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2000年08月:季節が巡るのは当たり前?

 久々にサハラ砂漠の遊牧民(トゥワレグ族)の娘、マリアンさんとゆっくりお話することができた。マリアンさんは、海外青年協力隊員だった日本の青年と結婚して、以来一六年間日本に住んでおられる方である。
 「初めて日本に来たとき、何もかも砂漠の暮らしとは違っていて、ただとまどうばかりでした。またどこに行っても緑が豊かなことに深い感動を覚えました。ところがある時期から緑だった自然の色が変わり始め、しかも一斉に葉っぱが枯れて木から落ちていく…。それを見たとき、大規模な気象異変かな?それとも世の終わりなのかな?と、とても不安な気持ちにさせられてしまったんです」
 日本語が全くできなかった結婚間もないマリアンさんは、夫が海外に出張した後、その自然の変化の意味を誰かに聞くこともできず、てっきり自然環境に大異変が起きたと思ったという。
 実際彼女の目に、それは大異変そのものだった。なにしろ徐々に自然の色が変わり、多くの木々が丸裸になってしまったのだから。
 しかし日本人にとって、四季の移ろいは当たり前のことだ。夏の後には秋が来て、緑の木々が紅葉に染まる。やがて枯葉の季節となり、厳しく寒い冬を迎える。が、春ともなれば再び緑の芽が伸びだし、日本列島は一斉に春。こうして季節は巡っていく。
 そんな日本の四季に、いまのマリアンさんは感動する。が、季節の変化を見た最初の体験では、不安ばかりがふくらんでしまったのだ。
 人間、意味が理解できないと不安が募る。季節の変化にさえびっくりしてしまう。が、季節が変化するものであることを体験し、理解してしまえば、それは「しごく当たり前のこと」になる。それくらい「意味の理解」は重要である。
 ひるがえって今の社会を見るときに、ここ最近驚くことばかりが続いている。「一七歳問題」も驚き以外の何ものでももないし、豊かなはずだった日本の台所事情のひどさも驚きだ。しかもその驚きの枝からは不安の葉が繁っている。こんなことで日本は大丈夫か、将来が心配で仕方ないと。
 ところが、「驚くほうが驚きだね」という見方も一方にはある。つまりは「起こって当然のことが起きたまで」ということだ。実際、ほとんどの事件や事故にはちゃんとそれなりの原因がある。要は、その原因や発生のメカニズムが、私たちの目に見えなかっただけ…ということだ。
 マリアンさんが「四季の変化」に驚きと不安を覚えたように、よくよく考えてみれば「自然の世界」には驚きがいっぱいだ。水が温度によって個体から液体、気体へと変化するのも驚きだし、草しか食べてないゾウが、あれだけの巨体を支える骨格と体力を自ら作り出すのも驚きだ。さらに言えば、どんなに小さな生物にもちゃんと見事な遺伝子があり、DNAの配列具合によってそこにありとあらゆるプログラムが収められているという。
 最近ではヒトゲノム計画に一応の決着が付き、人間の生命のプログラムが一通り解読されたという。が、単純なぼくとしては、人間の知性と努力の偉大さを讃える以前に、いったいどうしてそんなプログラムが目に見えない遺伝子にインプットされるに至ったのか、むしろそっちのほうに余計な興味が向いてしまう。
 それはさておき、とにかく自然の世界には分からないことが多すぎる。だとしたらもっと深遠な世界とも言うべき人間の精神のメカニズムに、分からない驚きがあったとしても不思議でない。
 にもかかわらず、なぜか私たちは分かったつもりになっている。自然の神秘も、人間の社会や、精神の世界の不思議も、すべてが知性で理解できると思いこんでいる。が、正直な話、説明されればされるほど、ぼくにはますます神秘と不思議の世界が広がっていくのだ。
 ちなみに、毛虫はサナギになり、そしてサナギはチョウチョになる。しかもサナギからチョウに変化するその節目では、驚くべき出来事が起きている。そのとき、サナギの内部組織はどろどろのタール状に溶け、そこから改めてチョウとしての体組織が新たに創造されていくというのだ。
 見方によれば、これは恐るべき「魔術・魔法」といえるかもしれない。しかも羽化したチョウは、やがて広い大空を自由自在に舞い翔ぶ存在となる。その姿は優雅そのもの、華麗そのもので、まさかほんの少し前までは、それがあの気味悪い毛虫だったなどとはとうてい思えない。これはまさに驚くべき大変身ぶりである。
 毛虫からチョウへの変身ぶりは大変な驚きだが、昆虫の生態を知る者なら、それはしごく当たり前のこと。変態のメカニズムさえ理解すれば「驚くほうが驚き」ということにもなる。
 人間は、赤ちゃんから大人までゆっくりと徐々に「連続的」な成長をしていくが、昆虫たちはじつにドラマチックな「不連続」の変身・変態(メタモルフォーゼ)を成し遂げていく。そして、素直な心で振り返ってみれば、宇宙もまたしかり。それはドラマチックな「昆虫のごとき進化」を遂げてきたといえるだろう。
 というのもこれまでのプロセスで、そこにはいく度もの不連続的なドラマチックな飛翔があったのだから。宇宙の誕生から人間の誕生、そして私たちが生きる今の時代に至るまでの間には、たえず驚くべき進化のジャンプがあったのである。
 その変化は、まさにとんでもないジャンプという以外に言葉がない。宇宙の進化の過程では、毛虫がチョウチョになるほどの大変化が何度も何度も繰り返されてきた。だからこそ、いまここに、私たちの存在もありうるのだ。
 こう考えると、この先もまた、驚くべきジャンプがないとは言い切れない。早い話、穏やかな連続的な変化ではなく、驚くべき不連続的な大変化が起こるのかも知れないのだ。
 実際、いまや従来の秩序を支えてきた「権威あるもの」がどんどん崩れさり、信ずべきものに次々と裏切られ、すべてが大変革の波にさらされている。だからこそ、ふとそんな「昆虫物語」が頭をよぎったりもする。
 ある人から、以前こんな話を聞いたことがある。
 ニワトリがアヒルの卵を孵した。幼いうちはニワトリの子のように遊んでいたそのアヒルも、やがて仲間たちから離れて水の中に入るようになる。すると、ニワトリのお母さんは心配で心配でたまらない。水辺に近づくたびに「ダメ!危ない!」と注意する。いまの母子の関係は、ちょうどそのようなものではないのか…と。
 この話は実に意味シンで、ニワトリのお母さんからすれば「驚いた!信じられない!まさか!なぜ?」の連続であっても、アヒルの子にとってはそれで当たり前。まさにそれくらいの価値観と感性の差が、いまの親子の間には生まれてしまっているのかもしれないというのだ。
 しかも価値観の変化はすべての領域で現れ、ちなみに農業から工業化への変化は「長男は家の後継ぎ」という常識をすっかり風化させてしまったし、日本経済を支えてきた滅私奉公や終身雇用もすでに過去のものとなりつつある。
 こうして「寄らば大樹の陰」がいまや「サラバ大樹の陰」となり、大会社が苦戦しておたおたしているというのに、いまだに親や学校には「そのゴールへと一直線に向かう神話」が生き続けている。これまた毛虫とチョウ、ニワトリとアヒルの価値観の差といえるかもしれない。
 驚くべき大変化の途上にあるこの時代、大切なのは「次代の予兆」を感じとる感性であり、アヒルの能力を引き出すサポート、そしてチョウチョへの希望とはいえないだろうか。とはいってもその途上は不安、心配、混乱、破壊といった崩壊現象の連続であり、それはまるで紅葉から落ち葉へと至る景色そのものだ。が、それは決して「世の終わり」でも「絶望的な大異変」でもない。むしろ「進化の大ジャンプ」と考えたほうがいいのかもしれない。
 IT革命、一七歳問題、火山噴火、大失業時代、危機管理、国の借金、ゲゼル経済学の復活等々、すべてがその伏線のようだ。同じ現象でも角度を変えてみると、不安に見えたりも、希望に見えたりもする。マリアンさんのお話から、どうやら二一世紀が少し見えてきたような気がする。

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