二一世紀初の国会は、KSDや外務省のスキャンダラスな事件で沸き立っている。
野党にとってこれは格好の突きどころ、一方与党は、それをはぐらかして予算審議に持ち込もうとしているかのようだ。
その国会の論戦模様をなにげなく友人とカーラジオで聞いていたところ、次のような言葉が耳に飛び込んできた。
「これからはIT産業、環境産業、医療産業、福祉産業、教育産業……」
「これらの伸びる産業が雇用を創出し、景気を……」
巷でよく言われている言葉だ。しかし、ぼくはとっさに愚痴っぽくつぶやいていた。
「どうしてなにもかも産業にしてしまうんだろう。二〇世紀的な発想はもうやめにしてほしいものだね」
隣の友人もうなずいた。そして言った。
「産業が盛んにならなければ、まるで社会が成り立たないかのようだね」
かく言う友人は、某大企業の部長職を定年前に退職し、いまは文明社会のノマド(遊牧民)を決め込んでいる。要するに脱産業、脱サラリーマンを決行した輩だ。
ぼくが愚痴ったのにはワケがある。
いまや医療産業花盛りで、全国に乱立している病院は言うまでもなく、医薬品産業、医療機器産業、さらに健康産業や民間医療まで含めれば、この産業の規模はまさに巨大マンモスだ。
いったいなぜか。答は単純、世の中に病人が多すぎるからである。
これだけ医療産業が巨大化しているというのに、病人が減りそうな気配は全くない。むしろ「医原病」なるものまで作り出し、ますます成長を遂げている。医療産業が成長するということは、実は不幸な世の中であることの証拠なのだ。
実際、世の中から病人がいなくなれば、病院も、医師も、薬も、医療機器も、そのほとんどが要らなくなる。だから政治家としては、むしろ「医療産業衰退化」を目指した社会政策を立案すべきだろう。
環境産業もしかり。世の中が汚染され過ぎているからこそ、環境産業なるものが成長する。そもそも「環境」などという言葉が社会に飛びだしてきたのは、公害や環境汚染が深刻な社会問題になってきてからのこと。ゴミが減り、環境がきれいになれば、環境産業は成り立たない。ゴミが出なくなれば、掃除にエネルギーと時間と経費を浪費する必要がなくなってしまうのだ。
福祉の問題もどこかおかしい。世の中に孤独な老人や寝たきり老人、はたまた痴呆や不幸な人々が多すぎるからこそ、福祉が大きな意味を持ってくる。福祉がしっかりしていることはいいことだが、福祉を必要とする社会は不幸が蔓延している証拠でもある。福祉産業が大成長するような世の中は決して幸福な社会とは言えないのだ。
こんな話をすると、「そんなの現実を無視した書生論だよ」と決まってバカにされる。確かにそうだろう。現実の社会は、ゴミも、病人も、不幸な人々もあまりにも多く、これらを早急に解決する必要がある。だからこそ医療産業や環境産業、福祉産業が伸びなければならないというわけだ。
教育産業はどうだろう。教育自体は人間にとって不可欠のものだろうが、それが産業化したとたん病的な臭いが漂ってくる。というのも、その多くは医療や裁判、環境、福祉といった「伸びる産業」の戦士を養成しようとやっきになるからだ。
教育は絶えず社会のニーズを満たそうと動いてきた。その多くは産業戦士養成機関であった。そしてそれはいまでも成長産業にベクトルを向ける。
また教育が注目される昨今は、公立学校の教師志願者も多く、教員免許の試験は医師や弁護士試験にも匹敵するほど難しくなってきているという。つまり先生になるには非常に厳しい競争を突破しなければならず、蹴落とし競争に勝った者のみが子供たちを教える資格を得るのだ。
が、教師の資格が試験の成績で決まるというのは、どこかズレていはしまいか。教育で何よりも大切な条件は、まず「子供が大好き」ということであって、点数で資格を与えるというのは、肝心の子供たちを無視した選抜方法ではなかろうか。
おっと、つい論点がずれてしまった。話を戻そう。医療も、環境も、福祉も、教育も、それが産業として大成長するということ自体、世の中が歪んでいることを物語っている。だから政治も行政も、本来はこうした産業を不要化していく方向に向かわなければなるまい。
ところが国会では、「これらの成長産業で雇用を創出すべし」と叫んでいる。しかもこのおかしさを誰も指摘しない。どんな産業であれ、雇用と景気に役立つものは大歓迎ということのようだ。
この論を極限まで突き進めていくと、「雇用と景気問題を解決してくれるのなら軍需産業の成長を」ということにもなりかねない。他国や他人の不幸をエサにして、自らが太ろうという論だ。いくらなんでも日本がそこまで暴走するとも思えないが、この経済成長主義、景気浮揚主義をとことん追求していくと、「人の不幸で飯を食う」ことも正当化される。早い話、経営危機に見舞われた病院を立て直すには、一方でどんどん病人を大量生産していけばいいわけだ。
ついつい過激な話になってしまったが、二〇世紀という時代は結果的にそういった社会だったような気がする。要するに、数多くの産業が栄えて便利な社会は作りだしたものの、それは決して幸福をもたらしてはくれなかったのだ。
二一世紀の課題は、「人の不幸を肥料にして大きく成長する産業」をなくしていく営みとはいえまいか。そんなふうに考えていただけに、ふと耳にした国会論議についぼやいてしまったのである。
よくよく考えてみれば、ぼくもまた世の中のおかしさをエサに、このシニカルエッセイを綴ってきた。社会がまともにして健全であったら、皮肉っぽいものの見方など生まれようもない。その意味では、あるいは二〇世紀的価値観から成長した産業主義と同罪なのかもしれない。
いずれにしても経済成長主義は、すでにその限界を露わにしている。経済は人間の幸福のための単なる「必要条件」に過ぎなかったのだ。ところがわれわれは、それを「必要十分条件」と錯覚し続けてきた。経済さえ良くなれば、きっと幸福も満たされると…。そしてその錯覚に気づいたからこそ、隣席の友人も潔く大企業を退職し、東京から田舎の自然の中に飛び込んできたのだろう。
新世紀早々、有害化学物質にやられて入院したぼくは、改めて世の中の汚染のひどさに気づかされた。化学物質過敏症の研究で一歩先を走っているアメリカでは、有害化学物質が呼吸を通して、肺から血液へ、さらに脳に直接影響を与えて精神・神経・行動障害を引き起こすとレポートしている。またオーストラリアからの報告(ギャレット博士)も、化学建材の家に住む子供に喘息やアトピー等々が多いことを明らかにした。
となれば、いくらしつけや教育や管理や刑法を厳しくしても、キレやすい子や、集中できない子、忍耐できない子の問題は解決することができず、医療産業の大膨張も抑えることができない。何よりも大事なことは、汚染の風土をまず浄化することではなかろうか。
しかしこの問題は、建築業界や各種メーカー、さらに言えば二〇世紀的な価値観や社会システムの全体にまで波及する。汚染を浄化して健全な風土を回復させるには、現代文明を支える膨大な化学物質に異議を唱えなければならなくなる。もしそんなことになったとすれば、多くの企業は深刻な打撃を受け、一挙に倒産、失業の憂き目にも遭う。これが「経済か幸福か」の難しさだ。
にもかかわらずぼくは「便利に」よりも「幸福に」生きたい。いやこの二つは充分に両立できるものだ。それにはそれこそ「産業と技術の再編集」から来る大混乱が不可避かもしれないが、二一世紀はそれを必ず実現させていくであろう。そして、そのことにいち早く着眼した事業こそが、持続可能な道を開いていくのではなかろうか。
最後のシニカルエッセイということもあって、かなり過激な論にしては、平凡で常識的な落ちになってしまった。世紀の変わり目の三四カ月間、この誌上で自由なたわごとが許されたことに心から感謝したい。