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2000年07月:有珠山噴火から三カ月が経ち……

 有珠山が噴火してすでに三カ月になる。噴火は小康状態を保ち、避難所から帰宅できる人も増えてきた。しかし被災者たちの不安は相変わらずくすぶっており、先行きも全く見えない。その図はあたかも、不況とリストラ、失業の渦に呑み込まれて出口の見えない、日本社会の象徴的な圧縮図のようでもある。

 それにしても自然の威力はすさまじい。地下のマグマはあちこちに噴火口を作り出し、家や道路などの人工物をいとも軽々ともてあそぶ。火山の呼吸(噴火)は単なる自然現象でも、それは人命や財産を左右する「天災」になりうる。このように思いがけない出来事に見舞われたとき、さて人はどのように考え、いかに生きたらいいのだろう。
 有珠山の噴火と多少なりの縁があったぼくは、今回の噴火にも無関心ではいられなかった。
 「噴火との縁」とは、二三年前の噴火を目の前で見たことだ。全くもっての偶然だった。洞爺湖畔をドライブしていたところ、いきなり目の前で大噴火が起こったのだ。上空にどんどん立ち上っていくまるで原爆雲のような不気味で神秘的な噴煙の柱…、あの夏の日のことが、いまなお記憶に鮮明に残っている。
 その後、取材で現地にも入ってみた。そのときは頭上に黒雲が低く横たわり、雲の中で雷鳴と稲妻が頻繁に走った。すっかり葉を落とした「冬枯れ」の木立、雪のように降り積もった火山灰、緑も花々もどこにもなく、野鳥や昆虫の姿も全く見えない。季節は夏というのに、山の辺り一面は冬景色そのもので、その光景はまるで死の世界、この世の終わりを連想させ、いつ自然が回復するものやら見当もつかなかった。しかし再び秋に現地を訪れてみたとき、立ち枯れた木々から新緑が芽生え、秋というのに早春の気配が広がっていた。有珠山の大噴火は真夏に真冬の風景を見せつけ、そして紅葉の秋に新緑の光景を描き出したのだ。
 季節感が狂うことくらい落ち着かないものはない。果たしてこれからどうなるものやら、人ごとながら大噴火の後遺症を心配したものだった。しかしその数年後、緑も季節感も蘇り、町も人々の暮らしも蘇生した。偉大なるかな自然と人々の蘇生力…、それがぼく自身の「昭和の記憶」の一つとして鮮やかに脳裏に焼き付いている。

 二三年前のあの大噴火に比べれば、今回の噴火は規模が小さい。が、どこまで続くか分からない小康状態のなかで、人々はむしろ深い不安感に襲われている。しかもそれは決して、義援金や支援物資で癒せるたぐいのものではなさそうだ。
 そうした思いは、西山噴火口から一〇〇メートルの距離に新築同然の我が家を持つ、沢口さんと話し合ったときからいよいよ高まった。
 沢口さんはNHK特集や新聞などのマスコミですっかり有名になってしまった方である。というのも、身ひとつの緊急避難を余儀なくされ、亡き一人息子の作品(絵)も持ち出すことができなかった。絵は沢口さんご夫婦が命よりも大切にしてきたものである。そのため五回にわたって徒歩で自宅を目指したものの、うち三回は途中で阻止された。が、二回は見事自宅にまでたどり着き、生身を賭して現地の状況を役場に伝えた。そしてその情報がその後の状況判断に役立つことになる。
 皮肉なことに、沢口さんは行政の阻止をくぐり抜けて危険地域に入り、そこで得た情報が「阻止した行政」の手によって見事生かされることになったのである。
 その沢口さんとも、実はぼくは交流があった。不慮の交通事故で亡くなった一人息子敏くんの「交通安全カレンダー」づくりを通じてである。

 こうしてぼくは、二三年前の噴火体験と沢口さんとの交流を通して、今回の有珠山噴火と関わることになった。そして思ったことは、「再起への激励」こそ三カ月目を迎えたいまの被災者たちに最も必要なことではないか…というものだった。
 「再起」…それは「生きる・自立・サバイバル」の営みである。そしてこの言葉は、そう、本誌六月号での「小野田寛郎さんのメッセージ」そのものだった。そんなこともあり、本誌編集部の理解と協力を得て、即座にぼくは「小野田さんの現地激励行脚」を企てた。そのなかには、仮設住宅に住む沢口さんとの対話も盛り込まれていた。
 小野田寛郎さんによる現地の被災者激励行脚は、まず仮設住宅や避難所での被災者たちとの語らいから始まり、また現地のFM局(レイクトピア)でも約一時間半の生放送のメッセージが贈られた。小野田さんは形式的なお見舞いというよりは、被災者とじかに触れ、人々の心に直接語りかけることをもって激励したのである。
 そのなかで小野田さんが語ったお話の要点は、
 「現実を見据えなさい。過去にこだわっていては弱くなる。大事なものは『いま』であり、健康ないまの自分があって初めて明日への足がかりができる。そして明日を開くには情報の手がかりが必要だ。基本はあくまでも自己責任、他者に依存しすぎては自立できない」というものだった。
 もちろんそれは、三〇年間にも及ぶルバング島での体験や、ゼロからのブラジル牧場開拓の体験にしっかりと裏付けられたものだった。要するに、不慮の災難に遭遇したときに、そこからサバイバル・自立していくためには、「臨機応変」の柔軟な思考と、かつ「不撓不屈(たゆまず、屈せず)」の気概が必要になるということだ。

 さて本題の、「思いがけない出来事に見舞われたとき、人はどのように考え、いかに生きたらいいのか」ということだが、これに対して小野田さんは「起きてしまったことを率直に許容しなさい」と言う。早い話、反省も必要だろうが、いつまでも過去のことをイジイジと悔いたり、じたばたしても始まらないのだ。そうは言っても、思いがけない出来事は、それまでの生活環境をすっかり変えてしまう。が、腹を決めて事態を受け容れれば、新たな環境にもなんとか慣れるものらしい。
 小野田さんの場合、ルバング島で米軍に囲まれたとき、最初の三日間ほどは地べたにそのまま眠ることに抵抗を感じたというが、三日間を耐え抜けば、なんとか慣れて次の三カ月を生き抜く自信もついてくるという。人間とは本来環境に順応できる存在で、要は最初の三日間の決意と気持ちの持ちようがすべてを決してしまうということのようだ。
 そして三カ月を無事に越えれば、次の三年間もほぼ大丈夫になってくるそうだ。しかし試練は三カ月目にやってくる。そしてその三カ月目を、いま現地の被災者たちは迎えているのである。
 一時間以上にも及ぶ小野田さんのFMでのお話では、その他にも数々の珠玉の言葉が文字どおり激励のメッセージとして語られた。そしてそれは、お金や物資にも増して人々の心に勇気を奮い立たせてくれたにちがいなかった。

 環境の大変化や出口が見えないことの不安感は、決して有珠山被災者たちだけのものではない。それは二一世紀を目前にした私たち全員が共有するものであり、実際、自己責任・自立・サバイバル等々が時代のキーワードになっている。
 その意味で、小野田寛郎さんの激励メッセージは、実は現代人全員に向けた言葉のようにも、ぼくの耳には聞こえてきた。となれば、有珠山の突然の噴火は決して他人事ならず、実は私たちもそこからさまざまなことを考えなければならないのかもしれない。
 小野田さんの被災地行脚を終えたいま、ぼくはつくづく不思議な思いにひたっている。というのも、有珠山噴火はぼくにとって単なるニュースの一つにすぎず、本来なら「大変だろうなぁ」程度で見過ごしていたにちがいなかったからである。
 ところが二三年前の体験と沢口さんとの交流が縁で有珠山につながることになり、ついには小野田寛郎さんのサバイバルメッセージを被災者たちに伝える触媒役を果たすことになってしまった。その結果、小野田さんと沢口さんの出会いが起こり、被災者たちに小野田さんの激励のメッセージが届くことにもなった。その媒体は本誌である。つくづくつながり方の妙を思わざるをえない。
 つながりの妙といえば、今回の「小野田行脚」は五社からのサポートによって具体化されることになった。こうしていろんなものが有珠山につながっていく。噴火は決して破壊だけでなく、一方で新たな創造的なつながりも生みだしている。

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