃな力」ということである。
 それを言いたいがために、警察機構と一人の女の子を対座させてみた。この両者は、本来なら恐竜と微生物ほどの圧倒的なコントラストがある。しかし事と次第とタイミングによっては、力関係が逆転もしてしまうのだ。小さなウイルスが巨大な生命を破滅に導くこともありうるのである。

 このことは、最近科学的にも実証され始めて、「恐るべし、ちっちゃな存在」と注目されている。分かりやすくいえば、ほんのささいなものがこの地球上で非常に重要な役割を果たしているのだ。
 さて、このことを理解するために、これまでの常識なるものを考えてみよう。従来の考え方や価値観を一言で言えば、大きいことはいいことだ(影響力がある)ということではなかったか。
 ところがどっこい、その常識が科学の世界で覆され出した。大きいものは確かに大きな影響力を持つものの、ぐーんと小さなもの、例えばナノの世界、つまり十のマイナス九乗レベルの存在が、むしろ絶大な影響力を持っている…ということが証明され始めたのである。

 専門的な話になってはどうしても肩が凝ってしまうので、ごく分かりやすい例を挙げてみよう。
 例えばホルモン、それはごくごく微量の存在にすぎない。身体全体の体液の量に比べ、ホルモンはあまりにもちっちゃい(少ない)。ところがそれがとてつもなく大きな威力を発揮しているのだ。
 だからこそ、環境ホルモンなどといった表現もなされるのだろう。この場合は、ほんのわずかな量の毒性化学物質が、生命体の存続を危うくするほど大きな影響力を持つ。ピコレベルの世界の異変が、高等生物すら滅ぼしてしまうのだ。

 ほんのわずかなものがとてつもない影響力を持つという事例は、あのチェルノブイリ原発事故の追跡調査でも実証されている。
 これはロシア医学アカデミー会員のブルラコーワ医師による研究報告だが、一言で言えば、ごくごくわずかな被曝なのに、とんでもなく大きな健康被害が決まって現れるというものだ。
 ブルラコーワ女史は言う、「これは全く新しい発見です」と。大きなものが大きな影響力を与えるのは当然としても、極端にちっちゃなレベルのものこそが、逆に絶大な影響力を与えているというのである。
 こうなると、これまでの常識がまるで通用しなくなる。遠いところでの被曝には健康被害がないなどと、呑気なことを言っていられなくなるからだ。チェルノブイリの原発事故はその常識をものの見事にひっくり返してしまったのである。

 しかしよくよく考えてみれば、「恐るべし、ちっちゃなもの」ということは、当たり前と言えば当たり前のことなのかもしれない。
 ちなみに森の中の落ち葉や土が、海の生態系に絶大な影響を及ぼしているというが、この場合、森から海に手渡されるフルボ酸鉄は果たしてどれくらいの量なのだろうか。まさにナノの世界、ピコの世界にちがいない。
 またファイブ・ナインなどといったインゴッド(純金)でも、ゼロコンマ○○○○○レベルの微妙な違いが、金の色合いや風合いや性質を大きく変えてしまうという。しかしその微妙な世界にこそ、ものの本質や個性が表れるのだ。

 こう考えてみると、物量にものを言わせてきたこれまでの工業的価値観は、あまりにも大ざっぱで乱暴すぎるものだった。大きいことはいいことだとブルドーザーのように力ずくで押し切ってきたからこそ、いまナノ単位、ピコレベルからの逆襲を受けているのかもしれない。
 農業の分野でも、いま注目されているのは土壌中の極微量要素である。極論すれば、われわれは野菜などの作物を通して、土の中の極微量要素を摂取しているというのである。旧約聖書の創世記によれば「人は土から作られた」のだそうだ。さもあらん、土から遠ざかった現代文明人は、急速にその生命力が萎えつつある。
 そんなことから、医療の分野でも、いまやホメオパシス医学が熱い脚光を浴び始めている。この療法の特徴を簡潔に言えば、それは物質をとことんまで薄め、つまり希釈に希釈を重ね、ゼロのマイナス12乗レベルにして用いる療法と言えそうだ。ここまで稀釈し尽くせば当然副作用もない。なのに、ゼロのマイナス12乗レベルで絶大な医薬効果を発揮してくれるのである。

 「ちっちゃな存在の絶大な効果」の例を挙げ出すときりがない。とにかく時代はいま、非常にデリケートで微少な世界に入り込みつつある。
 経済発展のプロセスを見ても、かつてはトンの世界(鉄の経済)、続いてキロ(電気・自動車)、そしてグラム(半導体)、さらにナノ…。ついには目に見えない世界へと突入し出した。そういえば、デジタル情報にもカタチや重さや大きさがない。

 それにしても、長い間監禁されていたあの少女は、開放されると同時にものすごい影響力を社会全体に及ぼした。黙って出てきただけで、お偉いさんの首をいくつも吹き飛ばしたのである。そして「警察権力」を「市民警察」にダイナミックにシフトさせつつある。その理由は、繰り返すようだが、その絶妙なタイミングだった。
 タイミングさえうまく合えば、ちっちゃな存在でも恐るべき威力を発揮することができる。それが運不運を決定づけてしまうのだ。

 季節は春、二〇〇〇年を迎えた世の中を見渡せば、いくつもちっちゃな新しい芽が出てきているように思う。あんなに柔らかい緑の芽なのに、ダイナミックに土を割り、石を裂き、コンクリートを打ち砕いて天空を目指す。それは決して物質力でも物量の力でもない。目には見えない生命のもつエネルギーだ。
 強さは規模や物量ではなくパワフルな生命力にあり…、それが人生にも経営にも、恐るべき示唆を与えてくれているのではなかろうか。

前月

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