懐かしい詩集がふと目にとまり、なにげなく開いてみました。
するとそのページには、ぼくの鉛筆の書き込みがありました。
「かなしいほどの明るさ」…。
詩の中の言葉です。
いつ、どんな場面で書き込んだのかは分かりませんが、きっとそのとき
「かなしいほどの明るさ」を胸に感じていたのでしょう。
……その詩を以下に紹介してみます。
まひるまの
かなしいほどの明るさのなかに
その門は立っている
今も 遠い昔も
光の幕が上がり
蒼く澄みわたる半円球の冬空の下で
魂は荒野のようになる
名もなく
はじめて見いだされたときのように
荒野にはひとすじの道があり
扉のない門が立っている
そこは私の視座
動かない私の目がそこにある
ひとりで私は歩いている
今も 遠い昔も
永遠に中天にかかった太陽を見ながら
道の果ては光のなか
あの光は私の心のいちばん奧にさしている
……………………
世紀末から新世紀の変わり目でぼくは「かなしいほどの明るさ」を感じていたような気がします。
みんなで一生懸命努力したはずだったのに、20世紀という時代は「汚れっちまった」からです。
でも、その悲しさの向こうには、「永遠に中天にかかった太陽」が見え隠れしています。
その光は、自分で気がつく以外に見ることができない。
ひとりで歩いて、ひとりで動いて、光の見える場所に立つ以外にないのかもしれません。
なにげなく開いた詩集の一つの書き込みから、こんなことを考えてしまいましたが、21世紀という時代は、「心のいちばん奧にさしている」その光が、誰にもはっきりと見えるようになるのではないでしょうか。
ひとりで私は歩いている
今も 遠い昔も
永遠に中天にかかった太陽を見ながら
この言葉は、考えてみればぼくの半生だったような気もします。
でも、いまは、そこから確かな「つながり」が生まれています。
「つながり」は、人が本質的にひとりであるからこそ、人生の最も大切なテーマにもなってくるのでしょう。
「長い沈黙」を経た直後だけに、つながりの可能性に「かなしいほどの明るさ」を覚える日々です。