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空気社会・日本? | 稲田芳弘コラム
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空気社会・日本?

町内会って、なんだっけ?

とても面白い物語?

これからとても面白い物語?を紹介します。
題して、「宮丘公園物語」…。
と言っても、公園を紹介するものではありません。
日本のお役所と町内会なるものの不思議を考える物語です。

わが家のすぐ裏に宮丘公園という大きな市の公園があります。
そこは札幌市民の緊急避難場所にも指定されています。
ところが、公園の入口までの道路が市道になっていません。
正確に言えば、中腹にある入口付近の一部が私道のままなのです。

数年前までは、入口までのかなりの距離が私道のままでした。
つまり札幌市は、道路も確保せずに大きな公園を作ったのです。
しかし市民や業者の車は四季を問わずこの公園を利用しています。
その結果、さまざまな問題が起きました。

公園を管理するトラックなども頻繁に通っていました。
あるとき、作業トラックが雪の坂道をスリップし、
妻が運転する軽自動車にものすごい勢いで衝突しました。
そこには、まだ幼い娘たちも乗っていました。

幸いにも衝突した場所が良かったためか、
車の一部は大破したものの奇跡的に人身事故にはなりませんでした。
しかしその事故を調査した警察官は、こう言いました。
「下手をしたら、今晩は3人のお通夜になっていたよ」

このような危険な体験を経て、ぼくは動き出しました。
「市の公園の入口までの道路が市道でないのはおかしい」と…。
市道ではないから市の除雪車も全く入りません。
市の除雪車が入らないところは町内会がやっているのですが、
町内会もまたテキトウにしか除雪車を入れてくれません。

なぜ?
「一部の道路だけ除雪を強化するのは不公平」だからだそうです。

しかしそこは住民だけでなく、一般市民が利用する道路なのです。
市の公園なのですから、入口まで市道にして当然です。
公園管理のトラックが私道を通って公園に入るとはどういうことか。
これでは、人んちの庭を通ってわが家の玄関に入るようなものです。

あくまでも「市道化」を求めたぼくは、この点を強調しました。
すると、さすがに後ろめたいものを感じたためか、
札幌市はあわてて公園の下のほうに新しい入口を作りました<笑>。
明らかに自らの非を認めて動き出したのです。

市との交渉は本来町内会がやるべきことだと思います。
しかし、それはかたちばかりで全く本気では動きませんでした。
仕方なく、ぼくは市と直接交渉しなければならなかったのですが、
すると今度は町内会から陰湿な村八分めいた攻撃に遭います<笑>。

町内会って、いったい何なんだ?
そこからぼくの「町内会研究?」が始まりました。

10年前、ここに越してきた

10年前、ここに越してきたぼくは、疑いもなく町内会に入りました。
町内会費を払い、班長やゴミ当番などもちゃんとやってきました。
「そのこと」が起きるまで、町内会に何の疑問も感じていなかったのです。

しかし「市道化」の問題を通して、いろんな疑問が湧いてきました。
まず、町内会とは住民の安全に寄与するどころでなく、
かえってその動きを阻害し、邪魔をする存在であることに気づいたのです。

町内会の規約を見ると、これは単なる任意の組織です。
しかし当然のごとく会費を取り、市の行政の下部組織になっています。
ちなみに、市に対して個人が何かを要請したりすると、
「町内会を通して言ってきてほしい」とあっけなく拒絶され、
町内会を通そうとしても、町内会から無視・拒絶されることが多々あります。
これでは、個人として、市民としては何もできない仕組みです。

問題は、町内会の体質です。
町内会の会長は選挙で選ばれるものではありません。
悪く言えば、役員同士の(密室的な)談合で選ばれます。
それは区長でも全く同じで、いわば町内会組織はなれあいの組織です。
それが市民と行政の間に、ど~んと存在しているのです。

しかもこうした町内会が、日本全国にびっしりと根を張っています。
もしこれが民主的にうまく機能しているのなら、問題はありません。
ところが肝心なところで、それは権力的に、非民主的に動き出す。
そのことをぼくはそのときから痛感せざるをえませんでした。

結論から言えば、町内会の体質は「和を尊ぶこと」のようです。
問題を指摘されたり、市が嫌がるような問題を提起するのがイヤなのです。
「まま、そこは穏便に、もう少し大人になって事を荒立てないように…」
そうした町内会の体質からすれば、
「市の公園入口に至る市道もなく公園を作ったのは間違っている」
といったぼくの指摘は、
「事を荒立てる行為」と映ったにちがいありません。

市の行政を動かすのは、本来市議会です。
その意味では、市会議員に活躍してもらう必要があります。
ところが多くの市会議員は、町内会の応援を得て選挙に当選しています。
特に実質的な力を持つ与党の議員はそのようです。

単なる任意組織である町内会は、こうして行政にも政治にも深く関与しています。
それなのに、そこには選挙がありません。
それも当然、誰も町内会の役員などにはなりたくない。
だから一部の人(町の顔役)にすべてを任してしまう。が、その結果、
町内会組織が日本の民主主義システムをおかしくしているのです。

こういうおかしな社会システムがあるのは、日本特有のことではないのか?
そう思ったぼくは、アメリカの地域システムの取材に出向きました。

アメリカ取材と言っても

アメリカ取材と言っても、本格的にあちこち取材できるわけでもありません。
調べたのは、高々シアトルとロサンゼルスでの例だけです。
しかし、いざ調べてみると、とても興味深いことが発見できました。

それを一言でいえば、
日本の町内会のようなあいまいな組織には全く出会えなかったということです。

たとえば、新しくできたビレッジにはそれぞれ自治組織なるものがあります。
ビレッジに入居した人は、そこで安全に暮らすことができるよう
自治会会費を払いあって、ビレッジのサービスや運営をやっているのです。
この場合、自治会の役員はもちろんちゃんと選挙で選ばれます。
規模が大きい場合は、運営会社が請け負って担当することもあるそうです。

ついでにアメリカのボランティア組織の運営方法も調べてみました。
ボランティア組織といえど、役員や専従者たちの多くは有給でやっています。
それを支持する多くの市民たちは、もちろん無給のボランティアです。

こうしたシステムから言えることは、
お金をとって何かをやる場合、組織の役員は必ず選挙で選ぶということです。
そこにはとても民主的でオープンなものが息づいていました。

ひるがえって日本の町内会を考えてみると、
町内会は会費を徴収し、かつ自治体からも助成金をもらっています。
ちなみにわが町内会の場合は、年間約1000万円を扱っています。
そしてやっていることは、市の行政の下部組織としての活動(回覧板など)
であり、葬式や祭りや除雪などの仕事です。
そこにはいろんな業者との関係も出てきます。
つまり、お役所的なことと企業的なことを同時にやっているわけです。

「企業的なこと」というのは、葬儀屋さんの手配であり、除雪業者の選定です。
いわば「サービス」の手配師、つまり「サービス業」というわけです。
この場合、業者選びは本当にオープンに公平に行われているのでしょうか。
公金や会費を扱いながら、なんとなく癒着めいたものも感じられます。
そこにはそのまま、悪い意味でのお役所体質があるような気もします。

町内会が全くのボランティアとして維持されているのならいざ知らず、
役員にはそれなりの報酬も出ています。
ちなみにぼくが班長をしたときには、確か500円の手当てがありました。
これはいったい、どういうことでしょう?
どうせ有給なら、むしろプロのサービスに委ねたほうがいいかもしれません。

有給で、業者に仕事を回すなど年間1000万円も扱う町内会でありながら、
それは「事業体(企業)」でもなく、正式な行政機関でもボランティアでもありません。
しかも、役員たちが選挙で選ばれるわけでもありません。
こうした摩訶不思議な、何ら法的根拠のない全くの任意組織が、
なんと日本全国にくまなく張り巡らされているのです。

もちろん役員が人間的におかしいというわけでは決してありません。
個人的に見ればりっぱな方々もたくさんおられることでしょう。
しかしシステムとしてのおかしさが、いろんな問題を引き起こしているのです。

一気にここまで書いて

一気にここまで書いて、ふと不安になりました。
ぼくが町内会や市の行政に対する不満をただ愚痴っているだけではないのか、
といった誤解が生じるのではないだろうか…という不安です。
決してそういうわけではないのです。
ぼくはただ「日本の社会システムの不思議」を笑いたいだけなのです<笑>。

とは言っても、こんな調子で書き続けていくと、
いつどこで、大きくはみ出すことになってしまうかもしれません。
そこで、その後の顛末を最初にまず簡単に延べておきましょう。

わが家で始めた「市道化運動?」は、やがて市を動かすようにもなり、
市による測量が行われ、長い時間はかかったものの、
道路のかなりの部分がめでたく市道になりました。
その理由は、ぼくたちが勝手にチラシを作って大騒ぎをしたからです<笑>。
行政というのは、問題を指摘されるのがとてもイヤであるらしく、
大声を放ち始めると、さすがに徐々に動き出しました。
その結果、問題の坂道を含めた一部が市道になったのです。
しかし、冬道の除雪はほとんど改善されませんでした。

そこで「市道化運動」と並行して「有志の会」なるものを作り、
みんなでお金を出し合って、市や町内会とは別に業者に除雪を依頼しました。
またそれぞれが自発的に「坂道への砂まき」などもやりました。
市や町内会をあてにせず、まずは自助努力をすることが肝心と考えたからです。

こうして、公園入口に通じる道路の冬の除雪(安全)は一応確保できました。
しかし、これはあくまでも暫定的なものであって、
本来は市が市道化を進め、市民のために除雪をやって当然でしょう。
が、いまなお入口周辺の一部は市道になっておらず、
除雪もあいかわらず十分にはなされていません。

そうこうするうちに、公園に面する高台の住宅地一帯が、
町内会の中の新しい「区」としてまとまることになりました。
つまり、この一帯の住民の新しい区長が誕生することになったのです。

その通知が、ぼくのところにも届きました。これまでの区長からです。
「おたくも招いて新区長の選出をしたいので会合に参加してほしい」と…。

ぼくは言いました。
「住民みんなで区長を選出するんですか?」
「いや、代表的な人10名ほどに来てもらうことになっています。
 で、稲田さんも、その10名の中の一人に選ばれたのですよ!」

なるほど、一応「民主的」

なるほど、一応「民主的」な方法で区長を選ぼうということのようです。
これまでの慣例では、「あの人にやってもらおうか」と役員同士で決め、
候補者のところに足を運んで「頼む!」と言って決めてきたのですから、
少なくても「10人の選挙」で決めるというだけでも大きな進歩でしょう。

実際「あんたにも参加してほしい」と声を掛けられれば悪い気もしません<笑>。
しかし、その10名はいったい誰がどんな基準で決めたのでしょう。

ぼくの場合は、
「ああいったうるさいヤツを除外しては、きっと後がうるさいだろう」
ということで、たぶん選ばれたのだろうと思います<笑>。
例の「市道化運動」が、そこまで存在を認めさせたのかもしれません。

しかし、ぼくが問題にしてきたことは、
町内会をあくまでもオープンな組織にしようということでした。
「新しく区長を選ぶとしたら、区域の住民みんなで決めたほうがいい」
それがぼく自身の基本的な考え方でした。

そうは言っても、そこまでオープンさを期待することは不可能です。
幸いにも、その集会の日は、ちょうど東京に出ていく日になっていました。
そこで、ぼくは欠席を宣言し、ただ成り行きを見守ることにしました。
ま、それしか方法がなかったとも言えます。

こうして「新しい区長」が高台の一帯地域に誕生したのですが、
それにしても町内会の組織は奇妙です。
そしてその奇妙さは、そのまま地域行政にも、国政にも共通したものです。

というよりも、日本の社会的特質が、国から地方、町内会にまで浸透し、
さらには企業や団体などを含めたすべての集団組織に染みついている
といったほうが正解かもしれません。

そこには「和を尊ぶ」という大義名分のもと、
談合(密室)のうちにすべてが決まり、問題を隠し、問題提起を排除し、
「一致団結」の名のもとに個性の違いや多様性を決して認めず、
事なかれ主義、事大(大につかえる)主義が横行しています。

……おっと、やっぱりおかしな愚痴になってしまいました<笑>。
でもまぁ、これがいつわらざる現実です。
一応ざっと簡単にこれまでの流れを紹介してみましたが、
「宮丘公園物語」の不思議な各論はまだまだ続きます。
乞う、ご期待!
(ん? もう、いい加減にやめろだって?<笑>)

公園物語でまず笑えるのは

公園物語でまず笑えるのは、
札幌の重要な公園なのに、入口までの道も確保せずにずっと工事を続けていたことです。
間が抜けているといったらいいか、無責任というべきか、
それも、その担当課長が、なんとぼくの知り合いだったのですからね<笑>。

そんなことつゆ知らず、全く関係ない別件でその知り合いと話をしていたときに、
彼が当時の公園課長で、宮丘公園も担当していたことを初めて知りました。
そこで、ぼくが「そのミス」を指摘したところ、当然彼は大あわてでした。
そのときに彼はすでに人事異動で公園とは関係なかったのですが、
案の定、さっそく後輩(公園課)に連絡が入ったようです。
それから、ようやく事態が動き出したというわけです。

もう一つ笑えたのは、公園入口に通じる道路が私道のままだと指摘したとたん、
大あわてで下の方に別の新しい入口を作ったことでした。
本当なら、それまで使っていた私道を市道化すべきだと思います。
しかしお役所はそれをせずに、別のところに入口を作ったのですよ。
「ほら、ちゃんとこっちは市道に接しているよ!」といった具合にね<笑>。
きっと、お役所の面子がそうさせたのでしょうねぇ。

さらに笑えるのは、いろいろあってかなりの道路が市道化されたのに、
わが家の周辺だけが、依然として私道のまま取り残されたことです<笑>。
もっともこれにはちゃんとしたそれなりの理由があって、
決して意地悪してるというわけでもないのですが。
これに関してはまた後で書きますが、市道化を唱えた者の周りだけが取り残された
という図には、無条件で笑えます。
なぜなら、いまだに公園入口に市道が通じていないからです<笑>。

ということから、このドームがいかに辺鄙なところに建っているかが分かるでしょう。
札幌は「積雪ゼロ」であっても、この周辺はまだ残雪がいっぱいです<笑>。
さきほどなんかは、またすごい吹雪(あられ)になっていました。
とにかく「公園物語」は笑い事でいっぱいです。
お役所の対応もおかしければ、町内会の組織もおかしいことだらけ。
やっぱり「宇宙の笑い」がこの地上にも現象化してきたのでしょうか<笑>。

ごぶさたしました。再び…

ごぶさたしました。再び「宮丘公園物語」を続けることにしましょう。
その後いろんな進展がありました。が、そのプロセスを一気に飛ばし、
今晩行われた「ある会合」のことについてお話してみたいと思います。

町内会に新しく「第9区」が誕生し、新区長が決まりました。
これは住民のあずかり知らぬところで決められた人事です。
住民は「第9区」の誕生も「新区長」も「上」から伝達されたのです。

ある日「新区長」の家に区内の何人かが集められて協力を呼びかけられました。
その中の一人にぼくもいました。(というより、自主的に参加したのですが)
その場でぼくは言いました。
「9区だけは民主的にやっていったほうがいい。だから住民に呼びかけて、
第9区の誕生と新区長新任の挨拶をし、事後承諾的な理解を得るべきだ」と。

提案は受け容れられ、住民集会が持たれることになりました。
また雑談の中で「町内会第9区とは別に自主的な機関を持ってはどうか」
ということも話題に上がり、「住み良い環境をつくる会(仮称)」という会を
新たに作ることになりました。
この会のポイントは、まず会長を選挙で選べるオープンなものにすること。
この会が住民の意見を吸い上げ、町内会や行政を動かしていく媒体であること。
町内会の第9区は「上」の機関からの伝達組織にすぎませんが、
逆に「下?」からの声を外部に反映させるものととして「会」を位置づけたのです。

正直言って、組織のしがらみに巻き込まれるのはぼくは嫌いです。
しかし、行政や町内会の壁や圧力を突き破るには組織をもってするしかありません。
そこでぼくも会の新設提案に理解を示し、準備委員会のメンバーになりました。

5月14日、第9区の総会が開かれ、その場で「新しい会」の承認が得られました。
もちろん会への参加は自由です。これは町内会とは違うのですから、
本来、町内会の第9区の総会で承認すること自体がおかしなことです。
しかし第9区が新しい会の存在(誕生)を認めるというカタチをとったのです。

そして今日、新設された会の第一回役員会が開かれました。
ぼくは、総務部長です<笑>。
しかし、今晩の初会合でぼくが自分の意見を披瀝した結果、議論は紛糾しました。
紛糾した理由は、組織に対する考え方がぼくと他の人たちが全く違ったからです。
その結果、ぼくは脱会せざるをえませんでした。
5月14日の「総会」では議長として「この会」の意味を力説したぼくが、
なんと「脱会者第1号」になってしまったのです<笑>。

なぜぼくが「脱会者第1号」

なぜぼくが「脱会者第1号」になってしまったのか?
これは、日本社会の組織を考える上で非常に重要な問題です。
ある意味で「日本は天皇を中心とする神の国」発言にも通じる問題です。
一言でいってしまえば、組織は何よりも和を尊しとする…と言えるでしょうか。
要するに「和を乱すような発言」は感情的に拒否されてしまうのです。

「和を乱すような発言」とは、
たとえば「組織の体質や本質」に疑問を投げかけることです。
組織は、いったん出来上がってしまえば「従って当然」とされ、
特に役員がそのような本質的な問題を投げかけることは許されません。
その結果役員は、組織を守ることが目的であるかのようになってしまいます。

詳しい内容までは書けませんが、今日はつくづくそのことを思い知らされました。
いや、やっぱり、紛糾に至った事の発端を簡単に書いておきましょう。
事は、新しい会の会費をどのように徴集するかという議論からこじれました。
区長はじめ多くのみなさんは、
「町内会(9区)の班長に担当してもらったらいい」と言いました。
なるほど、町内会費といっしょに集めれば効率的でしょう。
しかし、班長というのは町内会の組織の人員であり、新しい会は別組織です。
それなのに「会費集め」を班長にやってもらっては混乱が生じます。
というのも毎年変わる班長が全員この会に快く参加するとは限らないからです。

このぼくの指摘に対して、「区長が班長を説得(お願い?)する」とされました。
しかしその「説得(お願い)」という言葉の中に、
ぼくは「無言の圧力」のようなものを感じました。
「町内会の班長が別組織の会費を徴集するのが慣例なのだから頼む!」
と言われたとしたら、普通の人ならやっぱり断りきれないでしょう。
そこには個々の「自発的参加」ではなく、ある種の強制が働きます。

実際「赤い羽根募金」もそのように行われています。
町内会がほぼ強制的に募金活動を担当させられているのです。(全国的に!)
そこには「募金をして当然」という力学と圧力的な空気が作用しています。
募金を断っては世間体が悪いことから、ほとんどの人々が募金をします。
でも、これは「お金の問題」というよりは、組織の体質の問題です。
全く任意の町内会組織が、ある種の税収機関になってしまっているのです。

面白いもので、組織というものは必然的に権力と権威を生みだします。
それがやがてある種の無言の「空気」を作りだし、
組織のその「空気になじむこと=和」が役員の至上命題とされてしまいます。

ここに組織の「空気的呪縛」が発生し、個々は自由な発言を封じられます。
思ったことを思ったまま発言しては「大人げない」とされるのです。
たとえば今日ぼくは、
「会への参加はあくまでも自由意志だ。自発的参加であってこそ意味がある」
と強調しました。
この発言に対して、
「総会で白紙委任を受けたのだからみんなの意志を確かめる必要はない。
 それに役員がそんなことを言っては、組織が強化できないではないか。
 まるで、会になんか参加しなくてもいいとPRしているように聞こえる」
と諫められてしまいました。

この感覚は、権限を委任されたのだから多少の強制はやむを得ないというものです。
言い換えれば「自由」よりも「秩序=和」を形成すべきだという考えです。
しかし、それでは「もう一つの町内会」になってしまいます。
だとしたら、新しい会を作る意味がどこにあるのでしょうか。

ぼくがそう発言すると、
「お前は組織の存在そのものを疑うのか」ときます<笑>。
誕生した組織に疑義をはさんでは、もう完全に異端となるのでしょう。
しかもその異端視は、激しく感情的に突き付けられてきます。
思ったことが素直に言えない「空気」がそこには君臨しているのです。

なぜこんなふうに?

なぜこんなふうになってしまったのでしょうか。
ぼくにはそれなりの心当たりがあります。
それは、総会で議長をやったぼくに対する役員たちの反発だったような気もします。

実際、「お前は議長として越権行為を犯した」と指摘されました。
たぶんぼくに「国会での議長」のような役割を期待していたからでしょう。
つまり、形式的に進行役をやっていればいいのであって、発言はすべきでないと。
しかし、それで本当にいいのでしょうか。
ぼく自身は、参加者のそれぞれのいろんな意見を引き出して議論を進める役こそが
議長の役割ではないかと考えていました。

というのも、日本の会議の多くは単なる形式で終わってしまい、
そこでは本当の議論がなかなか展開されていないからです。
それであっては、わざわざ住民に集まってもらう意味がありません。
しかも「区長」と「準備委員長」の挨拶は表面的なものに終わったため、
議長としてはいちいち補足説明をせざるを得ませんでした。
そうでない限り「株主総会」のように、単に形式だけでしゃんしゃんと
終わってしまいそうだったのです。

そこでぼくは「形式よりも内容の理解を」と考え、かなりしゃべりました。
要するに「目立ち過ぎた」のです<笑>。
それが「越権行為」と映っても仕方ありません。
組織では何よりも序列が重要らしく、「上」を立てることが要求されます。
しかしぼくはその「掟」をかなり破ったのでした<笑>。

今日の脱会劇の「遠因」は、どうやらそこにもあったようです。
早い話、組織に対する考え方も価値観も、ぼくはみんなと違っていました。
違ったまま出発しては、いつかきっと問題が起きたでしょう。
その意味で、第一回の役員会でそれが表に現れたのは幸いでした。
これで下手な妥協をせずに生きることができ、すっきりしたからです<笑>。

それにしても組織の問題はややこしいものです。
オープンで民主的な組織を目指して出発したはずだったのに、
最初から組織論の問題でぼくが村八分になったのですから<笑>。
これが町内会の体質であり、派閥や政党の体質でもあると思います。
もちろん企業の組織もこれとほぼ同質なのではないでしょうか。
そしてその究極に「天皇を中心とした神の国」という概念があります。
その意味するものは「一致団結・一心同体・家族的国家・和・秩序」を維持
するために「個」を従わせる(管理する)というものでしょう。

最後に区長から「立派な人物だと判断したことが間違いだった(見損なった)」
という言葉がぼくに対して激情的に投げつけられましたが、
ぼくとしては、もう苦笑せざるを得ませんでした。
なぜなら、区長は「立派な人物=組織に従順な人物」と考えていたことが
その言葉ではっきりしたからです。
これは要するに、組織の意向にそわない者は存在を否定するということです。
このような不従順者はかつては「非国民・反逆者」として扱われました。
脱会はぼく自身の意志でしたが、その場の空気としては「破門」でした<笑>。
ぼくは「なぁなぁ主義」の場に「個々の妥協とへつらい」を見てしまいます。
そして、組織に呪縛されるよりは、孤立しても自由でありたいと思います。
とにかく日本の組織というものは、カビが生えるぐらい陰湿になりがちです。
それだけに、そこから無事に脱出できたことのよろこびとうれしさで、
いまはさわやかな気分いっぱいです<笑>。

以上、大急ぎでぼくの「脱退劇」のあらましを書きましたが、
こんなことがインターネットを通じて流されたと知ったら、
たぶん役員諸氏の怒りはさらに増幅されることだろうと思います。
なぜなら日本の組織は「内部事情」を外に出されることを一番嫌うからです。
組織内部の「恥」は、組織をあげて隠蔽して当然というのが日本の社会です。
このことは、昨今の数多くの組織スキャンダルが物語っている通りです。

住み良い環境をつくる会

「住み良い環境をつくる会」の組織には、以下のようなものがありました。

●会長(町内会の区長とは別です)
●相談部(部長=区長、その下に町内会の各班長)
 役割は「会に対する助言、指導および協力」…(ん?指導って?)
●総務部
●安全・衛生部
●坂道対策部(冬の坂道の除雪を担当)
●渉外部
●婦人・少年部
●会計部
●監査部

最初この組織図が示されたとき、ぼくはかなりの抵抗感を覚えました。
それは「もう一つの町内会」のような重武装をしていたからです。
ぼくの関心事はもっぱら「道路問題」でした。
本来は、市が、あるいは町内会がやるべきこの問題がうまくいっていないため、
「住み良い環境をつくり会」で町内会や市を動かすしかないと考えたのです。

しかし今回の会議ではっきりと分かったのは、
「道路問題」は会の「お飾り的なテーマ」でしかないということでした。
となれば、この会に参加するメリットはほとんどありません。
ただ「仕事が増える」くらいのものでしょう。

それどころか、会に「婦人・少年部」なるもののあることが気になっていました。
そこには「青少年の健全な育成及び婦人の生活向上に関する事項」とあります。
いったい「青少年の健全な育成」とはどういうことでしょう。
「婦人の生活向上」という言葉の意味もぼくには良く分かりません。

本来なら、そこまで突っ込んで議論したうえで準備会にぼくは参加すべきでした。
一応「もっとシンプルなテーマに絞るべきだ」とは最初から言っていたのですが、
「動き出しながら考えよう」ということになっていました。
しかし動き出す前に脱会して良かったと思います。
途中で異論を差し挟んでは、それこそもっと問題がこじれてしまうからです。

それにしても日本の社会の組織なるものには「一心同体」が求められるようです。
人と違った考えや発言をしては、そこに存在することすら許されません。
「日本人なら、みな同じように考えるはず」という思い込みがあるのでしょう。
そんな空気は、ちなみに「野球」についても同じでした。

蛇足ですが、会が始まる前に雑談が行われていました。
「今日は巨人戦があるのに会議とはねぇ」とある人が笑いながら話しました。
「大丈夫、今日は絶対に勝つから!」と別な人…。
そこには「巨人のフアンであって当然」という空気が漂っていました。

ぼくは野球に関してはほとんど無関心、ナイターにはあまり興味がないので
別に気にすることもないのですが、もしアンチ巨人がそこにいたらどうでしょう。
もちろんその人の性格によって反応は異なることでしょうが、
気の弱い人ならきっと「クソっ」と思いながら黙っているに違いありません<笑>。

人間、それぞれに個性も好みも違います。違った者がいて当然なのです。
しかし組織の空気は、異質な意見を言う者を排除しようと働きます。
実際、「お前のような考えはこの会にふさわしくない」と言われました。
異端の存在は許されません。それゆえにその場の空気は、
「青少年の健全な育成」ならぬ「稲田の健全調教(説得?)」に向かいました<笑>。
「健全」とはどういうことでしょう。
ある価値観や体質(談合体質?)になびくことが「健全」であるとしたら、
それは「天皇を中心とした神の国」を目指すことにもなりえます<笑>。

脱会から一日が過ぎ

脱会から一日が過ぎ、その簡単な顛末については以上で紹介しました。
でも、いちばん肝心なことを書いていなかったことに気づきました。
それは、ぼくの発言に対する否定が「罵声」によって成されたということです。
それらを聞きながら、人間とはこうも急変するものかと正直驚きました。

もちろん全員がそうだったわけではありません。
感情的に罵声を浴びせかけたのは、8人のうちの3人だけです。
その他はただ黙って、うつむいて聞いていました。

そのなかの一人は、明らかにぼくの意見に賛成でした。
というより彼の言葉を補足するかたちで、ぼくは「自由参加」を主張したのです。
でも、いったんその場の空気がある方向性をもってしまうと、
だれもぼくの意見をサポートしようとはしなくなります。
そんなことをしようものなら、次にねらい打ちされるのは明らかだからです。

閉鎖空間でのいじめというのは、たぶんこうしたかたちで行われるのでしょう。
いじめられる人に味方をすることができなくなってしまうのです。
そうしたことは重々承知していたぼくだっただけに、
激しい罵声を浴びせられてもそれほどびくつきませんでしたが、
もしも心臓の弱い人だったらショック死してしまうかも知れません<笑>。
それにしても、異なった意見に対して、感情を露わにして罵声でしか反応できない
組織に、ぼくはとても貧しく寂しいものを感じました。

こういうのって、案外どこにもあるものかも知れませんねぇ。
家庭にも、学校にも、職場にも、サークルにも…。
ぼくの場合は「脱会」でサヨナラできましたが、
親父対息子の場合は、暴力や犯罪にまで発展する可能性があります。
また、企業の組織ではどうなのでしょう。
仕事とお金のために、我慢して耐え忍ぶのでしょうか。
みなさんのご意見もお伺いしたいと思います。

このことをワイフに話したところ、「辞めて良かったね!」<笑>。
やっぱり我が家は「変人家族」のようです<笑>。

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