二〇〇一年一月…、二一世紀の出発だ。この世紀は果たしてどんな社会を創り出すのだろう。二〇〇一年は新世紀の初年であると同時に、二千年期の始まりでもある。それだけについ大上段から歴史的な妄想?にふけってみたくもなる。
それにしても、よくぞこんな時代に生を受けたものだと思う。「こんな時代」というのは単に歴史の数値的な変わり目という意味ではなく、価値観や社会のシステムが根本から大きく変わり始めたという意味においてである。
さて価値観の変化では、まずエコノミー(経済)からエコロジー(生態系)へとシフトし始めた。エコはそもそもギリシア語のオイコスに由来し、その意味するものは「家」…。家はつまり、経済と自然環境(共生)に支えられて初めて成り立つのだ。そしてそれをずばりシンボライズするようなケースに、つい最近遭遇した。
Aさん親子は八年半前からシロアリ防除剤の害に苦しんでいる。隣家の立て替え工事で使用した薬剤が、いまなお毒ガスを発生しているのだ。被害はAさん宅だけでなく近隣一帯に広がっていて、山に近い恵まれた環境なのに昆虫も野鳥も少ない。たくさんの犬たちも死んだと言う。また難病で亡くなる住民も多く、せっかく建てた家を売り払って引っ越していく者も相次いでいる。
それなのに、なぜか町内会も役場も「臭いものにフタ」を決め込み、問題が表沙汰になることを極度に嫌っている。そこが危険な土地であることが知られようものならパニックが起き、かつ地価が下がってしまうからだろうか。
「生命の安全」よりも「経済」…、これがこれまでの価値観だった。かつてある首相は「生命は地球よりも重い」と言ったが、実はつい最近までお金が命に優先してきたのだ。が、価値観はまぎれもなく変わり始めた。その証拠に、長い間抑え続けられてきたAさんの叫びは本として出版され、多くの人々の耳に届くようになったからである。
土壌汚染は住宅地に限らず、工業用地でも大きな問題になっている。これはとどのつまり、エコロジーとエコノミーの関係が逆転し始めたということだ。要するに「家」にいくらお金があっても、安全と健康が蝕まれては幸せにはなれない。そのことに多くの者たちが気付き始めたのだ。
そして人類にとっての「家」は地球そのものだ。が、いまやその地球の屋根(オゾン層)に穴が空き、危険な紫外線が屋内に届いている。また燃やした化石燃料は屋内を有害物質で満たし、かつ室温も上がった。さらに床下の土や化学建材も毒ガスを発生し続ける。これは言うまでもなくエコノミーをエコロジーに優先させてきた結果である。
にもかかわらず、いまだに世論の声は「景気対策」だ。その理由は、お金がなければ生きていけない社会になってしまったからであろう。つまり社会システムはお金があって初めて機能し、暮らしもまたお金に完璧に依存している。が、お金が永遠に価値を持ち続ける保証などどこにもない。
そんなことから、一方で新しい動きも起こり始めた。いわば物々交換経済に近い社会システムの創造である。その代表例がずばり地域通貨(エコマネー)の広がりだろうし、ボランティアやNPO等々の活発な動きまたしかり。大事なことは、別にお金(経済)を介在させなくても社会はちゃんと動くし、暮らしもそれなりに成り立つという気づきだろう。しかもこの気づきは、いまやあらゆる領域で静かな高まりを見せ始めている。
その一例、「ドーム&ファーム」構想を呼びかけたところ、早くも反響が湧き起こっている。これは遊んでいる土地に廃材で仮設ドーム(別荘)を作って菜園や果樹を楽しもうという呼びかけで、いわばドイツのクライン・ガルテンの日本版だが、これに思いがけない反応が生まれているのだ。
いったいなぜか。もしもお金をかけずに廃材とボランティアで簡単に別荘が作れたとしたら、お金をかけずに家族やグループで週末が楽しめるだけでなく、捨てたいと思っていた家電や家具などもそこで再利用できるからだ。
もちろん生ゴミも畑の堆肥として利用でき、ファームで野菜や果物を作れば、安全な食べ物をある程度自給することも可能になる。要するに、さほどお金をかけずとも自然で自由な暮らし、つまりエコロジカルな生き方が可能と知ったとき、多くの市民たちが声を上げてくれたのである。
あるホテルのオーナーもこれに共感し、新装オープンに向けてのホテルの解体作業をボランティアグループに発注してくれた。その解体費は億単位に及ぶが、産業廃棄物の処理費用もその三割を占めるからだ。もしもまだ使えるユニットバスや便器、洗面化粧台、照明器具、畳、木材などをゴミとして捨てずに再利用してくれれば、産廃処理費が助かるのみならず、環境汚染もせずに済む。もちろん取り外した設備や資材は、ファーム&ドーム展開で生かされることにもなる。
動きはまだ始まったばかりだが、もしも都市周辺にドーム&ファームがどんどん広がっていったとしたら、いったいどうなることだろう。そこには当然光と影の両面がある。光は、お金をかけずとも健康的で自由、自然な暮らしが可能になり、かつ環境問題の負荷を大幅に軽減することができるということ。そして影の部分は、その結果レジャー産業や食品産業、産廃処理産業等々に悪影響(不景気化?)が出るということだろう。
そうではあっても、二一世紀はやっぱりエコノミーよりもエコロジーが優先されなければならない。いや、エコロジカルな経済システムの再構築(自然と経済の調和)こそが、これからの何よりも重要なテーマになっていくにちがいない。
こうして「命の安全よりもお金」「エコロジーよりもエコノミー」という従来の価値観が大きく変わり始め、かつそのためのシステムも徐々に動き始めてきた。システムなどというと大げさだが、情報とモノとボランティア(労力)が新しくつながり合うことにより、それほど必死でお金を稼がなくても健康的に暮らすことができ、かつ自然環境をいたわる仕事と経済が芽生え始めたのだ。
以上の動きをキーワードで整理すれば、循環型・分散化・自立的・ネットワーク化ということになろう。これはこれまでの価値観とシステム(一方通行・中央集権・依存・ピラミッド組織)とはまるで正反対の概念だ。しかもその主体はあくまでも個人であり、決して集団主義によるものではない。エコロジカルなエネルギーの脈動は、自由と自発的参加の風土にのみ発生するようだ。
大上段に構えすぎたせいか抽象に流れてしまったが、簡単に言えば、物事をしなやかに組み合わせさえすれば、出口は意外と簡単に見つかりそうだということだ。にもかかわらず人間という経済動物は、ついつい目先のソロバンを優先してしまう。だが、もしもソロバン勘定をするのなら、天地自然の恵みもまたそこに加えるべきだろう。
その事例。北海道ワイン(おたるワイン)は、葡萄農家が今秋過剰に栽培した葡萄をソロバン抜きで買い取った。誰かが買い取らなければ大量の葡萄が腐ってしまうからだ。が、農家救済と葡萄を生かそうとするこの決断は余りにもリスキー。なぜならワインブームはすでに去り、下手をすれば大量の在庫を抱えかねないからだ。
目先の損得勘定からすれば、過剰生産物は廃棄して当然。実際、農産物や牛乳などの多くがこれまで無惨にも廃棄され続けてきた。が、それは市場原理のみに従う農家の損得勘定による処分であって、生活者や天地自然からすればもったいない話。本来なら天地が育てた恵みは、ともに感謝しながらみんなで分かち合うべきだろう。
北海道ワインはそう考え、腐るべき運命に置かれていた葡萄を買い取って、「大地と太陽の恵み」の名のもと、感謝還元価格で手渡した。するとそこに思いがけない動きが起きた。ワインメーカーのその心意気に、共感者が続出したのである。これまた「エコノミー(ソロバン勘定)よりもエコロジー」の脈動の鮮やかな一例と言えよう。
そう、地球という家の住人は、天地の恵みも含めたエコロジカルなソロバンをはじいてこそ、本当に豊かに、幸せになれる。しかもこうした経営と仕事にくみする企業や個人が、いまや続々と現れ始めている。これこそ二一世紀の希望の予感、次代に結実する新しい芽とは言えないだろうか。