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2001年02月:「あんたが大事…アガペー考」

 二〇世紀から二一世紀への歴史的な日々を、ぼくは病院で過ごさなければならなかった。一二月にある取材で「毒ガス」を浴び、救急車で緊急入院するはめになったからである。本当なら晴れやかな気分で迎えたかった新世紀だが、こうして年末年始は激痛と不快感、苛立ちに襲われ続けた。よっぽど日頃の心がけが悪かったのであろう。
 だがその中で、思いがけない体験もすることができた。それはいま振り返れば、とても貴重な天からのプレゼントだったようにも思える。
 さて、その貴重な体験のことだが、それは救急車の中で起こった。
 ピポーピポーピポー。救急車が自宅に到着するや、救急隊員たちがぼくをタンカーに積み込んだ。そのときフワーっと体全体が宙に浮き、耳元で聞こえる声々やざわめき、そして上下感覚が消え失せる感じの揺らぎが、なぜかとても心地よい。それは瞑目したままのぼくを、もう一つの宇宙へと連れ込んでくれるようだった。
 ピポーピポーピポー。救急車が走り出した。時々ゥゥウ~ゥウ~ゥウ~とサイレンが鳴り、「道路をあけて下さい」とスピーカーが叫ぶ。そういった声や音のすべてが、いままさにぼく自身のために発せられているのだ。そしてぼくを乗せた救急車は何度か赤信号を突っ切って、ひたすら病院へと急行した。
 考えてみたらこれはしごく当たり前のことだ。が、生まれて初めての救急車体験で、ぼくはそのとき、とても不思議な声を全身で聴いていたような気がする。
  「あんたが大事なんだ。お前の命こそ最優先。大切なキミを、決して見捨てはしない」と…。
 激痛の中で精神のバランスを失っていたからこそ、ピポーピポーピポーやゥウ~ゥウ~ゥウ~の音の彼方に、勝手にそんな声を聴いたのかもしれなかった。しかしたとえそうではあっても、その「天の声」はとても深く温かく心に響いた。そして思った。これまでの人生で、いったい何度「あんたが何よりも大事なんだ!」という圧倒的な声を聴いたことがあっただろうかと。
 激痛は、異常事態の発生に対して体が発するサインである。痛いからこそその治癒がすべてに最優先され、白血球もピポーピポーピポーと大あわてで現場に急行するのだ。こうして人の体は、「あんたが大事。お前の命こそ最優先。大切なキミを決して見捨てはしない」と絶えずやっている。そしてこの治癒力なるものは、いのちあるものすべてと、社会や地球にも秘められた摂理にちがいない。
 にもかかわらず、そのことがいますっかり忘れ去られてしまっているのではなかろうか。それどころか「お前なんかいないほうがいい。邪魔だから、とっとと消え失せろ。どけ、去れ、死ね!」と、学校でも、会社でも、社会でも、そして家庭ですら、自己の存在を否定する空気が濃厚になりつつあるように思える。そう、誰も「あんたが大事。決して見捨てない」とは言ってくれない。つまり、社会の治癒力がまるで働かない。私たちの社会では、個々人の心の傷を癒すための救急車は出動してくれないのだ。
 こうしたことが昨今の社会の背後に潜み、数々の殺伐とした現象を生みだしているような気がしてならない。それも「競争」が人生と社会の原理としてすっかり定着しているからだろう。実際、勝つためには、人よりもどこかが優れていなければならない。他者よりも優れた何かがあってこそ存在理由が得られる世の中なのだ。
 「あなたはこの点が素晴らしい。キミはその能力が買いだ。彼女が美人だからぼくは愛する」
 これらは「~~だから○○」という図式の、要するに条件付きの評価である。つまり、どこかになんらかの価値があって初めて愛されるのだ。逆に言えば、他者に秀でるものがない者は「邪魔だから消え失せろ」ということにもなりかねない。
 これに対して「~~にもかかわらず○○」といった見方、考え方も一方にある。例えばあのマザーテレサの生き方。彼女は目の前に倒れている人を、決して選びはしなかった。助けられて「なぜ私を?」といぶかる者に対して、「あなたが大事だから」と微笑んだ。そこには相手を選別する条件がない。
 相手の条件に左右される条件付きの愛=エロスに対して、無条件の愛、無償の愛をアガペーと、キリスト教神学では呼ぶのだそうだ。これはわが子に対する親の愛のようなものだろう。が、ともすれば昨今の親の多くは無条件の愛ではなく、「これこれに育ってほしい」と子供たちを方向づけ、密かに条件付き成長を期待する。そしてそこには、競争社会で生き抜いてほしいという熱い親の願いが込められている。
 というも経済社会・競争社会は、徹底してエロスの社会だからだ。そこでは、ちなみにより美しい者が賛美され、才能や特殊な能力のある者が勝者となり、元気な若い働き手や、命令や指示に素直に従う企業戦士たち、さらにお金持ちの成功者らが高く評価される。彼らこそ経済社会のさらなる成長を促してくれるからだ。
 しかしどんなに魅力的な条件も必ず時間の中で風化する。素敵な美人や元気な若者もやがて老醜化するし、技術や感覚、才能も古くなる。またお金の価値の浮沈も危うく、バブルの教訓にみるごとくに、資産があっというまに負債に逆転してしまったりもする。まさしくすべてが諸行無常…、これではエロスの社会に本当の安らぎはない。
 救急車で運ばれて入院したぼくは、病院で新年のテレビニュースを見ながらいろいろ考えさせられた。毎日のように報じられる残忍な一家四人殺人事件・筋弛緩剤投与殺人事件・赤ちゃん連れ去り事件、成人式事件、株価急落ニュース、KSD汚職等々…、新世紀の風景は、なんとも殺伐としたものだった。寒々しいその風景は、まぎれもなく二〇世紀的価値観と社会の結実でもあった。
 しかしあの救急車体験が、忘れかけていたアガペーの愛の存在をぼくに気づかせてくれた。それは「無条件でキミの存在そのものが尊い」というものだ。はからずも二一世紀の初めにそのメッセージを受け取ることできたのは、ぼくにとってやはり幸いなことだった。
 エロスは限りなく損得、効率、勝ち負けを追求する。その意味でエロスは経済学の原理であり、資本主義の力学といえるかもしれない。しかし人間は、決して経済だけで語り尽くせるものではない。そこには存在そのものの尊厳や、損得・勝ち負けを超えた聖なる領域もある。
 それはともかく、途方もない不安を感じさせながら二一世紀は明けた。重々しく社会を覆う不安の空気は、ますます人を厳しい条件で比較・評価・選別するようになっていくだろう。その結果社会はますます進化し、便利にもなろう。しかしその一方で、さらにたくさんの敗者もまた排出し続けていくにちがいない。
 考えてみれば、いま目の前に広がっている風景こそ二〇世紀的なもの、つまり損得、効率、勝ち負けを追求する経済原則が描き出したものだった。そこではあらゆる領域で競争に明け暮れ過ぎた結果、人間誰もが持つ「存在の無条件の尊厳」が軽視されるに至った。いじめやリストラは「お前なんか邪魔だから、とっとと消え失せろ」というものだ。そしてこの声がいざ自分に向けられるとき、人は初めて何かに気づくことができるのではなかろうか。
 その意味でも、救急車の中で「あんたが大事」という声を聴くことができたぼくは幸せだった。
で、改めて世の中を見直してみると、「あんたが大事」という声を求めている者たちが異常にあちこちに群がっている感じがする。ということは、二一世紀は大きくアガペーが開花する世紀、つまり多様な個性がそのまま無条件で大事にされる社会になっていくのかもしれない。
 退院はしたものの、脳味噌の中はまだふにゃふにゃ。そのせいか何とも微熱っぽい話になってしまった。が、言いたかったことは実に単純で、自然も宇宙も絶えず「あんたが大事」と歌っているということだ。このことに気づかされただけでも、救急車入院には意味があったと思う。
 こうして年末年始は激痛との戦いの連続だったが、「痛かった」からこそ最も大事なことに気づいたのだ。いまミレニアム的な大転換期にあって、さまざまな痛みが社会にも個人にも噴き出している。こういったときは迷わず救急車を呼ぶに限るが、そこから向こうの「癒しのシステム」は果たしてどうなっているのだろうか。
 癒しは創造に優先する…。これは原稿が遅れた言い訳であり甘えであるが、実際それは倒れてみて初めて実感できた事実であり現実でもあった。

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