沢口敏くんについて

【このカレンダーを企画した趣旨】

昭和59年1月、洞爺湖湖畔で一人の小学生が、暴走車にひかれてなくなりました。

 その名は、沢口敏くん…。亡くなったあと、その短い人生の結晶として、67点の絵が残されました。

 絵が大好きだった沢口敏くんは、小学3年のときから絵の勉強を始め、わずか3年あまりの期間に数多くの国際的コンクールの入賞を果たしてきました。特に亡くなる前年、ユネスコジュニア世界児童画展に出展した作品は「個人最優秀賞」を受け、沢口くんはその将来性を強く期待されていたのでした。

 しかし無惨にも、沢口敏くんは交通事故によって亡くなってしまったのです。

 そして昭和63年9月、沢口くんのご両親によって「交通安全」を願う「沢口敏・遺作展」(HTB主催)が開催されました。会場を訪れた多くの方々は、敏くんの絵に感動し、同時に「交通安全への決意」を新たに分かち合いました。そして、その感動と決意をより多くの方々に……。

 それが、ここにカレンダーとして再現されることになった理由です。
 「描いたきみは、もういないけれど」…「交通事故の悲しみをくりかえさないように自覚し合おう」と、どうかそんな気持ちが育まれますように…。

 そのことを心から願いながら、ここに沢口くんの遺作によるカレンダーを制作させていただきました。

【沢口敏くんのプロフィール】

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1971年
洞爺湖温泉に生まれる
1980年
小学3年より大島忠昭先生の指導を受ける。
第13 回ユネスコジュニアアート展で「こいのぼり」が入選。8歳
1981年
第14 回ユネスコジュニアアート展で「剣道・先生の試合」が特賞。9歳
1982年
第14 回ユネスコジュニア世界児童画展で「重い雪」が入選。10歳
第14 回ユネスコジュニアアート展で「穴熊と犬」が特選。10歳
1983年
第15 回ユネスコジュニア世界児童画展で「版画をする僕」が入選。11歳
1984年
第16 回ユネスコジュニア世界児童画展で個人最優秀賞を受賞。11歳
個人最優秀賞「熊と犬」特選「材木を運ぶ舟」入選「きつねを追う犬」
1984年
1月31日朝、登校中暴走車による事故のため死去

【沢口敏くんのご両親を訪ねて】

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 洞爺湖から太平洋に向かう国道沿いに、沢口敏くんの育った家があります。玄関を一歩入ると、そこは「ミニ画廊」…。廊下や部屋いっぱいに敏くんの作品がところせましとばかりに並べられ、ここを訪れる人たちをこころよく迎え入れてくれています。

 「敏は私たち夫婦の生きがいでした。その敏が亡くなって、絵だけが残されました。いいえ、絵と同時に“交通事故を繰り返さないで!”という悲願も残されたことになります。だから絵を通して交通安全を訴えかけたいと思っています」

 この4年間、ご両親は「信じられない事実をなんとか納得する」事に努め、部屋中を絵でいっぱいに埋めて生活してきました。そして、その悲しみをいまや“交通安全への悲願”へと変え、新しい人生を力強く生きていこうとしています。

 「短い一生だったけれど、敏は私達以上の仕事をしたのかもしれません。もしこの残された絵が少しでも交通事故死をストップすることに役立つのなら、それも大きな仕事ですから。だから、親としては悲しみよりもうれしさを感じなければならないのでしょう。そう思いそう生きることがせめてもの供養だと思っています」

 言葉ではとても言いあらわしきれない心の痛み、それを越え、安全へのメッセージを一人ひとりの心の中に豊かに育てていくこと、「それがこのカレンダーの役割だと思います」とご両親は語っています。

【沢口敏君の遺作とその周辺】

 このカレンダーは、沢口敏君がその短い生涯を通して描き上げた合計67点の全作品の中から6点を選んで組みあげたものです。どの作品を見ても、そこに表現されているのは元気で明るく伸びやかな沢口君自身の姿。絵を見るかぎり、その彼がまさか交通事故の犠牲になろうとはとても考えることができません。それどころか、沢口君は絵を通して、私たちに“希望のメッセージ”を語りかけてくれているようにさえ思えます。

 沢口敏君は、とにかく大自然が大好きでした。まだ小さい頃からお父さんに連れられ、雪山に狩に行ったこともありました。そんなときいつも近くにいたのは3頭のアイヌ犬で、一人っ子の敏君はまるで犬たちと兄弟みたいに遊びながら大きくなりました。大自然を愛し動物たちを愛し、そして“自然児”そのままにすくすくと育っていった沢口君……。作品には、そんな敏君の姿が、生き生きと表現されています。

 もちろん木や草や昆虫たち、また花々も大好きで、特に花では大きなひまわりが気に入っていました。そしてその理由も、「太陽にまっすぐと向かって動いていく花だから」……。その言葉には、いつも大きく胸をはり、まっすぐに力強く生きていこうとしていた日々が語られているような気がします。そんな敏君に対して、お母さんは庭に毎年たくさんのひまわりを作りました。ご両親のそういった温かい気持ちに育まれ、敏君はまさに明るく素直に成長していったのです。

 こうした暖かい愛情で強く結ばれた親子は、よくいっしょにそろって出かけました。近くの野山はいうまでもなく、時には遠く小樽の水族館や、そして札幌のジャンプ競技などを見に……。カレンダーの中にも、そんなときの想い出がつづられています。敏君は作品を通して、あるいはその時の“親子の温かい想い出”をいつまでも残したかったのかもしれません。

 小学3年生の時から絵を本格的に学びはじめた沢口君は、りっぱな成績をとると、親子いっしょに東京の表彰式に出席できるということを発見しました。でも、まだ親子3人そろって上京したことは一度もありません。「いつか、きっと3人いっしょに行くんだ!」……、それが敏君の夢でした。が、3人いっしょに行くためには、よほどりっぱな成績をあげる以外に方法がありません。そんな親孝行の動機も手伝って、沢口君は一生懸命に絵の勉強を続けたのです。

 すでに何度も入選していたこともあり、どんな絵を描いたらよいかということも分かりはじめていました。カレンダーの表紙になった「熊と犬」の絵は、「これなら絶対に大丈夫!」という自信作でもありました。実際に、昭和59年度の第16回ユネスコジュニア世界児童画展にはこの作品をはじめ五展を出展し、そのうちの3点が見事に個人最優秀賞・特選・入選を獲得しました。ほんとうならこの時に、敏君の夢だった「親子3人いっしょ」の表彰式参加がやっと実現できるはずでした。

 ところが、喜ばしいその入賞の知らせを聞くこともなく、沢口敏君は交通事故で亡くなってしまいました。表彰式のその日には、沢口敏君の遺影を胸にしたご両親の悲しい姿がありました。そしてこの日を契機に、“親子3人いっしょ”の強い願いは、「絵」から「交通安全運動」の悲願へと向けられていったのです。

有珠山噴火と故沢口敏くん

昨日NHKテレビで「予知された噴火」という番組が放映されました。
そのなかに沢口さんご夫婦が登場してきましたが、あの噴火でぼくがまず思ったのは「沢口さんは?」ということでした。

というのも、沢口さんの家は激しい噴火が続く西山噴火口の一番近くにあり、下手をすれば噴石でハチの巣状態になる危険にさらされていたからです。沢口さんの家は、亡き息子の作品のギャラリーにもなっており、それらもいまや、噴火で吹き飛ばされてしまう運命にさらされています。

沢口さんの家を訪問したのは、もうかなり前のことでした。「交通安全キャンペーン」の企画のために、初めて訪れたのでした。沢口さんの一人息子・敏くんの絵を見せてもらうためです。敏くんは絵の才能に恵まれ、国際コンクールなどでも高く評価されていました。その敏くんが、小学6年生のときに交通事故で亡くなったのです。

それを知ったぼくは、敏くんの絵を使ってカレンダーを作ろうと思いました。そしてそのカレンダーを学校や企業などに配ろうと企画したのです。ご両親は大喜びで協力してくれました。「敏の事故死が社会に役だったら、これ以上の喜びはない」と…。

こうしてカレンダーは出来たものの、印刷するお金が足りません<笑>。そこで考えたのが、サポーターネットワークでした。早い話、企業や個人からの寄付を募ったのです。企業は一口1万円、個人は千円にしました。しかもその名前をすべて、小さくカレンダーの下に印刷したのです。

もちろんわが家も4人で参加し、知り合いも家族全員で参加してくれました。一人千円でも、たくさんの参加者が集まるとそれなりの金額になります。カレンダーの下に小さくびっしりと印刷された個人や企業名の一群は、「敏くん、きみのことは決して忘れないよ!」と言っているようでした。

こうして無事に「交通安全への祈りをこめたカレンダー」が完成しました。その当時、このように作られたカレンダーは珍しかったためか、「ニュースステーション」でも久米さんが取り上げてくれました。こうして沢口敏くんの作品と名前は、全国に知らされることになったのです。

敏くんのその作品が、いま有珠山噴火の危機にさらされています。TVでも敏くんのご両親が、絵のことをしきりと心配していました。ぼくにとっては、思いいもしなかったTV映像を通しての再会となりました。

有珠山噴火に関しては、もう一つの想い出があります。じつは23年前のあの大噴火に、ぼくは幸い?にもたまたま遭遇したのです。そのときはまだ札幌に正式に移住?していたわけではありませんでしたが、その日にちょうど洞爺湖周辺をドライブしていました。すると、突然目の前で、なんとあの大噴火が起こったのです。

こうして有珠山噴火には、いろんな思いが巡ります。


以上のコメントを「浮遊空間」に書いた後、避難所に身を寄せておられる故沢口敏君のご両親から「沢口敏君のカレンダー」の問い合わせがありましたので、沢口さん並びに被災者のみなさまへの激励を込めて、このギャラリーを開設させていただきました。


避難所でカレンダーを手渡しました

いざ、豊浦へ!

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5月4日、沢口敏くんのご両親にカレンダーを手渡すため、避難所のある豊浦町に出向きました。家を出発したのは午前10時過ぎ、2時の約束でしたが、連休の渋滞を見越して、多少の余裕をもって出かけたのです。
しかし渋滞は予想以上のもので、特に中山峠を下りた辺りから喜茂別に至る道路はひどい状態でした。これでは約束時間に間に合わないかもしれません。いかにのんびり屋を目指す?ぼくではあっても、さすがにそののろのろ状態には呆れ返ってしまいました。
クルマはいったいどこに向かっているのでしょう。ルスツ高原?それとも有珠山見物? 
なんとかルスツを過ぎ、洞爺湖が見える地点にまで至ったとき、湖の向こうにいく筋もの噴煙が見えてきました。ホントはその光景をカメラに収めたかったのですが、とてもそんな余裕などありません。そこで噴火風景は帰途撮影することにして、とにかくひたすら豊浦町を目指しました。

なんとか間に合い、1時40分に豊浦に到着。そこにはHTBのカメラクルーが待ちかまえていました。というのも、ぼくが沢口さんにカレンダーを手渡すきっかけを作ってくれたのは、HTBだったからです。ホントは密かに隠れて手渡したかったのですが(実は恥ずかしがり屋さんなんです<照笑>)、橋渡し役をしてくださった者を飛び越すわけにもいきません。そこで「ま、成りゆき任せにしょっと!」ということで、いっしょに沢口さんの家を訪れることにしたのです。

こうして沢口さんの避難しているところに着きました。そこからカメラクルーが動きだしました。恥ずかしがり屋の娘たちは、事の成り行きに驚いています。「こんなことなら、ついてくるんじゃなかった」と言っている感じです。
ぼくもこういうのは苦手です。しかし、カレンダーを待っている沢口さんのことを考えると、一刻も早く手渡して、敏くんの作品との再会を果たさせてあげたいと思っていました。

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沢口敏くんのお母さんとの12年ぶりの再会!

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ドアホンを押すと、沢口さんが顔を出しました。12年ぶりの再会でしたが、なぜか時間の経過など全く感じられないほど、とても自然に挨拶をかわすことができました。

家に入れてもらって、さっそくカレンダーを手渡しました。保存してあった5部のうちの4部です。1部はぼく自身の「敏くんとの出会いの記念」として再び大切に保存することにして、残りの4部を手渡したのです。

お母さんはとても喜んでくれました。ホントはそのときの様子をデジカメに収めたかったのですが、なにしろこちらにカメラが向けられていることもあって、それもままなりません。仕方なく撮影はあきらめ、自由にいろんな想い出話をすることになりました。

娘をわざわざ連れて行った理由は、12年前に沢口さんと電話で話をしていたときに、生まれたばかりの娘の泣き声を電話で聞いた沢口さんが、
「あら、赤ちゃんの泣き声ね。ずいぶん久しぶりに聞いたわ。赤ちゃんの泣き声って本当にいいものね!」ととても喜んでくれたからでした。
たった一人の息子を亡くしてしまったお母さんにとっては、きっと赤ちゃんの泣き声が希望の音として耳に伝わったにちがいありません。一方に悲しい死があり、他方に誕生の喜びがある…。たぶん複雑な気持ちだったでしょうが、しかし沢口敏くんのお母さんは、赤ちゃんの泣き声にとても大きな喜びを感じてくれたようでした。それだけに、あれから12年が経ち、いま小学6年生になった娘をいっしょに連れていくことにしたのでした。

その「赤ちゃん」もすでに小学6年生…、敏くんと同じ歳になりました。その当時のぼくとしては、まだその悲しみの実感が十分には分かりませんでしたが、しかしいまはかなり実感的に理解できます。それだけ時間が経っていたのです。

沢口さんとの会話の内容を書き出したらきりがありません。そこにはまぎれもなく、敏くんを中心に会話が回転していました。カレンダーがお母さんの手に渡ったことで、あたかも敏くんのスピリットが噴火口の近くの家から抜けだしてきて、ようやくお母さんのふところに帰ってきたような感じでした。もしもそのとき取材がなかったとしたら、そんな不思議な空気をもっとたっぷり深呼吸できたにちがいありません。ぼくとしては実際に一度も会ったことのない敏くんでしたが、その時間、敏くんがとても身近に感じられてきたのです。

HTBの取材のあと、北海道新聞からもインタビューを受けました。そして思うままいろんなことを話しているうちに、カレンダーを手渡すことが目的だったはずなのに、「それだけではいけない、敏くんのカレンダーの意図、つまり交通安全への祈りも伝えなくっちゃいけない」という思いもどんどん湧きだしてきていました。なぜなら、敏くんの夢と才能と命と人生とが、心ないドライバーの無謀な暴走運転によって無惨にも断ち切られてしまったからです。その意味で、取材を受けたことによって、ぼく自身が新たな目的を発見させられたような気がしました。

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インターネットでも敏くんの絵を見る

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その後、パソコンのある避難所の集会場に出向いて、インターネットを通して「敏くんのギャラリー」を見ることになりました。
そこにあったパソコンは、ぼくが使っているマックとはかなり操作感覚が違います。が、やや苦戦しながらもなんとかHPを呼び出すことができ、お母さんに見てもらうことができました。
こうしてインターネットを通して、敏くんの絵や、みなさんからの激励のメッセージにご対面と相成ったのです。そのときの沢口さんの目には涙がいっぱいたまっていました。

そのさまを見て、敏くんのHPを作って本当によかった!と思いました。有珠山の噴火は被害ばかりが大きい「招かざる天災」にはちがいありませんが、しかしその中にあって、もし敏くんのことと交通安全への決意をより多くの方々に伝えることができたとしたら、そこには違った意味での幸いもあります。それはさしずめ、「天災」が「人災(交通事故)」に警告を発するという構図にもなるでしょう。

話は尽きませんでしたが、そろそろお母さんとのお別れの時間がやってきました。しかしこれからが本当の再出発です。というわけで、このHP上ではこれからも「続報」を綴っていきたいと思っています。それだけに、今後ともみなさんから、いろんな意見や激励をお寄せいただきたいと思っています。なお、避難所の方々もぜひここのご参加いただけたらと願っております。

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蛇足の温泉「しおさい」

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「せっかく豊浦に来たのだから、ぜひ、しおさい(温泉)に入っていらっしゃい!」
そう勧められて、その後「しおさい」に行ってみました。
ここは海がすぐ目の前に迫っている立地抜群の温泉です。お陰様で、ゆっくり露天風呂につかりながら、今日一日のことを静かに反芻することができました。

それにしても有珠山の噴火の悲劇を目の当たりにしながら、火山の恩恵(温泉)にのんびり身をゆだねるとは皮肉な話です。大自然は恵みでもあれば、また脅威ともなりうるということなのでしょう。とにかくいろんなことを考えさせられた一日となりました。


「しおさい」から出てふとクルマを見ると、なんとタイヤに「カタツムリ」がへばりついているではありませんか! それも殻が破れた痛々しい姿で…です。
周りを見回したところ、そこにあるのはアスファルトの道路と植えたばかりの真新しい芝生だけ…。ということは、この場所でタイヤにへばりついたとは思えません。となると、カタツムリはいったいどこからタイヤによじのぼったのでしょうか。避難所の駐車をしていたとき? でも、そこもとうていカタツムリがいるとは思えない環境でした。ということは、札幌のわが家からずっとタイヤ、あるいは車のどこかにくっついていたのでしょうか(わが家の周りにはカタツムリがいっぱいいます)。
もしそうだったとしたら、ものすごい回転、あるいは高速のスピードに耐えながら必死でへばりついていたことになります。実際、殻が傷つき、かなり弱っている感じです。
それを知った娘たちは、カタツムリを大事に箱に入れ、そこに水分と青草とを入れて家に持ち帰りました。元気になるまで世話をするのだそうです。
「蛇足」ならぬ「蝸牛舌」でした<笑>。

有珠山の風景

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豊浦の避難所から札幌への帰途、洞爺湖が一望できるサイロ展望台(だったかな?)に立ち寄って、夕暮れの有珠山を撮影しました。
眼下に広がる寒々しい洞爺湖の向こうに、白い噴煙がいく筋も大きく小さく立ち上っています。そのさまは、まるで時間をさかのぼって地球創世記のドラマを見ているような感じでした。

いちばん右端に立ち上っている噴煙のすぐ近くに、沢口さんのご自宅があるはずです。その家はすでに傾いているとのことで、もはや近づくこともできません。しかし家の中には敏くんの遺作が残され、じっと噴火の轟音を聞いているにちがいありません。敏くんはいったい何を思って噴火の音に耳を傾けているのでしょうか。
そのことを思うとき、とても言葉では表現できない痛々しい気持ちに襲われました。そして、たとえカレンダーの絵ではあったとしても、「敏くんの人生の証」を無事にお母さんに手渡せたことに、とても深い安堵感を覚えました。


サイロ展望台にはテレビ局のカメラが据えつけられ、有珠山の噴火の様子をキャッチし続けています。そしてあちこちにたくさんの野次馬?たち。ぼく自身も野次馬の一人にはちがいありませんが、でも沢口さんに会ってきた直後だっただけに、被災者たちのことが頭から離れませんでした。

空気社会・日本?

町内会って、なんだっけ?

とても面白い物語?

これからとても面白い物語?を紹介します。
題して、「宮丘公園物語」…。
と言っても、公園を紹介するものではありません。
日本のお役所と町内会なるものの不思議を考える物語です。

わが家のすぐ裏に宮丘公園という大きな市の公園があります。
そこは札幌市民の緊急避難場所にも指定されています。
ところが、公園の入口までの道路が市道になっていません。
正確に言えば、中腹にある入口付近の一部が私道のままなのです。

数年前までは、入口までのかなりの距離が私道のままでした。
つまり札幌市は、道路も確保せずに大きな公園を作ったのです。
しかし市民や業者の車は四季を問わずこの公園を利用しています。
その結果、さまざまな問題が起きました。

公園を管理するトラックなども頻繁に通っていました。
あるとき、作業トラックが雪の坂道をスリップし、
妻が運転する軽自動車にものすごい勢いで衝突しました。
そこには、まだ幼い娘たちも乗っていました。

幸いにも衝突した場所が良かったためか、
車の一部は大破したものの奇跡的に人身事故にはなりませんでした。
しかしその事故を調査した警察官は、こう言いました。
「下手をしたら、今晩は3人のお通夜になっていたよ」

このような危険な体験を経て、ぼくは動き出しました。
「市の公園の入口までの道路が市道でないのはおかしい」と…。
市道ではないから市の除雪車も全く入りません。
市の除雪車が入らないところは町内会がやっているのですが、
町内会もまたテキトウにしか除雪車を入れてくれません。

なぜ?
「一部の道路だけ除雪を強化するのは不公平」だからだそうです。

しかしそこは住民だけでなく、一般市民が利用する道路なのです。
市の公園なのですから、入口まで市道にして当然です。
公園管理のトラックが私道を通って公園に入るとはどういうことか。
これでは、人んちの庭を通ってわが家の玄関に入るようなものです。

あくまでも「市道化」を求めたぼくは、この点を強調しました。
すると、さすがに後ろめたいものを感じたためか、
札幌市はあわてて公園の下のほうに新しい入口を作りました<笑>。
明らかに自らの非を認めて動き出したのです。

市との交渉は本来町内会がやるべきことだと思います。
しかし、それはかたちばかりで全く本気では動きませんでした。
仕方なく、ぼくは市と直接交渉しなければならなかったのですが、
すると今度は町内会から陰湿な村八分めいた攻撃に遭います<笑>。

町内会って、いったい何なんだ?
そこからぼくの「町内会研究?」が始まりました。

10年前、ここに越してきた

10年前、ここに越してきたぼくは、疑いもなく町内会に入りました。
町内会費を払い、班長やゴミ当番などもちゃんとやってきました。
「そのこと」が起きるまで、町内会に何の疑問も感じていなかったのです。

しかし「市道化」の問題を通して、いろんな疑問が湧いてきました。
まず、町内会とは住民の安全に寄与するどころでなく、
かえってその動きを阻害し、邪魔をする存在であることに気づいたのです。

町内会の規約を見ると、これは単なる任意の組織です。
しかし当然のごとく会費を取り、市の行政の下部組織になっています。
ちなみに、市に対して個人が何かを要請したりすると、
「町内会を通して言ってきてほしい」とあっけなく拒絶され、
町内会を通そうとしても、町内会から無視・拒絶されることが多々あります。
これでは、個人として、市民としては何もできない仕組みです。

問題は、町内会の体質です。
町内会の会長は選挙で選ばれるものではありません。
悪く言えば、役員同士の(密室的な)談合で選ばれます。
それは区長でも全く同じで、いわば町内会組織はなれあいの組織です。
それが市民と行政の間に、ど~んと存在しているのです。

しかもこうした町内会が、日本全国にびっしりと根を張っています。
もしこれが民主的にうまく機能しているのなら、問題はありません。
ところが肝心なところで、それは権力的に、非民主的に動き出す。
そのことをぼくはそのときから痛感せざるをえませんでした。

結論から言えば、町内会の体質は「和を尊ぶこと」のようです。
問題を指摘されたり、市が嫌がるような問題を提起するのがイヤなのです。
「まま、そこは穏便に、もう少し大人になって事を荒立てないように…」
そうした町内会の体質からすれば、
「市の公園入口に至る市道もなく公園を作ったのは間違っている」
といったぼくの指摘は、
「事を荒立てる行為」と映ったにちがいありません。

市の行政を動かすのは、本来市議会です。
その意味では、市会議員に活躍してもらう必要があります。
ところが多くの市会議員は、町内会の応援を得て選挙に当選しています。
特に実質的な力を持つ与党の議員はそのようです。

単なる任意組織である町内会は、こうして行政にも政治にも深く関与しています。
それなのに、そこには選挙がありません。
それも当然、誰も町内会の役員などにはなりたくない。
だから一部の人(町の顔役)にすべてを任してしまう。が、その結果、
町内会組織が日本の民主主義システムをおかしくしているのです。

こういうおかしな社会システムがあるのは、日本特有のことではないのか?
そう思ったぼくは、アメリカの地域システムの取材に出向きました。

アメリカ取材と言っても

アメリカ取材と言っても、本格的にあちこち取材できるわけでもありません。
調べたのは、高々シアトルとロサンゼルスでの例だけです。
しかし、いざ調べてみると、とても興味深いことが発見できました。

それを一言でいえば、
日本の町内会のようなあいまいな組織には全く出会えなかったということです。

たとえば、新しくできたビレッジにはそれぞれ自治組織なるものがあります。
ビレッジに入居した人は、そこで安全に暮らすことができるよう
自治会会費を払いあって、ビレッジのサービスや運営をやっているのです。
この場合、自治会の役員はもちろんちゃんと選挙で選ばれます。
規模が大きい場合は、運営会社が請け負って担当することもあるそうです。

ついでにアメリカのボランティア組織の運営方法も調べてみました。
ボランティア組織といえど、役員や専従者たちの多くは有給でやっています。
それを支持する多くの市民たちは、もちろん無給のボランティアです。

こうしたシステムから言えることは、
お金をとって何かをやる場合、組織の役員は必ず選挙で選ぶということです。
そこにはとても民主的でオープンなものが息づいていました。

ひるがえって日本の町内会を考えてみると、
町内会は会費を徴収し、かつ自治体からも助成金をもらっています。
ちなみにわが町内会の場合は、年間約1000万円を扱っています。
そしてやっていることは、市の行政の下部組織としての活動(回覧板など)
であり、葬式や祭りや除雪などの仕事です。
そこにはいろんな業者との関係も出てきます。
つまり、お役所的なことと企業的なことを同時にやっているわけです。

「企業的なこと」というのは、葬儀屋さんの手配であり、除雪業者の選定です。
いわば「サービス」の手配師、つまり「サービス業」というわけです。
この場合、業者選びは本当にオープンに公平に行われているのでしょうか。
公金や会費を扱いながら、なんとなく癒着めいたものも感じられます。
そこにはそのまま、悪い意味でのお役所体質があるような気もします。

町内会が全くのボランティアとして維持されているのならいざ知らず、
役員にはそれなりの報酬も出ています。
ちなみにぼくが班長をしたときには、確か500円の手当てがありました。
これはいったい、どういうことでしょう?
どうせ有給なら、むしろプロのサービスに委ねたほうがいいかもしれません。

有給で、業者に仕事を回すなど年間1000万円も扱う町内会でありながら、
それは「事業体(企業)」でもなく、正式な行政機関でもボランティアでもありません。
しかも、役員たちが選挙で選ばれるわけでもありません。
こうした摩訶不思議な、何ら法的根拠のない全くの任意組織が、
なんと日本全国にくまなく張り巡らされているのです。

もちろん役員が人間的におかしいというわけでは決してありません。
個人的に見ればりっぱな方々もたくさんおられることでしょう。
しかしシステムとしてのおかしさが、いろんな問題を引き起こしているのです。

一気にここまで書いて

一気にここまで書いて、ふと不安になりました。
ぼくが町内会や市の行政に対する不満をただ愚痴っているだけではないのか、
といった誤解が生じるのではないだろうか…という不安です。
決してそういうわけではないのです。
ぼくはただ「日本の社会システムの不思議」を笑いたいだけなのです<笑>。

とは言っても、こんな調子で書き続けていくと、
いつどこで、大きくはみ出すことになってしまうかもしれません。
そこで、その後の顛末を最初にまず簡単に延べておきましょう。

わが家で始めた「市道化運動?」は、やがて市を動かすようにもなり、
市による測量が行われ、長い時間はかかったものの、
道路のかなりの部分がめでたく市道になりました。
その理由は、ぼくたちが勝手にチラシを作って大騒ぎをしたからです<笑>。
行政というのは、問題を指摘されるのがとてもイヤであるらしく、
大声を放ち始めると、さすがに徐々に動き出しました。
その結果、問題の坂道を含めた一部が市道になったのです。
しかし、冬道の除雪はほとんど改善されませんでした。

そこで「市道化運動」と並行して「有志の会」なるものを作り、
みんなでお金を出し合って、市や町内会とは別に業者に除雪を依頼しました。
またそれぞれが自発的に「坂道への砂まき」などもやりました。
市や町内会をあてにせず、まずは自助努力をすることが肝心と考えたからです。

こうして、公園入口に通じる道路の冬の除雪(安全)は一応確保できました。
しかし、これはあくまでも暫定的なものであって、
本来は市が市道化を進め、市民のために除雪をやって当然でしょう。
が、いまなお入口周辺の一部は市道になっておらず、
除雪もあいかわらず十分にはなされていません。

そうこうするうちに、公園に面する高台の住宅地一帯が、
町内会の中の新しい「区」としてまとまることになりました。
つまり、この一帯の住民の新しい区長が誕生することになったのです。

その通知が、ぼくのところにも届きました。これまでの区長からです。
「おたくも招いて新区長の選出をしたいので会合に参加してほしい」と…。

ぼくは言いました。
「住民みんなで区長を選出するんですか?」
「いや、代表的な人10名ほどに来てもらうことになっています。
 で、稲田さんも、その10名の中の一人に選ばれたのですよ!」

なるほど、一応「民主的」

なるほど、一応「民主的」な方法で区長を選ぼうということのようです。
これまでの慣例では、「あの人にやってもらおうか」と役員同士で決め、
候補者のところに足を運んで「頼む!」と言って決めてきたのですから、
少なくても「10人の選挙」で決めるというだけでも大きな進歩でしょう。

実際「あんたにも参加してほしい」と声を掛けられれば悪い気もしません<笑>。
しかし、その10名はいったい誰がどんな基準で決めたのでしょう。

ぼくの場合は、
「ああいったうるさいヤツを除外しては、きっと後がうるさいだろう」
ということで、たぶん選ばれたのだろうと思います<笑>。
例の「市道化運動」が、そこまで存在を認めさせたのかもしれません。

しかし、ぼくが問題にしてきたことは、
町内会をあくまでもオープンな組織にしようということでした。
「新しく区長を選ぶとしたら、区域の住民みんなで決めたほうがいい」
それがぼく自身の基本的な考え方でした。

そうは言っても、そこまでオープンさを期待することは不可能です。
幸いにも、その集会の日は、ちょうど東京に出ていく日になっていました。
そこで、ぼくは欠席を宣言し、ただ成り行きを見守ることにしました。
ま、それしか方法がなかったとも言えます。

こうして「新しい区長」が高台の一帯地域に誕生したのですが、
それにしても町内会の組織は奇妙です。
そしてその奇妙さは、そのまま地域行政にも、国政にも共通したものです。

というよりも、日本の社会的特質が、国から地方、町内会にまで浸透し、
さらには企業や団体などを含めたすべての集団組織に染みついている
といったほうが正解かもしれません。

そこには「和を尊ぶ」という大義名分のもと、
談合(密室)のうちにすべてが決まり、問題を隠し、問題提起を排除し、
「一致団結」の名のもとに個性の違いや多様性を決して認めず、
事なかれ主義、事大(大につかえる)主義が横行しています。

……おっと、やっぱりおかしな愚痴になってしまいました<笑>。
でもまぁ、これがいつわらざる現実です。
一応ざっと簡単にこれまでの流れを紹介してみましたが、
「宮丘公園物語」の不思議な各論はまだまだ続きます。
乞う、ご期待!
(ん? もう、いい加減にやめろだって?<笑>)

公園物語でまず笑えるのは

公園物語でまず笑えるのは、
札幌の重要な公園なのに、入口までの道も確保せずにずっと工事を続けていたことです。
間が抜けているといったらいいか、無責任というべきか、
それも、その担当課長が、なんとぼくの知り合いだったのですからね<笑>。

そんなことつゆ知らず、全く関係ない別件でその知り合いと話をしていたときに、
彼が当時の公園課長で、宮丘公園も担当していたことを初めて知りました。
そこで、ぼくが「そのミス」を指摘したところ、当然彼は大あわてでした。
そのときに彼はすでに人事異動で公園とは関係なかったのですが、
案の定、さっそく後輩(公園課)に連絡が入ったようです。
それから、ようやく事態が動き出したというわけです。

もう一つ笑えたのは、公園入口に通じる道路が私道のままだと指摘したとたん、
大あわてで下の方に別の新しい入口を作ったことでした。
本当なら、それまで使っていた私道を市道化すべきだと思います。
しかしお役所はそれをせずに、別のところに入口を作ったのですよ。
「ほら、ちゃんとこっちは市道に接しているよ!」といった具合にね<笑>。
きっと、お役所の面子がそうさせたのでしょうねぇ。

さらに笑えるのは、いろいろあってかなりの道路が市道化されたのに、
わが家の周辺だけが、依然として私道のまま取り残されたことです<笑>。
もっともこれにはちゃんとしたそれなりの理由があって、
決して意地悪してるというわけでもないのですが。
これに関してはまた後で書きますが、市道化を唱えた者の周りだけが取り残された
という図には、無条件で笑えます。
なぜなら、いまだに公園入口に市道が通じていないからです<笑>。

ということから、このドームがいかに辺鄙なところに建っているかが分かるでしょう。
札幌は「積雪ゼロ」であっても、この周辺はまだ残雪がいっぱいです<笑>。
さきほどなんかは、またすごい吹雪(あられ)になっていました。
とにかく「公園物語」は笑い事でいっぱいです。
お役所の対応もおかしければ、町内会の組織もおかしいことだらけ。
やっぱり「宇宙の笑い」がこの地上にも現象化してきたのでしょうか<笑>。

ごぶさたしました。再び…

ごぶさたしました。再び「宮丘公園物語」を続けることにしましょう。
その後いろんな進展がありました。が、そのプロセスを一気に飛ばし、
今晩行われた「ある会合」のことについてお話してみたいと思います。

町内会に新しく「第9区」が誕生し、新区長が決まりました。
これは住民のあずかり知らぬところで決められた人事です。
住民は「第9区」の誕生も「新区長」も「上」から伝達されたのです。

ある日「新区長」の家に区内の何人かが集められて協力を呼びかけられました。
その中の一人にぼくもいました。(というより、自主的に参加したのですが)
その場でぼくは言いました。
「9区だけは民主的にやっていったほうがいい。だから住民に呼びかけて、
第9区の誕生と新区長新任の挨拶をし、事後承諾的な理解を得るべきだ」と。

提案は受け容れられ、住民集会が持たれることになりました。
また雑談の中で「町内会第9区とは別に自主的な機関を持ってはどうか」
ということも話題に上がり、「住み良い環境をつくる会(仮称)」という会を
新たに作ることになりました。
この会のポイントは、まず会長を選挙で選べるオープンなものにすること。
この会が住民の意見を吸い上げ、町内会や行政を動かしていく媒体であること。
町内会の第9区は「上」の機関からの伝達組織にすぎませんが、
逆に「下?」からの声を外部に反映させるものととして「会」を位置づけたのです。

正直言って、組織のしがらみに巻き込まれるのはぼくは嫌いです。
しかし、行政や町内会の壁や圧力を突き破るには組織をもってするしかありません。
そこでぼくも会の新設提案に理解を示し、準備委員会のメンバーになりました。

5月14日、第9区の総会が開かれ、その場で「新しい会」の承認が得られました。
もちろん会への参加は自由です。これは町内会とは違うのですから、
本来、町内会の第9区の総会で承認すること自体がおかしなことです。
しかし第9区が新しい会の存在(誕生)を認めるというカタチをとったのです。

そして今日、新設された会の第一回役員会が開かれました。
ぼくは、総務部長です<笑>。
しかし、今晩の初会合でぼくが自分の意見を披瀝した結果、議論は紛糾しました。
紛糾した理由は、組織に対する考え方がぼくと他の人たちが全く違ったからです。
その結果、ぼくは脱会せざるをえませんでした。
5月14日の「総会」では議長として「この会」の意味を力説したぼくが、
なんと「脱会者第1号」になってしまったのです<笑>。

なぜぼくが「脱会者第1号」

なぜぼくが「脱会者第1号」になってしまったのか?
これは、日本社会の組織を考える上で非常に重要な問題です。
ある意味で「日本は天皇を中心とする神の国」発言にも通じる問題です。
一言でいってしまえば、組織は何よりも和を尊しとする…と言えるでしょうか。
要するに「和を乱すような発言」は感情的に拒否されてしまうのです。

「和を乱すような発言」とは、
たとえば「組織の体質や本質」に疑問を投げかけることです。
組織は、いったん出来上がってしまえば「従って当然」とされ、
特に役員がそのような本質的な問題を投げかけることは許されません。
その結果役員は、組織を守ることが目的であるかのようになってしまいます。

詳しい内容までは書けませんが、今日はつくづくそのことを思い知らされました。
いや、やっぱり、紛糾に至った事の発端を簡単に書いておきましょう。
事は、新しい会の会費をどのように徴集するかという議論からこじれました。
区長はじめ多くのみなさんは、
「町内会(9区)の班長に担当してもらったらいい」と言いました。
なるほど、町内会費といっしょに集めれば効率的でしょう。
しかし、班長というのは町内会の組織の人員であり、新しい会は別組織です。
それなのに「会費集め」を班長にやってもらっては混乱が生じます。
というのも毎年変わる班長が全員この会に快く参加するとは限らないからです。

このぼくの指摘に対して、「区長が班長を説得(お願い?)する」とされました。
しかしその「説得(お願い)」という言葉の中に、
ぼくは「無言の圧力」のようなものを感じました。
「町内会の班長が別組織の会費を徴集するのが慣例なのだから頼む!」
と言われたとしたら、普通の人ならやっぱり断りきれないでしょう。
そこには個々の「自発的参加」ではなく、ある種の強制が働きます。

実際「赤い羽根募金」もそのように行われています。
町内会がほぼ強制的に募金活動を担当させられているのです。(全国的に!)
そこには「募金をして当然」という力学と圧力的な空気が作用しています。
募金を断っては世間体が悪いことから、ほとんどの人々が募金をします。
でも、これは「お金の問題」というよりは、組織の体質の問題です。
全く任意の町内会組織が、ある種の税収機関になってしまっているのです。

面白いもので、組織というものは必然的に権力と権威を生みだします。
それがやがてある種の無言の「空気」を作りだし、
組織のその「空気になじむこと=和」が役員の至上命題とされてしまいます。

ここに組織の「空気的呪縛」が発生し、個々は自由な発言を封じられます。
思ったことを思ったまま発言しては「大人げない」とされるのです。
たとえば今日ぼくは、
「会への参加はあくまでも自由意志だ。自発的参加であってこそ意味がある」
と強調しました。
この発言に対して、
「総会で白紙委任を受けたのだからみんなの意志を確かめる必要はない。
 それに役員がそんなことを言っては、組織が強化できないではないか。
 まるで、会になんか参加しなくてもいいとPRしているように聞こえる」
と諫められてしまいました。

この感覚は、権限を委任されたのだから多少の強制はやむを得ないというものです。
言い換えれば「自由」よりも「秩序=和」を形成すべきだという考えです。
しかし、それでは「もう一つの町内会」になってしまいます。
だとしたら、新しい会を作る意味がどこにあるのでしょうか。

ぼくがそう発言すると、
「お前は組織の存在そのものを疑うのか」ときます<笑>。
誕生した組織に疑義をはさんでは、もう完全に異端となるのでしょう。
しかもその異端視は、激しく感情的に突き付けられてきます。
思ったことが素直に言えない「空気」がそこには君臨しているのです。

なぜこんなふうに?

なぜこんなふうになってしまったのでしょうか。
ぼくにはそれなりの心当たりがあります。
それは、総会で議長をやったぼくに対する役員たちの反発だったような気もします。

実際、「お前は議長として越権行為を犯した」と指摘されました。
たぶんぼくに「国会での議長」のような役割を期待していたからでしょう。
つまり、形式的に進行役をやっていればいいのであって、発言はすべきでないと。
しかし、それで本当にいいのでしょうか。
ぼく自身は、参加者のそれぞれのいろんな意見を引き出して議論を進める役こそが
議長の役割ではないかと考えていました。

というのも、日本の会議の多くは単なる形式で終わってしまい、
そこでは本当の議論がなかなか展開されていないからです。
それであっては、わざわざ住民に集まってもらう意味がありません。
しかも「区長」と「準備委員長」の挨拶は表面的なものに終わったため、
議長としてはいちいち補足説明をせざるを得ませんでした。
そうでない限り「株主総会」のように、単に形式だけでしゃんしゃんと
終わってしまいそうだったのです。

そこでぼくは「形式よりも内容の理解を」と考え、かなりしゃべりました。
要するに「目立ち過ぎた」のです<笑>。
それが「越権行為」と映っても仕方ありません。
組織では何よりも序列が重要らしく、「上」を立てることが要求されます。
しかしぼくはその「掟」をかなり破ったのでした<笑>。

今日の脱会劇の「遠因」は、どうやらそこにもあったようです。
早い話、組織に対する考え方も価値観も、ぼくはみんなと違っていました。
違ったまま出発しては、いつかきっと問題が起きたでしょう。
その意味で、第一回の役員会でそれが表に現れたのは幸いでした。
これで下手な妥協をせずに生きることができ、すっきりしたからです<笑>。

それにしても組織の問題はややこしいものです。
オープンで民主的な組織を目指して出発したはずだったのに、
最初から組織論の問題でぼくが村八分になったのですから<笑>。
これが町内会の体質であり、派閥や政党の体質でもあると思います。
もちろん企業の組織もこれとほぼ同質なのではないでしょうか。
そしてその究極に「天皇を中心とした神の国」という概念があります。
その意味するものは「一致団結・一心同体・家族的国家・和・秩序」を維持
するために「個」を従わせる(管理する)というものでしょう。

最後に区長から「立派な人物だと判断したことが間違いだった(見損なった)」
という言葉がぼくに対して激情的に投げつけられましたが、
ぼくとしては、もう苦笑せざるを得ませんでした。
なぜなら、区長は「立派な人物=組織に従順な人物」と考えていたことが
その言葉ではっきりしたからです。
これは要するに、組織の意向にそわない者は存在を否定するということです。
このような不従順者はかつては「非国民・反逆者」として扱われました。
脱会はぼく自身の意志でしたが、その場の空気としては「破門」でした<笑>。
ぼくは「なぁなぁ主義」の場に「個々の妥協とへつらい」を見てしまいます。
そして、組織に呪縛されるよりは、孤立しても自由でありたいと思います。
とにかく日本の組織というものは、カビが生えるぐらい陰湿になりがちです。
それだけに、そこから無事に脱出できたことのよろこびとうれしさで、
いまはさわやかな気分いっぱいです<笑>。

以上、大急ぎでぼくの「脱退劇」のあらましを書きましたが、
こんなことがインターネットを通じて流されたと知ったら、
たぶん役員諸氏の怒りはさらに増幅されることだろうと思います。
なぜなら日本の組織は「内部事情」を外に出されることを一番嫌うからです。
組織内部の「恥」は、組織をあげて隠蔽して当然というのが日本の社会です。
このことは、昨今の数多くの組織スキャンダルが物語っている通りです。

住み良い環境をつくる会

「住み良い環境をつくる会」の組織には、以下のようなものがありました。

●会長(町内会の区長とは別です)
●相談部(部長=区長、その下に町内会の各班長)
 役割は「会に対する助言、指導および協力」…(ん?指導って?)
●総務部
●安全・衛生部
●坂道対策部(冬の坂道の除雪を担当)
●渉外部
●婦人・少年部
●会計部
●監査部

最初この組織図が示されたとき、ぼくはかなりの抵抗感を覚えました。
それは「もう一つの町内会」のような重武装をしていたからです。
ぼくの関心事はもっぱら「道路問題」でした。
本来は、市が、あるいは町内会がやるべきこの問題がうまくいっていないため、
「住み良い環境をつくり会」で町内会や市を動かすしかないと考えたのです。

しかし今回の会議ではっきりと分かったのは、
「道路問題」は会の「お飾り的なテーマ」でしかないということでした。
となれば、この会に参加するメリットはほとんどありません。
ただ「仕事が増える」くらいのものでしょう。

それどころか、会に「婦人・少年部」なるもののあることが気になっていました。
そこには「青少年の健全な育成及び婦人の生活向上に関する事項」とあります。
いったい「青少年の健全な育成」とはどういうことでしょう。
「婦人の生活向上」という言葉の意味もぼくには良く分かりません。

本来なら、そこまで突っ込んで議論したうえで準備会にぼくは参加すべきでした。
一応「もっとシンプルなテーマに絞るべきだ」とは最初から言っていたのですが、
「動き出しながら考えよう」ということになっていました。
しかし動き出す前に脱会して良かったと思います。
途中で異論を差し挟んでは、それこそもっと問題がこじれてしまうからです。

それにしても日本の社会の組織なるものには「一心同体」が求められるようです。
人と違った考えや発言をしては、そこに存在することすら許されません。
「日本人なら、みな同じように考えるはず」という思い込みがあるのでしょう。
そんな空気は、ちなみに「野球」についても同じでした。

蛇足ですが、会が始まる前に雑談が行われていました。
「今日は巨人戦があるのに会議とはねぇ」とある人が笑いながら話しました。
「大丈夫、今日は絶対に勝つから!」と別な人…。
そこには「巨人のフアンであって当然」という空気が漂っていました。

ぼくは野球に関してはほとんど無関心、ナイターにはあまり興味がないので
別に気にすることもないのですが、もしアンチ巨人がそこにいたらどうでしょう。
もちろんその人の性格によって反応は異なることでしょうが、
気の弱い人ならきっと「クソっ」と思いながら黙っているに違いありません<笑>。

人間、それぞれに個性も好みも違います。違った者がいて当然なのです。
しかし組織の空気は、異質な意見を言う者を排除しようと働きます。
実際、「お前のような考えはこの会にふさわしくない」と言われました。
異端の存在は許されません。それゆえにその場の空気は、
「青少年の健全な育成」ならぬ「稲田の健全調教(説得?)」に向かいました<笑>。
「健全」とはどういうことでしょう。
ある価値観や体質(談合体質?)になびくことが「健全」であるとしたら、
それは「天皇を中心とした神の国」を目指すことにもなりえます<笑>。

脱会から一日が過ぎ

脱会から一日が過ぎ、その簡単な顛末については以上で紹介しました。
でも、いちばん肝心なことを書いていなかったことに気づきました。
それは、ぼくの発言に対する否定が「罵声」によって成されたということです。
それらを聞きながら、人間とはこうも急変するものかと正直驚きました。

もちろん全員がそうだったわけではありません。
感情的に罵声を浴びせかけたのは、8人のうちの3人だけです。
その他はただ黙って、うつむいて聞いていました。

そのなかの一人は、明らかにぼくの意見に賛成でした。
というより彼の言葉を補足するかたちで、ぼくは「自由参加」を主張したのです。
でも、いったんその場の空気がある方向性をもってしまうと、
だれもぼくの意見をサポートしようとはしなくなります。
そんなことをしようものなら、次にねらい打ちされるのは明らかだからです。

閉鎖空間でのいじめというのは、たぶんこうしたかたちで行われるのでしょう。
いじめられる人に味方をすることができなくなってしまうのです。
そうしたことは重々承知していたぼくだっただけに、
激しい罵声を浴びせられてもそれほどびくつきませんでしたが、
もしも心臓の弱い人だったらショック死してしまうかも知れません<笑>。
それにしても、異なった意見に対して、感情を露わにして罵声でしか反応できない
組織に、ぼくはとても貧しく寂しいものを感じました。

こういうのって、案外どこにもあるものかも知れませんねぇ。
家庭にも、学校にも、職場にも、サークルにも…。
ぼくの場合は「脱会」でサヨナラできましたが、
親父対息子の場合は、暴力や犯罪にまで発展する可能性があります。
また、企業の組織ではどうなのでしょう。
仕事とお金のために、我慢して耐え忍ぶのでしょうか。
みなさんのご意見もお伺いしたいと思います。

このことをワイフに話したところ、「辞めて良かったね!」<笑>。
やっぱり我が家は「変人家族」のようです<笑>。

グラスミルク

「グラスミルク」とは、「ファームエイジ」(本社当別町)が
2001年4月中旬から市民に提供する「草で育てた牛の牛乳」です。
ぼく自身このプロジェクトのサポーター役を担っていることもあって、
これからこのサイトで「グラスミルク」の動きをご紹介していきます。
まずは、「グラスミルク」の意味するものにご注目下さい。
今朝(2月27日)搾りだしたばかり?の資料を以下にご紹介します。

草で育てた牛の乳、グラスミルクとは?

安全・健康な牛乳を求めて
四月からファームエイジが提供します
ファームエイジではこの四月から、いよいよ「グラスミルク」を提供します。グラスミルク…、これはいったい何でしょう? 文字どおりに翻訳すれば「草の牛乳」。そう、草を食べさせて育てた牛たちから搾った牛乳のことです。
草で牛を育て、その牛が出す牛乳や乳製品を人間が頂戴する…これが本来の酪農の姿でした。しかし現在の酪農は、外国から輸入した穀物を配合して牛に食べさせ、より多くの牛乳を搾り取ろうとしています。
酪農業も一つの事業である限り、それも当然と言えるかもしれません。しかし牛を「搾乳の道具」としたその結果、さまざまな問題が生じるに至っています。

【失われた安全性】

問題の一つは、牛本来の自然な牛乳が得られなくなったことです。牛乳には本来さまざまな栄養価が含まれており、それが牛乳ならではの価値でしたが、「量」をあくなく追求することにより「質」が失われるに至っています。
「乳質」の中にはもちろん「安全性」も含まれています。配合飼料を食べさせて大量の搾乳を追求する近代酪農は、結果的に本来の自然の栄養価と安全性を切り捨ててしまったのです。
なぜ配合飼料の牛乳は安全ではないのでしょうか。
その理由はまず牛の健康にあります。考えてもみて下さい。牛は草を食べて育つ動物です。だからこそ草の繊維質を咀嚼するために胃袋を四つも持っているのです。
その牛が配合飼料を食べると、胃袋は一つで十分になります。すると使う必要のない胃袋に異常が生じます。病気になっては大変と、今度はさまざまな薬品(抗生物質など)を配合飼料に混ぜて食べさせます。こうして病気予防のための悪循環が始まっていくのです。
また、配合飼料で育てる牛は主に「舎飼い」されます。つまり窮屈な牛舎に閉じ込められ、牧草地をのんびり歩いて草を食べる必要がなくなるわけです。その結果牛たちは運動不足になり、足元の大地の感触や、風や大空の開放感とも無縁になります。つまり牛たちは牛本来の「生」を満喫することもなく、単なる「搾乳機械」に成り下がってしまうのです。
こうした牛たちには当然ストレスが溜まり、やがて健康を害していきます。健康的な生き方ができない牛たちに、健康で安全な牛乳を求めたとしても、それは無理な話と言えるでしょう。

【無理のない搾乳量】

量をあくなく追求する酪農は、乳牛の品種改良にも積極的でした。その結果、ホルスタイン種はいまや年間一万キロもの牛乳を出してくれます。しかし牛本来の姿からすれば、これは非常に異常な出来事です。なぜなら牛は自分が産んだ子牛のために乳を出しているのであって、自然の姿はもっとずっと少ない牛乳で十分だからです。
酪農の先進国ニュージーランド等では、決してこんな無茶な量は搾りません。草で健康的な牛を育て、年間約四千キロ程度の搾乳で十分に豊かな経営をしています。牛を草で育てて巨額のエサ代の出費を抑えることができるなら、無理のない量の搾乳で十分に酪農業を営んでいくことができるのです。
実際、ガラガーエイジではニュージーランド方式を日本に紹介・導入することにより、「牛を草で飼う」本来の酪農を普及してきました。
これは電気柵を使って牛を放牧するもので、寒冷地北海道でも年間十三回くらいは同じ牧草地が利用できます。というのも草の本当の栄養価は15センチから20センチの若草にあって、若草を次々と食べさせながら循環させれば、牛たちも健康に育ち、適量の安全な牛乳を出してくれるからです。
しかし、せっかく安全で健康的な牛乳を搾っても、現在の集荷システムでは、他の牛乳と混ざってしまって価値が発揮できません。そこでファームエイジでは「草で育てた牛の乳」を自社で加工し、そのまま直接市民にお届けすることにしました。これがこの春から提供する「グラスミルク」の概要です。

エコロジカルな牛乳です

地球にやさしく、飢餓や人口増にも配慮
 グラスミルクは安全にして健康的であるばかりか、とてもエコロジカルな牛乳です。というのも、それは太陽と大地が毎年生み育ててくれる草を見事に牛乳に変換して、私たちに素晴らしい栄養価を与えてくれるからです。
 このことは、いったい何を意味しているのでしょうか。
 それは再生産可能・持続可能な生産システムからの恵みであり、グラスミルクは「人間と草をつなぐ非常に合理的な回路」、つまり元来の牧畜の知恵の現代版です。
 ところが現在の日本の酪農は、「草と人間をつなぐ回路」ではなく、人間が食べられる食料(穀物)をわざわざ牛に食べさせて乳を搾る酪農になっています。
 世界には飢餓状態に置かれている人々がたくさんおり、それだけに穀物は本来人間が食べるものでなければなりません。しかし現実は、人間の食料を奪って牛に与え、その一方で悲惨な飢餓を生みだしているのです。
 こうして近代酪農や畜産は、牧畜システム本来の知恵を踏みにじっています。というのもそれは「人間が食べられない草」ではなく、貴重な穀物飼料を与え、また「放牧」を止めて「舎飼」を基本としているからです。
 その結果、健康障害、薬害、糞尿公害、環境汚染、飢餓地帯等々を生みだし、自然環境そのものを破壊しています。持続可能なシステムから離れた酪農は「宇宙船地球号」の航海を危うくしていると言えるでしょう。

【ヒトには穀物、牛には草を】

 これに対してガラガーエイジとファームエイジでは、「草」と「循環」による合理的な牧畜システムを科学的に再構築し、地球環境資源や家畜という「元金」を大事にした事業を提供しています。
 そうです、酪農や畜産などの牧畜は本来、家畜たちを減らさずに増やしながら、その「利子=乳・子・肉・毛皮・羊毛等々」によって生きていくという知恵だったのです。「元金」には家畜のほか、草や自然環境なども含まれます。草や自然環境が牧畜の元金だったからこそ、彼らもまた自然環境を大事に守ってきたのです。
 食糧危機が危ぶまれる今後を考えるとき、ヒトと家畜の間での食糧の奪い合いが予想されます。特にブタやニワトリなどの雑食性家畜は、トーモロコシ、サツマイモ、ジャガイモ、魚粉、大豆粕、小麦、米などのエサが不可欠だけに深刻でしょう。
 それに対して牛や馬などの草食動物には、本質的にヒトの食糧と競合しない長所があります。とりわけ四つもの胃袋を持った牛は、ヒトが消化出来ない草(セルロース)を微生物の働きで分解して栄養にしてくれるため、今後の社会の重要な家畜とされるでしょう。それだけに外国から大量の穀物飼料を牛に与えて牛乳を生産するのではなく、酪農本来の知恵であった「草で育てる」という基本に、私たちも立ち返らなければならないのです。
 その意味でもグラスミルクは、とてもエコロジカルな牛乳と言えます。すなわち、地球にやさしい牛乳、そして今後の人口増や飢餓に対して十分な配慮をした牛乳…、それでいて健康的で安全、もちろん栄養価値の面でも断然優れているのです。

「農の風景」の理想

「粘土団子を蒔く」ことに意味、お分かりになりましたか?
もうちょっと、続けさせてください。


 僕の自然農法は、突き詰めれば粘土団子を蒔くことだけ。その中にすべてが含まれているんです。こんなことをいうと簡単すぎて、人はかえって疑うでしょう。しかし繰り返しますが、人間の手を加えるほどに自然というものはおかしくなる。だから作物や果物を育てるにも人間が下手に手を加えず、簡単にやったほうが結果は驚くほどすばらしいんです。
 その意味においても、自然農法は結局生き方の問題になってくるんです。でも勇気をもって生き方を変えれば、そこにはそれまでとは全く違った世界が開けてくる。そのほんの一例を紹介してみることにしましょう。
 
 アメリカで、自然農法によって、いま三千ヘクタールもの米づくりを行なっている経営者がいます。その経営者は、僕の話を三時間聞いただけで、自然農法を始める決心をしたんです。
 僕の話を聞いた彼は、これは大変だ! 大革命だ! と感激して、さっそく6人の従業員の首をきり、トラクターも廃止した。そしてただ粘土団子を飛行機で蒔くだけで、りっぱに大量の米を収穫しているんです。
 自然農法の米作りの仕事は、ただ種を蒔き、そして収穫するだけです。実に単純でシンプルです。無耕起、無肥料、無農薬で、不思議なくらいに成功する。しかもそれまでは三千ヘクタールの全部で米作りをすることなどできなかったわけですが、自然農法なら三千ヘクタール全部が毎年連作できるんですよ。
 まるでウソのような話ですが、実際にアメリカで、いま自然農法が営まれている。なにしろアメリカでは、「これはいいぞ」と思ったらすぐに実行に移すといった精神風土がありますから、もしアメリカが本気で自然農法に取り組み始めたら、日本はとてもアメリカにはかないません。
 
 一方、「息子が僕の本を読んで感激した」といってドイツからはるばるここにやってきたある経営者も、それまでやっていたヨーロッパ一の食品会社(ハム・ソーセージ会社)を、その後全く新しいかたちに変えてしまった。すなわち、それまでの経営拡大指向をやめ、農場・牧場とレストラン、住宅を一箇所に配置し、生産からサービスまでを一貫して提供できるようにしたわけです。
 
 その人に「僕の本のどんな点に共感したのか」と聞きますと、「スモール・イズ・ビューティフル」といいましたから、すかさずに僕は「スモールよりも無のほうがベターだ」と言い返した(笑)。「無の哲学」こそが自然農法の真髄であるからです。
 
 そもそも僕が自然農法を始めたきっかけは、あるときに、この世界の実相をすっかり見てしまったからなんです。 いまからもう50年も前のこと、僕が25歳のときのことでした。そのころふとした病気が原因で、死の恐怖におびえ、人生への懐疑と懊悩の日々を送っていました。
 そんなある日、日夜を徹した彷徨の末、疲れ果てて木の根にもたれてまどろむともなくまどろんで夜明けを迎えると、突然、ゴイサギが鋭く鳴いて飛び立って行ったんです。そのとき突如として僕の口から飛び出した最初の言葉は、「なにもない。なにもなかったじゃないか」というものでした。このとき、僕は「神の全貌を見てしまった!」と直感したんです。
 
 「なにもない。なにもなかった!」…。その神秘的な体験から、自然農法が出発したんです。
 ただ人の目には、貧乏百姓が好き勝手なことを言い、夢ばかりみて遊んで過ごしているように見えたかもしれません。しかし僕にとっては、「なにもなかった」というそのときの鮮烈な体験を、以来50年の歳月を通して改めて確かめてきた。つまり人間に生来与えられている農の営みが、知識や道具や機械によって「農業」となったとき、そこにさまざまな悩みや問題が生じてきたことを発見させられたというわけです。

 僕が砂漠に関心をもったのは、いまから十数年前のことでした。ある夏、北米に飛んだときのことですが、広大な緑の沃野を予想して行ったアメリカ大陸が、意外にも褐色の荒廃した半砂漠の国であることに驚いた。そしてそのときに思ったのが、カリフォルニアの砂漠化・気候変化は農耕法の間違いから出発しているにちがいないと推測したんです。
 そしてある早朝、褐色の草原がどこまでも広がるアパー高原で、小さなわき水で顔を洗いながらふと見たところ、ネズミの巣の中に浸み込んだ水で雑草の種が二、三センチ芽を出しているのに気がついた。暑いから草が枯れると思っていたのに、事実はフォックステールなどの雑草が平原を独占して、他の緑を追い出していただけだということが分かったんです。この雑草は、二百年前にスペインから侵入したといわれます。だからこの草をうまく利用すればきっとこの砂漠にも緑が復活する。そう考えて早速実験にとりかかったんです。
 まず日本から持ち込んだ色々な野菜種を混ぜ合わせ、枯れ草を大きな鎌でなぎ倒してその中に蒔きました。そこに山上の溜まり水をビニールパイプで引いたところ、「案ずるより生むが易し」で褐色の草原の中に緑が生えた。もちろんこの緑はフォックステールの緑です。それから1週間後、水がきれると芽を出した雑草は暑さで枯れ始めましたが、その中からカボチャ、キュウリ、トマト、オクラ、大根、トウモロコシといったものが繁り始め、結局は褐色の草原の真ん中が野菜畑に変わっていった。つまり、頑固な雑草はいったん芽を出して枯れ、その跡に野菜が生えてきたわけです。
 
 こうした体験からいよいよ本格的な砂漠の緑地化実験がスタートしていったわけですが、地球のあちこちがどんどん砂漠化しているその元凶は、結局人間の人智や人為にあったということができるでしょう。
 だから、これさえ排除することができれば、自然は自然に復活する。人間がやるべきことは、ただ色々な食物の種や菌類を集め、それを粘土団子にして蒔くことだけ。それが唯一の人間の自然への奉仕ということになるんですね。

 要するに、人間は自然の偉大さや自然の神秘な営みについてまるで分かってはいないということでしょう。それなのに技術が絶対であるように思い込み、人知や科学が万能であるかのようにすっかり錯覚してしまってきた。しかし文明化されすぎた便利な社会はむしろ危険であって、いったんその危うい人工的な調和が崩れ出すととんでもない事態が発生してしまう。文明化されすぎた社会は、ちょっとした気候の変動や天災によってもろくも崩れ去ってしまうものなんですよ。
 
 僕が理想とする「農の風景」とは、果物がたわわに実る農園の樹の下に、クローバーや野菜の花が咲き乱れ、蜜蜂が飛び交い、麦が蒔かれていて、自給自足で独立して生きられるといった環境です。また地鶏やウサギが犬とともに遊び、水田にはアヒルやカモが遊泳し、山すそや谷間では黒ブタやイノシシがミミズやザリガニを食べて太り、またときには雑木林の中からヤギが顔をのぞかせる。そんなのどかな風景の中に生きることができたとしたら、僕としてはこれ以上の幸せはないだろうと思いますね。
 こんなことを言うと、まるで経済性のない原始的な世界と思われるかもしれませんが、しかしこれは「人畜と自然が一体となった素晴しい有機的共同体」であって、人間はそのような世界での自由で自立的な生き方を、本当は心の奥底で望んでいるのではないか。そしてそういった生き方をやろうと思えば、誰もがすぐにでもできてしまうんですよ。


 長くなりましたが、いかがですか? 翁の言葉はまだまだ続きます。でも、だいたいその概要はお分かりと思います。翁の言葉は「農」だけでなく、すべてに通ずるものなんではないでしょうか。(はい、お疲れさま。質問がありましたら、なんなりとどうぞ!)

粘土団子

 というわけで「粘土団子」が登場してきますが、その概要についても紹介します。


 粘土団子というのは、耕さず、肥料をやらず、除草もせずに作物を育てるためのいっさいが集約されたものですが、簡単にいえばこの中に、実は耕すことの意味、肥料をやることの意味などのすべてが詰め込まれているともいえるんですよ。
 その作り方はしごく簡単で、とにかく手当たりしだいにいろいろな種を百種類以上集めて混ぜ合わせ、それを粘土といっしょに混ぜて団子状にすればいいんです。
 たったこれだけのことですが、こうして作った粘土団子を適当にばら蒔きます。するとその中で一番その時どきの環境と時期に合った種が芽を伸ばして、やがて根を張って育っていくというわけです。
 百種類以上もある種の中からどれがまず芽を出すか、それは自然そのものが決めてくれることです。生命力のない種やその土地の環境に合わない種は、とうぜん芽を出すことはありません。しかし百種類以上もの種をいっしょに蒔けば、必ずやその中のいくつかの種が芽を出すことになる。つまりそこで育つにふさわしい種だけがまず芽を出し、土に根を張っていくというわけです。

 人間は、米なら米だけ、大根なら大根だけを作ろうとして、一種類の種を蒔こうとします。しかしそういった人間管理的な勝手な秩序は自然の中にはありません。だから自然は本来のバランスを回復しようとして、いろいろな植物をそこに芽吹かせてくるんです。
 しかし人間はそれを「雑草」と呼び、あるいは「害虫」と呼んで、そういった計画外の邪魔ものを駆除しようとする。そしてそのために必要になってくるのが除草作業や除草剤であり、殺虫剤というわけです。
 
 どんなに虫がいたとしてもそのままにしておきます。普通なら「害虫」といって嫌うわけですが、虫が食って食べられない大根は一本もない。いったいなぜだろうと、大学の先生たちも不思議に思う。その理由は害虫も多いけれど天敵もたくさんそこにいるからです。だからどんなに虫がいても被害が出ない。すなわち、自然はちゃんとバランスを保ってくれるというわけです。
 
 よく害虫で畑や山林が全滅したなどといった話を聞きますが、害虫や病源菌というのは、植物の寿命がきて、80%は枯れてもいいときにやってくるものなんじゃないでしょうか。
 つまり害虫がついたから作物に被害が出るというんじゃなく、実はもう弱りきって死期が近づいているからこそ害虫が発生してくるともいえるわけです。
 だから害虫というのは決して作物に被害を与える「原因」ではなく、むしろ「結果」であって、植物の健康度を教えてくれる存在であるのかもしれないんです。もっと分かりやすくいえば、自然から死ねと申し渡されるときに害虫がきて片付けてくれる(笑)。

 自然はとにかくいろんなことを私たちに教えてくれているんです。実は、たとえ乾燥した場所であっても大根が生えるということを教えてくれたのがこの場所なんですよ。
 いったいなぜ、こんなに固くて水分の少ない土に大根が育つるのか。しかも肥料など全くやらずに…。ただ土があまりにも固いものですから、大根は根を下に下ろすことができず、上に伸び上がって大きくなるんですが(笑)。
 こんな土でも立派に大根が作れるわけですから、砂漠で作れないはずがありません。要は、まず大根の育つような環境を砂漠に作りだしていくことなんです。
 
 十三年間で固い荒れ地がこんなジャングルになったのですから、それと同じ方法でやればいいんです。すなわち、まず粘土団子をばら蒔いて、砂漠の中でも芽を出す最初の植物に期待する。その点では、ハヤトウリなどがぴったりだと思います。ハヤトウリなら一本が根付けばかなり広い面積を緑の葉っぱで覆ってくれますからね。
 
 ところで問題は砂漠のようなところで、いかにして根付かせることができるかという点ですが、そこに実は粘土団子にして蒔くということの意味があるんです。
 すなわち一つの粘土団子には水分も養分もちゃんと含まれていますから、そのぶんだけでも一日に四、五十センチもの根を伸ばすパワーをもっているんです。
 こうして粘土団子の力に支えられて芽を出し、根を伸ばし始めたハヤトウリの根が二、三メーターも伸びれば、砂漠とはいえその辺りには必ず湿りけのある土があります。すると根は、地下にある水源に向かってさらにいっきに伸びていく。その結果ついにしっかりと水続け脈にタッチすることになるわけです。
 ハヤトウリが砂漠に根づけば、一株で約一反(一千平方メートル)もの空間を緑で覆います。そうすればいくら灼熱の太陽に焼かれていた砂漠の地表であっても、温度が下がる。すなわちハヤトウリが、それまでの砂漠とは全く違った自然環境をそこに新しく作りだしてくれるわけですね。
 
 緑の葉っぱで大地が覆われれば、地表温度が下がるだけでなく、とうぜん露も葉っぱにつくでしょう。それが砂漠の土に湿りけを与え、さらに自然環境を整えてくれる。こうなればもうしめたもので、粘土団子の中の他の種も発芽できる環境ができあがります。しかも砂漠とはいえ、全く雨が降らないというわけでもありません。雨が降ればさらに環境が変化していきますから、やがてさまざまな種が発芽して緑に覆わ
れていくというわけです。
 こうして一度砂漠を緑で覆ってしまえば、逆に植物が出す水蒸気が雲を作りだすという現象も生じてきます。こんなふうにいいますと、じつに都合のいい勝手な理論と思うでしょう(笑)、しかしこれは実際にすでに実証済みのこと。インドで実際にやってみせてきた事実なんですよ。

 いま砂漠の緑地化には、アカシアとかポプラとかユーカリといった、砂漠に有効と考えられる木だけを植えようとする試みがなされていますが、しかしいままでに成功したためしがありません。むしろ砂漠化に拍車をかけるだけなんです。
 現在行なわれている緑地化の方法とは、たとえば砂漠にユーカリなどの苗木を植えて、それが枯れないように毎日せっせと水をやり続けるといった方法です。これにはたくさんの人々の手がかかるのは当然で、しかも実は木そのものに対しても決していい影響を与えません。
 というのも、人間がせっせと毎日水を運んできてくれるものですから、植物はすっかり安心してしまって自分の力で根を伸ばそうとはしなくなるからです。おまけに水をまけばまくほど土が固くなってしまって、結局は木が枯れてしまうか、たとえ育っても弱々しく立っているにすぎない(笑)。
 いきなり木を植えてみてもほとんどむだで、下に草が生えてこそ木々も育つんですよ。そして、草が土や自然環境を作ってくれる。これまでは土が植物を育てると思ってきたわけですが、実は植物が土を作ってくれるんです。
 
 見た限りでは単なる雑木や雑草の山に見えますが、たしかにこの山で僕はたくさんのことを教えてもらったと思います。
 ここは果たして畑なのか、果樹園なのか、あるいは単なる山林なのか。日本の百姓は、これを見たらきっと腰を抜かして驚くことでしょう。実際に税務署でも、いったいどのジャンルに分類したらいいのか判断に困っていた(笑)。だから一番安い税金を収めることでなんとか済んでいるんですよ(笑)。

福岡翁のメッセージ

 そしてここから、福岡翁のメッセージが続くのですが、長すぎますので、その中から、面白そうなところだけを以下に拾い出してみることにしましょう。
 


 自然農法は収量が問題だという人がいますが、ごらんのように決してそんなことはありません。見れば見るほどたくさんの実がついているのが分かるでしょ。スモモもあれば、キウイフルーツ、ハヤトウリもなっている。果物が三重に、立体的に茂り実っているんです(笑)」

 はっきりと確認したわけじゃありませんが、全部で三十種類くらいはあるでしょうね。でも同じスモモでも、いろんな種類のスモモがこの山にはあるわけでして、一つの種類が、平均してさらに五種類くらいづつ育っています。ですから、掛け算すれば百五十種類くらいはある計算になるでしょうか。
 その約百五十種類くらいの果物が、次から次へと実っていく。この山は全部で四ヘクタールほどあるんですが、とても全部など収穫しきれません。実った果物のほんの一部を、「天の恵み」としていただいているにすぎないんです(笑)。

 そう、自然農法というのは、まさに「生き方」の問題なんですよ。この農園を自分が苦労して作ったと思えば、全部収穫しなきゃ損だと思うのが当然かもしれませんが、実際にこの農園を作ったのは「自然自身」であって、決して僕じゃない。それに、やせ我慢でいうわけじゃありませんが、これは「人間のため」にだけ作った農園でもないんですよ(笑)。
 
 実は先日放映されたNHKのテレビ(心の時代)ではちょうどこの辺りに座ってお話ししたんですが、なぜNHKがあえてここで映像を収録したかといいますと、十三年前『大法輪』という雑誌に載った写真と現在の様子が全く違っていたからなんですね。
 つまり十三年前の『大法輪』に掲載された写真は「まるで荒野の一軒屋」だったのに、いまはごらんのとおり「まるでジャングルそのもの」でしょ(笑)。わずか十三年の間にこんなに様相が変わってしまったということに、つまりNHKが興味をもったというんでしょうね。

 実際に十三年前のその写真を見れば信じていただけると思いますが、僕がこの山に入ったその当時、この辺りは雑木さえ育たないような不毛の土地だったんです。土は固い赤土でしたから、一本のミカンの苗木を植えるにも、ダイナマイトを使って穴を開けるしかなかった。それも、二本のダイナマイトを爆発させてやっと小さな穴ができるほど土が固かった。そんなわけで、この山は農園にすることなんてとても考え
られないひどい土地だったんです。その山が、わずか十三年の間にこんなにも変わってしまった。砂漠同然の山が、いまではまるでジャングルのように変身してしまったんですよ。

 十三年前には、この辺りにはミカンの木が生えていて、あちこちに鶏が遊んでいました。土はどこを掘っても粘土の赤土で、雨が降るとどろどろになり、その逆に乾けばかんかんに固まってしまう。普通なら、十三年の間にこんなに緑が増えたのだから、たしかに土が肥えたと思っても不思議じゃありません。しかし、実際は、土はなんにも肥えてはいないんですよ。
 
 ごらんのように、どこを掘ってみても表土は10センチもないでしょ。だから自然農法をやれば土ができるとか、いい土ができるから自然農法ができるというのは、実はウソなんですね(笑)。
 いったいなぜか。五十年も自然農法をやってみて、僕も自然というものが少しは分かったように思っていましたが、しかし五十年が経ったいまではもう下手にものが言えなくなってしまいました。
 つまり、したり顔で自然を説明することなどもうできない。それが正直なところ、五十年も自然農法をやってきた結果の厳粛な現実そのものなんです。
 
 この辺りはまだ十三年しか経っていませんが、しかし二十年、三十年と経ったところなら、いまはもうジャングルそのものです。あんなふうになってくると、土の養分を吸収して作物や木が育つんだなどとはとてもいえません。栄養分や水分についても、果たして水は下から上がっていくのか、上かや降るのか、あるいは植物そのものが互いに出しあうのか、そういった基本的な水の循環についてもまるで分かっていないんですよ。
 とにかく、いままでの説明ではもうとうてい説明がつきません。いまでもこんな赤土というのに、たったの二年や三年で、どうしてこんなに木や植物が成長できるのか。正直な話自然というものの不思議な営みについては、もうなにもいえませんね
(笑)。

 まず初めに、肥料木としての役割と、日陰を作ってもらおうと思って、最初は藤の苗木を植えました。ところがその藤の上にいまではハヤトウリが覆っている。ほら、あの小屋の屋根の上にもハヤトウリが茂っているでしょ。あれは実は小鳥が蒔いてくれたんです(笑)。
 ハヤトウリというのはとても面白いものでして、一本の苗から少なくても平均三千、五千もの実がなります。普通に育てても二百や三百個がなるといわれています。ところがこの山で冬を越させたものならば、もっともっとたくさんなる。多い場合には一万個くらいを平気で実らせてしまうんですよ。
 ということは、たった一本のハヤトウリで、一反もの面積を緑の葉っぱで覆ってしまう計算になります。ですからインドやアフリカなどの砂漠に植えたとしたら、わずか一年で一本が一千平方メートルもの緑の覆いを作ってくれることになる。しかもそこに約一万個もの実をつけてくれるわけですから、砂漠の緑地化にはハヤトウリを使ったらいいと僕は言っているんですよ。しかし実際に誰もそれをやってはくれるわけではありませんから、なかなか実現しませんね。
 
 それはともかく、この山に入って五十年、五十年が経ったいまつくづく思うことは、人間が自然に介在すればするほど自然をだめにしてしまうということです。
 僕もこの山に入った当時は、この荒野を「エデンの園」にしようと心を燃しました。が、結局は、僕が人間の浅知恵を加えたそのぶんだけ「エデンの園」は遠ざかっていった。人間がやればやるほど自然はうまくいかないんです。
 
 でも、いくら失敗を見ても、必ず「エデンの園」は実現するという確信だけは絶対に揺るぎませんでしたね。実際、五十年が経ったいま、この山の目の前には、スモモ、クワ、キウイフルーツ、モミジ、サクランボ、アカシア、山桃などの木々が生い茂っています。それにハヤトウリや大根などのたくさんの野菜も地面を覆っている。見ればお分かりのとおり、これではとても農園には見えないでしょうが、昔夢見た「エデンの園」がまぎれもなくいま眼前に広がっているんです。
 
 結果的にいえることは、植物の植生レイアウトは人間の頭で決めるんじゃなく、自然自身に自由に決めてもらうのが一番ということです。
 つまり最初の種は自分で蒔いても、実った実は小鳥が食べて糞にして蒔き直してくれるのに任せたり、また風が運んでいってくれるままに任せたりする。実際、自然がなすままに植物をほっといてみたら、こんなふうにどんどん育っていったんですよ。しかし「自然に任せる」ことと「放任」することとは微妙に違うもののようで、人間が植えて放任したミカンは結局は全滅してしまいました。
 
 その原因は分かったような分からないような…。しかし人間が知恵を使って植えた木は、いくら熱心に管理してみても放任しても、結局はだめになるということでしょう。
 同じミカンの木でも、自然に生えてきたミカンなら、あるいは勝手に豊かに育ったかもしれませんね。こうしたことからいえることは、自然がやったものはすべてが結局は善に帰結し、人間が介入すると結果的に悪になる。そういうことなんじゃないでしょうか(笑)。

 五十年前に、この山で「エデンの園」を夢見たときから、僕の「自然農法」は出発した。そして、自然農法を説明するためにいろいろとやってきた。が、五十年という歳月を費やして得たその結論は、人間が手を入れれば入れるほど自然はだめになるということ。考えてみれば僕が必死でやってきたことは、あるいは自然の邪魔をしたにすぎないということだったのかもしれませんね(笑)。
 もしもそれが最初から分かっていたら、なにもせずに初めからほっておいたことでしょう。つまりは「なにもせず、自然がなすままに任せてしまう自然農法」…。
 
 何もしなかったら、この山はいまでも荒野のままだったかもしれません。が、それはわずか五十年や百年の単位で自然を見るからであって、もし五百年、千年の単位で見たとしたら、あるいはこの山にも風や野鳥が種を運び、徐々に「桃源郷」を作りだしていってくれるのかもしれません。
 人間は、とにかく急ぎすぎますし、焦りすぎるんです。「効率的な人間のための食料づくり」だけを考えるから、結局は自然を破壊しつくしてしまうんですよ。
 だから僕が行き着いた究極の「自然農法」とは、人間は最小限の手を加えるにとどめるべきだということ…。そしてその最小限の手というのが、つまり「粘土団子を蒔く」ということなんです。

まずはじめに

(以下は、以前ぼくのフォーラムに書き込んだコメントの再録です)
「自然と人間の関わり方」という点で、福岡翁の自然農法から学ぶべきことがとても多くあるのではないかと思っています。
そんなわけで、福岡翁のことをよくご存じでない方のことも念頭におきながら、簡単にご紹介させていただきます。

【一言プロフィール】
●福岡正信(ふくおか・しょうしん)
大正2年愛媛県伊予市に生まれる。昭和8年岐阜高農農学部卒業。昭和9年横浜税関植物検査課勤務。昭和12年に一時帰農し、昭和14年に高知県農業試験場に勤務。昭和22年以来「自然農法」ひとすじに生きる。自然農法は、日本国内よりはむしろ海外で広く実践されている。主な著書に「自然農法・わら一本の革命」「無」1~3巻、「自然に還る」「神と自然と人の革命」等多数がある。

ぼくが福岡さんのことを知ったのは、もう30年くらい前のことです(いよいよ歳が疑われそうだな…)。そして、すっかり共感し、以来個人的に、あるいは仕事上でも何度か接点を持ってきました。最近でも「映像ドキュメンタリー」や「インタビュー」などを通していよいよ接近し、翁の原稿も3本ほど書きました。その中の一文(一部)をもって、翁の概要をリード文ふうに紹介してみることにします。


愛媛県の農村で「自然農法」を続けている福岡さんは、マスコミや出版物などを通してすでに世界的に知られている。かつて、NHKの映像で大々的な報道がなされたとき、たしかにそこには、いっしょに働く幾人かの「外国人」の姿があった。もちろん現在でも、まるで「魔法の農法」でものぞきにいくような感覚で、福岡翁を訪問する者が後を断たない。
福岡さんが自然農法を始めてから、すでに五十年の歳月がたつ。その途上、実にたくさんの人々が、はるばるこの愛媛県の「福岡農場」を訪れた。そしてここから世界各地に飛び立っていった。まさにいまの時代にこそ、自然農法とその生き方が強く求められている…。そんな期待感を込めながら、福岡翁がいるはずの山に向かった。
福岡さんの山(農場)は、松山市から伊予市へと延びる国道から少し山道を入ったところに広がっていた。
車から降りて小道を歩くと、スモモの実があちこちに落ちているのにまず驚く。見上げればこんもりと生い茂った木々。足元には、野草や野菜。そして耳に響く澄んだ野鳥の声…。それがそのまま自然農法の成果でもあった。
まもなくして、野良着姿の福岡さんが現われた。日焼けした顔に笑顔がほころぶ。凛とした姿と、すがすがしいその笑顔、これまた自然農法の結実といえるかもしれない。