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2000年12月:「20→21」希望の国のエクソダス

 いまや「世紀末」「新世紀」「ミレニアム」等々の言葉が巷にあふれている。そう、二〇〇〇年の一二月は、二〇世紀から二一世紀へとミレニアムなジャンプをする最後の助走段階、間もなく歴史的な二一世紀の幕が開く。
 もしも世紀を表示する時計があったとしたら、20が21へと変わるその瞬間は確かに感動的にちがいない。が、それはどこかデジタル的なジャンプであって、実際の時間はただ淡々と連続しているにすぎない。そしてこの「連続」こそがアナログの持つ本来の意味で、自然も社会もすべてアナログで動いている。
 デジタルとアナログ…、この決定的な違いは、いったいどこにあるのだろう。違いを一言でいえば、それは「強引な数値還元=デジタル化」と「自然な連続曲線=アナログ」と言えるかもしれない。デジタルはコンピュータに合理的にデータ処理させるため、すべてを0と1とに還元し、ムダなものすべてを排除してしまう。それに対してアナログは、すべてをあるがままに受容する。
 「IT革命」が流行語になって以来、デジタルという言葉が猛威を振るっている。そこには先進的、合理的、効率的、便利といった格好いいイメージがあり、二一世紀はデジタルの世紀とも謳われている。しかし本当にそうなのだろうか。そんな疑問をふと頭にチラつかせそうな象徴的な出来事が、ここ最近あちこちで相次いだ。
 その代表的なものこそアメリカの大統領選であろう。そしていま二一世紀初の大統領を選ぶこの選挙で、「デジタル・アナログ論争」めいたものが巻き起こっている。その一つは選挙方法に関してであり、いま一つはその集計方法に関してだ。
 米大統領選挙は、国民による直接選挙ではなく、各州の選挙人の数を争う間接選挙の形式をとっている。これは各州の主体性、自立性を守るためというが、一票でも多くの票を取った候補がその州の選挙人すべてを獲得する方式だけに、全体の得票総数が多かったからといって大統領に選ばれるとは限らない。各州ごとにイエスかノーか、0か1かを明確に判断しながら、選挙人の数を積み上げていくかなり乱暴な方式だからだ。
 しかも今回は僅差の大接戦ということもあって、ついに手作業による集計作業が開始された。で、いざ手作業でカウントしてみると、機械集計とは結果がかなり違ってきたらしい。となると、合理的で便利なはずのコンピュータや機械による集計方法に、疑問が向けられて当然のこと。こうして今回の大統領選は、これまで全面的な信頼を寄せてきた「コンピュータ&機械信仰」にまでクエスチョンを突き付けている。
 便利さと効率をあくなく追求し続けてきた二〇世紀の社会は、こうしてその土壇場で迷路にはまりつつある。工業化は豊かな社会を作りだしたものの、それは決して幸せな社会とはいえなかった。そして情報化社会を向かえたいま、デジタルな情報処理もまた幸せをもたらすとは限らない。それどころかイエスかノーか、0か1かという二者択一方式がむしろ混乱を引き起こしているのだ。
 だとしたら、いったいどうしたらいいのだろうか。この問いに対する一つのヒントが、実は『希望の国のエクソダス』(村上龍著)にそれとなく示されており、エクソダス(脱出)こそが二一世紀の大潮流となっていくような気もする。
 エクソダスは旧約聖書の「出エジプト記」を意味する。実際、『希望の国の…』の作品もそれをなぞるかたちで書かれたにちがいない。が、村上作品では、その脱出の糸口を作ったものは中学生たちだった。彼らは従来の価値観にはとらわれず、自らの意思で自由に勝手に行動し、そして六〇万人の中学生たちがそれぞれ行動を起こしたとき、全く新しい二一世紀がそこに開かれたのだ。
 問題はなぜエクソダスが起こるのかということだが、その理由は簡単、閉塞社会の中で多くの人々が呼吸困難をきたしているからだ。そんなとき少しでも社会構造に亀裂(壊)が生まれれば、そこから流入してくる新鮮な外気に希望を見いだし、そして外の世界はもっと自由で楽しいはずと、当然のことながら思う。EXは「外へ」という意味だが、こうして脱出願望がどんどんふくらんでいく。大人たちは危険な外(荒野)に出るのは恐いと思うものの、中学生たちはそうではない。実際、従来の価値観からの脱出劇が、すでにいろんなかたちで若い世代に起こっている。
 それを目の当たりにする大人たちは「危ない!」「いけない!」「ダメ!」と厳しく忠告する。そして外へ出た脱出者たちを再び「内」へと連れ戻す。しかし中学生たちにとって、これまでの社会はずばり呼吸困難な閉塞空間なのだ。『希望の国のエクソダス』はそのことを繰り返し訴える。そして彼らがついに「外」へと脱出したとき、そこには日本全体の希望が開かれていた。
 「外へ」というキーワードは、決して地理的・空間的なものを意味するものではない。それは価値観や社会システムにおける「外」であって、要するに従来の枠の中(内)では腐敗が加速しているということだろう。それもある意味で当然であって、嗅覚と直観力に優れた若者の初々しい感性のみがそのことに気付いている。だからエクソダス願望がどこまでもふくらんでいくのだ。
 さて、エクソダス的な目からアメリカの大統領選を眺めてみるとき、ふと素朴な疑問が湧いてくる。それは、どうして二億数千万人もの人々がたった一人の大統領に運命を託さなければならないのかという疑問だ。その答は、たぶん「アメリカは一つの国家だから」ということになるのだろう。つまり、そこには「一つの国家に一人のリーダー」という従来の常識が働いている。が、これはあまりにも乱暴な話のように思えてならない。なぜなら、二億数千万人もの人々をひとつに束ねることなど、ほとんど不可能な話だからである。
 それでも「一つの国家に一人のリーダー」が不可欠だとしたら、「一つの地球」にも一人のリーダーが必要ということになろう。実際アメリカは、世界を束ねるリーダー国として君臨し続けてきた。が、その結果世界は果たして幸せになったのだろうか。この問いも、二〇世紀から二一世紀への宿題としていま私たちの前に突き付けられている。
 『希望の国のエクソダス』は、この問題にも深い示唆を与えてくれている。「中学生たちに代表はいても、リーダーはいない」と…。ところで代表とリーダーの違いはどこにあるのだろう。結論から言えば、それは、ピラミッド型組織とネットワーク型システムの違いに由来するものであろう。
 二〇世紀最後のエッセイということも手伝って、やや肩に力が入り理屈っぽい話になってしまったようだ。が、言いたかったことは簡単、便利さや効率だけを追求していくと、ムダと思えるものを強引に切り捨てざるをえないということだ。そしてこうした「デジタル化もどき」は、必ずどこかでしっぺ返しを喰らう。それだけに今回の大統領選で噴き出した諸問題はそのまま受け止めて、それこそ大統領選のあり方そのものを根底から「脱」しなければならないのかもしれない。
 世紀末の土壇場で世界中から注目されたこの「事件」は、二一世紀を目前にしてとてもシンボリックなメッセージを発してくれたような気がする。つまり、もはやアメリカの大統領といえど、二億数千万人、かつ全世界に対して強力なリーダーシップなど到底発揮できないという事実だ。だとしたら、リーダーに自らの運命を託そうなどとは思わず、自らが自立的に生きていかなければなるまい。その意味で二一世紀は、これまでの集団主義(会社主義・国家主義など)から個の確立へと徐々にシフトされていくことになるだろう。
 『希望の国のエクソダス』では中学生たちが大脱出劇の主役を演じたが、彼らは決して集団で行動したのではなかった。六〇万人が六〇万通りの動機と事情で勝手に行動し、その結果新しい地平が開けたのであった。ということで物語はハッピーな展開をたどるが、物語と事実は違って当然だ。しかし「外へ!」の願望はやはり強い。
 破れた「カゴの中の鳥は、いついつ出やる?」。
古い童歌は「夜明けの晩」と唄っている。世紀の夜明けというのに、いまや不安で真っ暗(晩)な世紀末…。二一世紀は「鳥たち」が外へ飛び出す、エクソダスの世紀と言えるのかもしれない。

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