小渕首相が病に倒れ、森政権が誕生した。連立政権を考えた場合、どうやらこれがベストの選択肢だったらしい。日本の社会が議会制民主主義、つまり多数決の原理で機能している限り、過半数を取ろうとするのは当然の政治力学だからだ。だとしたら、森政権にベクトルが動いたとしても不思議ではない。
珍しく政治的な問題から書き始めてしまったが、ぼくが今回考えてみたかったのは、民主主義の主軸でもあるこの「多数決原理」というヤツである。つまり、多数決による政策決定は、本当に民主的な社会を実現してくれるのかと…。
萱野茂さんの本の中に、よく「ウコチャランケ」というアイヌ語が出てくる。これはどうやらアイヌ文化の本質をシンボライズする言葉らしい。萱野さんはこの言葉を、次のように説明する。
「ウコチャランケというアイヌ語を、北海道に住む和人はその意味もちゃんと知らずに、文句をつけるとか、けんかを売ると解釈しているようです。しかし本当の意味は、ウ=互い、コ=それ、チャ=言葉、ランケ=降ろす…であり、つまりお互いに持っている言葉をそこにおろし、公正に判断しようというのが本来の意味なのです」
萱野さんはウコチャランケを、人間の社会のみならず、野生動物や自然界全体にまで広げて説明する。すなわち、空気や空や流れる水や川や海、また樹木にも生命を認め、さらにキツネや小鳥やサカナたちの言い分もちゃんと聞いてあげる。それがアイヌでのウコチャランケだと言うのである。
環境問題や自然との共生が大きなテーマになりつつあるいま、ウコチャランケはまさに現代人が立ち返るべき「場」とはいえないだろうか。ちなみに「クマ出没騒動」などでは「クマの言い分?」もちゃんと聞いてあげるべきだろうし、開発に際してもそれは同じで、自然サイドのエコ的(エゴじゃない!)主張も聞いてあげたほうがいい。というのも、人間側の損得勘定や都合だけで物事を進めて行っては、必ずどこかでしっぺ返しに合う。だからこそ「自分自身を大切にするためにもウコチャランケが大切」と萱野さんは言うのだ。
ウコチャランケという言葉を簡潔に言い換えるならば、それは、「みんなで自由に、忌憚なく語り合おうよ」 ということであろう。すなわち、それぞれの心の中にある言葉(チャ=思い、考え、意見、アイデア等々)を、それぞれ(みんな)が「そこ」に降ろす(ランケ)。「言葉を降ろす」とは、なんとステキな表現であろう。そこにはお互いに「自然に・正直に・素直に語らい合う」という姿勢が現れているからだ。
アイヌ語のウコチャランケは、本来人間だけでなく自然界全体をも含む概念のようだが、人間社会に限って考えてみた場合でも、私たちの周囲には、ウコチャランケとはほど遠い現実が満ちあふれている。
実際、私たちは普段心の中にもっている言葉を、果たして素直に正直に表現できているであろうか。みんなで「言葉を降ろす場」を常に共有しあえているだろうか。気軽に、自由に、自分の思いを伝えることができているのだろうか。
多くの場合、自分の心の中にある言葉(本音)をそのまま飲み込んでしまって沈黙し、あるいは人の言葉を拒絶する。そして十分に理解も納得もできないまま、「周辺の空気」や「ことの成り行き」に流されてしまいがちだ。
なるほど、これまではそれでも仕方なかったのかもしれない。が、果たしてこれからもそういった姿勢で生きていっていいのだろうか。
さて、ウコチャランケ…。ぼくはそこに「共生の知恵」を見るような気がする。
みんなが互いに(ウ)、そこに(コ)それぞれの言葉(チャ)を降ろす(ランケ)ということは、つまりは、「そこに」いろいろな言葉(意見・思い・考え・アイデア)がずらり出そろうということだ。その中には「ええっ?」と驚くような意見があるかもしれないし、思わずむかついてしまいそうなイヤな意見もあるかもしれない。が、人それぞれ、立場も年齢もそれぞれなのだから、そうであって当然のこと。この場合に大切なことは、「人は決してみな同じではない」という事実を客観的に再確認し合うことであろう。
とは言っても、あえて意見の違いを際だたせて、激しく議論したり、対論しようというわけではない。大切なのはあくまでも「自分の言葉」を「素直に降ろす(表現する)場」の確保であって、これなくして新しい知恵も方法も見つからない。
要するに、まずいろんな言葉をフラットに並べてみることなのだ。そこから初めて問題の本質も出口も見えだしていく。人によっていろんな言葉(チャ)があるということを知ること自体に、大きな意味があるのではなかろうか。
次に大事なことは、ランケ(降ろす)ということだ。ご注目いただきたいのは、言葉を「上げる」ではなく「降ろす」としていることだ。これはこれまでの社会常識とは全く逆の営みである。というのも、これまで私たちは言葉を「上に掲げる」営みに終始してきたからだ。
そもそも議会で原稿の棒読みが行われているのも、その結果である。言葉というものは大勢の人から見上げられるものだから、どこから見てもスキがないように上手に論理的に飾り立てられなければならない。が、これでは言葉が死んでしまう。国会答弁が「言語明瞭意味不明」と言われるゆえんも、まさにここにある。
これは別に議会に限ったことではない。言葉は常に上に掲げられてきた。書物を出版することを「上梓する」ということなど、まさにその最たるものであり、出版自体が社会の上層に言葉を掲げる営みであった。だからこそ言葉は飾り立てられ、それとともに本来のチャ(思い)のいのちは萎えていった。これであっては本当のチャランケはできない。言葉(チャ)はランケ(降ろされ)て始めていのちを保ちうるからである。
とは言いながらも、最近ではチャランケに耳を傾ける人々もどんどん増えつつあるようだ。例えばつい最近、静岡県の海岸に打ち上げられたマッコウクジラの救出作戦が大々的に繰り広げられたが、これなどもあのクジラのチャ(思い・言葉)に耳を傾ける人が増えてきた証拠かもしれない。もしこれが一昔前のことだったら、「飛んで火に入る夏の虫」ではないが、「しめしめ」とみんなでたちまち解体して食べてしまったことであろう。
しかし多くの人々はあのクジラの姿に、クジラのチャ(思い・言葉)を聞いた。クジラは何も語らなかったが、そこにぐったりと横たわっている姿そのものが、クジラのチャ(思い)をランケ(降ろす)営みだったのである。
そう考えると、世の中は徐々にウコチャランケの意味を理解し始めているような気もしてくる。実際、クジラ救出作戦においては、誰も「どうしたらいいか、多数決で決めよう!」とは言い出さなかった。目の前で弱って横たわっているクジラを見た瞬間、多くの人々の心の中に「助けてあげよう!」という思い(チャ)がランケされたからだ。その意味で、チャランケこそその場その場のベストの行動を生みだすコミュニケーション方法といえるかもしれない。
チャ(思いや言葉)をそのまま素直に降ろす場があったとしたら、どんなに楽であろうか。それができない社会だからこそ、ストレスが溜まって苦しみや病気もどんどん増えてきているのだ。
しかし「時代の進化」は良くしたもので、一方でインターネットが普及して、あちこちの「おしゃべり広場」でチャランケらしきものが盛んに行われ出し、そこでは言葉(チャ)の多くが、文字どおり自由、気楽にランケ(降ろ)されている。
こう考えると、アイヌ文化が文明社会の最前線で蘇っているようにも見えてくる。いずれにしても人間側、それも特定の企業や産業や政党の損得勘定だけを多数決で押し切っていては、必ずや自然や何かから報復されることになるだろう。自然をあなどってはいけない。と同時に、自分のチャ(思い)を素直に表現することもまた、健康な自己を保つために必要になってくるだろう。
ということで、ぼく自身勝手に世の中にチャチャを入れ、チャを濁してきたが、それもこの場が大らかなチャランケの場だったからのこと。こんな場が世の中にあったことに心から感謝したい。