続「STAP細胞」報道、「科学村」の掟と法の解釈

〜〜〜〜作動するコワい「村社会の論理」と空気呪縛

稲田陽子

 

小保方晴子氏の釈明会見後、マスコミ報道が
方向の羅針盤を狂わせているようだ。
小保方氏は、論文を不正と認定されたことに対し、
理研に不服を申し立てるが、会見ではその根拠となる
「悪意」について釈明、説明した。それによると、
より詳細に「悪意はなく、単純な間違い」であるという
根拠とその経緯を弁護士とともに公言した。
もっとも、説明はこれからさらに深められなければ
ならず、とくに「真の画像」の正当性などは、実験ノートを通して、
理研により合理的な経緯を説明する必要があるのだろう。
このあたりは、今回の不服申し立ての合理的な理由であり、
小保方氏の言う「発言の制限」があったために理研側が十分な説明を
聞く耳を持たなかったのだという不足が解消されることになる。

 

理研の規定を読むなら、小保方氏側の主張も包括している
ように思われるが、会見後の「科学村」の反応を加熱して
伝えるマスコミ報道には、人権という観点からどう判断すべきかと
いう視点はすっかり抜け落ちてしまった印象だ。この筋に同意する
ブログなどは、「お前が犯人だ」とまで言い切っている。
まるで沸騰した湯沸かし器状態のようなものも散見される。
その点、一般市民が小保方氏から受けた印象とは乖離があり、
市民の感覚は、ときにそれほど間違っていないこともある。

 

とくに、設定された会見は、理研が認定した「不正」に対する
不服申し立てについてであり、「スタップ細胞の有無」が論点
ではないのだが、質疑応答ではしきりにその点に集中砲火が
浴びせられることとなった。「スタップ細胞はあるのかないのか、
どちらなのか、いまここではっきり答えよ!」といった
記者の強い要求に応えたカタチで「スタップ細胞はあります!」と
小保方氏は明るく自信を持って明言する。そして、
「実験は200回作製成功」などと、思わず言葉にする。
ところが、これが「科学村」の思うつぼで、
証拠も出さないで、まるで根拠がない、信憑性にかけると、
ここぞとばかりの論点ずらしがマスコミを席巻する。
これこそロジカルな態度とはほど遠いのではないだろうか。

 

たとえ質疑応答の場での発言であっても、いっさい度外視されて
報道されている感がある。この会見の目的ではないにもかかわらず、
ムラ社会ではそこの住人たちの掟が法的根拠よりも優先され、
ともかくもこの問題を「感情的」にしてしまっているのではないだろうか。
現に、理研の「ドン」野依氏は、小保方氏に「激怒している」と
伝えられているから、一層この問題の解決を短絡的にしかねない。
調査委員会に弁護士など法律家を半数は入れてほしいという小保方氏側の
要求には合理性があっても、現時点では跳ね返された状態である。

 

「科学者としてあるまじき行為だ!科学者失格だ!」などと、声高に
倫理を焦点に小保方氏を責めることは非常に簡単なことで、もっとも
感情分野の正当化と満足をもたらす。しかし、それが法的な解釈として
「不正の罪」となるのかどうかは別の問題である。
小保方氏は、その未熟さ、認識不足から酷い過失(共著者の責任も
問われる)を犯しているのにはちがいなくとも、それでも、故意では
なかったとしたなら、「不正」ではない。どんなに科学村の掟(格率)で
許しがたいとしても、理研の「格率」を法的に解釈するなら、断固として
不正ではないと言える。

 

この場合「格率」というのは、その社会単位に通用する掟や通念の
ようなものと解してさしつかえない哲学用語。あえてこの言葉を
引っ張り出すのも、規則のパースペクティブな意味を再確認する必要が
あるからだ。つまりは、どんなに権威やプライドを持っていようが
「格率」は「格率」なのである。全体の中では、相対的なものであり、
絶対論では語れない。
現段階では、この論理が大きく通用するはずである。マスコミは、
まずはそうした認識に基づく手順を間違わないようにしてもらいたいもの。

 

ちなみに、奇想天外な発想と言えば、アインシュタインはどう見ても、
普通の人格や常識とはかけ離れている。先入観のない彼は「科学村の掟」の
話をどう見るだろうか…。興味のあるところである。

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