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1999年01月:タイタニック号の発するサイン

 新年号はめでたい話、明るい話題、と相場が決まっている。そこで何か新年にふさわしいテーマをと考えてはみたが、なかなかいいアイデアが浮かばない。それくらい、世の中は右も左も気分が滅入るようなことばかりということだろうか。いくら経企庁が「景気に変化の胎動」と慰めてくれてはみても、その胎動には、胸騒ぎのする予感も混じって聞こえてくるからややこしい。
 しかし、「胎動」とは実にいい言葉だ。その意味は、母胎内で胎児が動くこと。内部で新しい物事が動き出すこと。内面の新しい動き。英語ではずばりサイン(sign)である。
 というわけで「時代のサインを読み解け!」と勇み立ってみた。が、サインは暗号めいていて難しい。カラスがゴミをあさっているのも何かのサインだろうし、みんなが毒入りカレー事件に迷推理を巡らすのもきっと何かのサインだろう。
 とにかくサインを読み解くのはそう簡単ではなさそうだ。下手をすれば球界のサイン事件のような訳の分からない迷路に迷い込んでもしまう。そこで本誌で実施した98年ヒット商品から、この新しい年明けにふさわしいサインを盗みとる?ことにした。

 98年ヒット商品番付を見てみると、なるほど、キーワードは消費新時代幕開け前夜の「型破り商品」ということらしい。「型破り」という以上は、従来のものにもう飽き飽きしたということなのだろう。そして「型破り」こそが、ずばり新しい時代のサインということなのかもしれない。
 実際、胎動は「型破り」つまり新生児が母胎を突き破って出てきてこそ完結する。その意味ではこの閉塞社会も、あるいは元気に新時代に破り出るために、あえて用意されたものかもしれない。
 型破りといえば、今回のヒット商品の大関に躍り出た映画「タイタニック」は、氷山に衝突して船体そのものが破壊・沈没した船の物語である。そのラブストーリーは、富豪と婚約した美少女とプー太郎絵描きとの、型破りの出会いから始まる痛快そのもののモラル破りだったし、凄絶な沈没シーンもまた、型破りの船体破りプロセス?を迫力ある臨場感で描き出してくれていた。
 それに感動した多くの人々は、心のどこかで「閉塞破り」を夢見ていたのかもしれない。この映画には単なる感動以上の、いまの時代を鋭く射抜くサインもまた秘めていたのではなかろうか。

 タイタニックの悲劇をこのように読み解いては犠牲者に対してあまりにも申し訳ない。それは実際に起こったことだったし、そこには深い教訓も沈められているからである。
 そこで、型破りの感動映画からこの年を生き抜くための教訓を引き出してみるとしたら、それは「安全神話はいとも簡単に崩れ去る」ということであろう。
 だから常にその心構えが必要で、とにかく「変化」の中でパニックに襲われてはおしまいだ。今年は何が起こっても不思議ではないサインがあちこちに感じられるだけに、なによりもタイタニック号の教訓を胸に生きなければならないような気がする。

 ということから、改めてタイタニック号の悲劇が発するサインを解読してみると、そこには実に意味深長な暗号が渦巻いている。実際、タイタニック号が現代の文明社会や組織そのものに見えてきてしまうのはなんとも不思議なことである。
 まず、「タイタニック」は「巨大な船」の意味だという。巨大な船は安全にして豪華、いや、安全と豪華さを追求した結果が巨大な船になってしまったということかもしれない。いずれにしても、大きいことは安全であり、かつ豪華、快適といった考え方がそこには鮮やかに現れている。そしてこれは、二〇世紀全体を貫く価値観でもあった。
 そのタイタニック号が、あっけなく沈没した。そして悲劇は、救命ボートが乗客乗員の半数ぶんしか用意されてなかったところに発生する。タイタニック号は、救命ボートの準備を軽視したのだ。「沈むはずのない設計」だったのだから、それもある意味では当然のことだったろう。
 豪華客船の甲板は、あくまでも船客たちの快適空間として設計されていた。そこにたくさんの救命ボートが並んでいては邪魔だし、目障りになる。救命ボートが下手に目についてしまっては、安全設計が自慢のタイタニックの名が汚れてしまう。そんなプライドもそこにはあったのかもしれない。
 しかし、タイタニック号の安全神話は、処女航海でいとも簡単に崩れてしまった。設計と技術への過信が裏目に出てしまったのだ。なによりも深刻だったのは救命ボートの数であり、それが大パニックを呼ぶことにもなった。ボートに全員が乗り移れないとしたら、それも当然のことだろう。誰もが冷たい海に放り出される側には回りたくないからだ。タイタニックの悲劇は快適さのみを追求し、安全性を軽視したところに発生した。

 科学技術を過信して効率、合理、快適、豪華さばかりを追求していくと、社会もついにはタイタニック号になる。それは「沈むはずがない」と過信する社会であり、自然の脅威も恵みも軽視してしまう社会だ。
 しかし不沈神話、安全信仰は急激な環境変化に弱い。だからこそ救命ボートだけは万全にしておかなければなるまい。

 実際、すでに数々の神話崩壊が相次いでいる。例えば会社。会社はこれまでサラリーマンたちにとってのタイタニックのはずだった。沈むはずがない、幸せにしてくれないはずがないと、多くの人々は「会社タイタニック号」に自らの人生を預けてきた。しかしいまや多くの企業がいともあっさりと不沈神話を返上し、乗員をリストラの名で船から冷たい夜の海に突き落とす。救命ボートにはすべての社員たちを乗せるだけの余裕がない。
 企業にとってもそれは同じで、頼みとする金融機関にも救命ボートの数が足りない。また明日を約束してくれていたはずの保険や年金も、そのときにならなければボートに乗せてくれるかどうかは分からない。こうして依存してきたものすべてに、いまクエスチョンマークが点灯し始めている。

 一方、文明社会という船体そのものにも「沈むかもしれない」という不安が徐々に渦巻き始めてきた。コンピュータ二〇〇〇年問題がそのサインの元である。便利で安全で快適な社会システムを支えてくれていたはずのコンピュータが、二〇〇〇年に狂う恐れがある。そのときに、電気は、水は、食糧は、通信は、交通は、医療は、そして仕事は? ……すっかり依存しきっていたものが突如謀反を起こすとすれば、それはそのままタイタニックの悲劇を繰り返すことにもなるだろう。いつのまにかコンピュータや組織を過信し、これに依存しきっていた社会…。そんな安楽な現実に浸りきっていたからこそ、映画「タイタニック」がひときわ身近に感じられてくるのかもしれない。

 「めでたい話、明るい話題」のはずだったのに、結局は「胎動」から胸騒ぎだけが聞こえてきてしまったようだ。しかし胎動も陣痛も、すべて出産への確かな兆しである。それは突き破られることの不安と痛みを伴いはするが、それ以上の喜びもまた秘めているはずだ。しかし「序(胎動)・破(陣痛)・急(出産)」は命がけのドラマであるだけに、救命ボートだけはやはりそれぞれの内側に用意しておく必要があるだろう。
 よくよく考えてみれば、「型破り」は本来生命の進化の基本形だったはずだ。しかし安全安定志向の日本社会は長くそれを排除し続けてきた。が、98年のキーワードにいよいよ「型破り」が浮上してきたとすれば、進化と新生はもう間近なのかもしれない。ただし、そこには不安も痛みも伴うだろうから、その覚悟だけは必要となるだろう。
 さて、めでたい話になっただろうか、新年相場はクリアできたか。それともやっぱりただ単なる「型破りの駄文」に終わってしまったのだろうか?

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