「ジャーナリストの原点は、夫の生き様が教えた」

〜〜〜〜〜『荒野のジャーナリスト稲田芳弘〜愛と共有の『ガン呪縛を解く』」と私

稲田陽子

『荒野のジャーナリスト稲田芳弘〜愛と共有の『ガン呪縛を解く』」を出版してから、もうすぐ2ヶ月を迎える。実質的には昨年12月の中旬以降に出版 され、記載されている発行年月日、11月11日は夫の命日1月11日にちなんだものだった。メルマガも思うように出せない状況でも、ともかくも出版のこと をお知らせしなければ、本の存在も知ってもらえないので、何とか、12月にメールシステムの整備を業者に頼み、MACからでもメルマガを発信できるように した。こんな風に、HPのリセットは、一筋縄ではゆかないものだったが、何事も原点回帰とベストシンプリシティーを目指し、何とか自分の思いを実践に移し たのである。

そんななか、今日は、夫の月命日、そして、誕生日でもある。いわば、生誕67年というところであろうか。こう書くのも、いまだに、私は、「夫の死」 を信じることができないからかもしれない。いや、その表現はふさわしくはないだろう。私は、人の魂は死なないと思っているからだ。

そのせいか、夫が回帰してからも、夫のテレパシーを強く感じることもあり、また、第三の目の映像でテレビのようにしっかり見ることもあった。また、 夢にも現れるのである。あまりにリアルな夢でいまも鮮明に記憶している。このため、夫がどんなところにいるのかも、解釈することができた。確かに、昼の光 に満ちており、その光は白色に近い。何人かの魂の兄弟?らしき人々も一緒にいた。

おそらく、あちらの世界は物質的に固定されたものではなく、ヴィジョンの世界のように思われる。人々は、現れたり、消えたりするし、私も、思いに従って場所が瞬間的に変わるのだが、少しも不思議ではなかった。

実は、この本を出版するのに、少しためらいがあった。夫は、応援してくれるだろうか。夫がいつも言い続けていた「事実」を書くのを嫌がりはしないだ ろうか。その内容はかなりハードである。だから、書き手の私は、この本を書き上げるために相当なエネルギーが必要だった。夫を、私を取り巻いていたのは、 目を背けたい現実だらけであり、それをあえて、私はじっと凝視しなければならなかった。私は、書きながら、強い義憤、悲しみが再現され、涙を禁じ得ず、何 度も夫が回帰した当初のもっとも悲しい日々に戻らざるを得なかった。

人は、49日を過ぎれば、気持も癒えると思うのかもしれないが、そんなことはない。実際に周囲からは「もう違う世界に帰ったんだから、いつまでも過 去にとらわれないで、自分の人生を生きたらどうなの?」という類いのことも言われたことがある。しかし、これはかなり違うと思っていた。私にとっては、夫 のレガシーを世の中に伝えることが大事な仕事のように思われるからだ。たとえ、何年経とうが、夫は、私には「現在」である。

私は夫の遭遇した現実をどうしても書き残さなければならないと、夫の回帰以来、ずっと考えていた。そのために、英語畑で学んだ私が、文筆業という職業を選んでいたわけでもあるまいが、結果的には、似たようなことになっている。

若い時には、自分の文体を創ることに躍起になりながら、「文章の得意なコピーライター」を内心の看板として人知れず人一倍頑張っていたのだった。だ から、どんな分野の仕事でも、「カメレオン」のようにそれなりにこなすことを心がけていた。私が一目置いていた先輩のコピーライターが、「コピーライター は、小説でも何でも書けるクリエイターだ」というようなことを言ったことがあり、私はその言葉こそが私の目指すところだと自負していた。実際に、コピーラ イター出身の小説家も、当時も珍しくなかった。

しかし、その私に転機となったのは、夫との出会いであった。そのころ、文章が書けても、私には、あまりにたくさんの他者の思考が入り込み、本当の私 が何を考えているのか、分からなくなっていた。というよりは、本当に自分が書きたいことを表現できないのが、コピーライターの限界だと思い始めていた。常 に、企業というクライアントの思いが優先してしまうからである。もちろん「自分の分野だ」と思えるような業種なら問題はないし、クライアントのコンセプト が優先するのも当然の話ではある。しかし、それまでの何千(万)枚という原稿用紙も、「私の思考」を抑圧し「他者の思考」を優先にして書かれなければなら なかった職業だけに、やはり辛いものもあったのだ。

もっとも、広告代理店時代は、社長に「女性プランナー」候補者にはしてもらえていたらしく、7〜8年くらいは我慢していれば、そうなっていたかもし れなかった。しかし、若い私には、プランナーの面白さやその社会的メリットも計算することもなく、ともかくも技量をアップし好きな業種でコピーライターを やりながら、小説を書きたいのだと、焦っていた。広告代理店には、玉石混淆の業種が溢れかえっていたのも気になり、また、まだ若い未熟さゆえに私にとっ て、プランナーになるのは、書き手としての表現者を止めることにほかならないものと映っていた。

夫は、「クリエイティブというのは、プロも素人もないよ。そもそも、プロ、素人と区別するのがおかしいんだよ。人間の生き方から生まれてくるものな んだから。人間学が大事なんだよ」と、一人前に「プロ意識」を畳み込まれて育った私に、臆面もなく言った。本当にクリエイティブになるには、では、どうす ればよいのかと、私は、真剣に悩んだものだった。技術は大事でも、それだけを磨いても片手落ちなのは言うまでもないことだ。

その当時、仕事を離れた余暇に、いざ、何か自分の思いを書こうとしても、「何も書けない」症候群に陥っていた。それなら、中学生や高校生のときの作 文の方が、活き活きと自分の考えを語っていたのではなかったのか。作文コンクールにもよく入選していたことを覚えている。極端なことを言えば、コピーライ ターは、自分の思考から何でも生み出しているように見えて、実は他人(クライアント)の思考をまとめたり、それに基づいて(具体的には感情移入をして)表 現するマーケティングの仕事なのだから、自分が本音として何に感動しているのかすら、忘れてしまうのだろうか。本当は、コピーライターをしながら、小説を 書きたかったのに、いつの間にか自分の中の感動欲求が疲弊していったのだった。これは、「無感動症候群」、でなければ「擬似感動症候群」、あるいは「燃え 尽き症候群」と言えば、少しは想像していただけるだろうか。

そんな私は、夫が自分自身が思ったり考えたりしたことを十分な知識を散りばめて書くノンフィクションライターであり、企画編集者であることを知り、その創作態度の根底に流れているものが非常にクリエイティブであることに感動を覚えていた。

その底に流れている個と自由への意識と彼独自の哲学性は、私の中で疎外されていた自由への憧憬と夢を思い出させるに十分なものであった。

夫の思考には、小手先の分かりやすいものは一つもなく、すべてが原点を想起させ、哲学的で抽象的でありながら、失われていた「私の思考」が自由に元気に動き出すのを感じた。以来、私は、夫から多くを教えられ、学ぶ人生となった。

とくにジャーナリストのスピリットは、否応なく学ばさせられた。夫が内外のさまざまな政治や社会事象そして夫自身の希有な体験を通して私に語ったこ とは言うに及ばず、夫を取り巻いた現実とそれに対し夫がどう認識するのかを私は体験とともに学ぶこととなった。夫は、いつも違う視座を自分の中に存在さ せ、冷徹に見ることは得意技ではなかっただろうか。権力に妥協せず、(山本七平氏ではないが)事実を持って水を指す「ジャーナリスト精神」を愛していた。 それは、夫の知識だけからではなく、体験から醸成されて来たものである。生き様そのものであった。

人間的には慈愛を理想としていた人で、ともかくも社会的な弱者と思われる人には本当に「弱かった」し、優しかったと思う。だから、拙著『荒野の ジャーナリスト稲田芳弘〜愛と共有の『ガン呪縛を解く』」にも書いたように「酒呑童子村」構想も真剣なものであった。ホリスティックな代替医療分野での滞 在型医療にも熱心で、そのコンセプトは夫が発想していたものであったのに、奇しくも、コンセプトだけはどこかに勝手に利用されてしまったのではないだろう か。私は、その顛末を非常に悲しく思っている。

しかし、「酒呑童子村」構想は、お金儲けに利用されるような類いのものではなく、弱者を差別するような人間たちが運営するようなものであってはならないわけで、その意味で「酒呑童子」も、なかなか賢く、人を選んでいると言える。

こうした夫と出会い、ともに人生を歩みながら、私はいつのまにかコピーライターではなくなり、夫と同じ職業に「天職していた」のであった。もっとも 小説も諦めているわけでもない。…ただ、霊感体質の私なので、小説や物語でときに予言を行なってしまうことがあるらしく、書くのを控えているだけである。 (あるスピリチュアリストに小説を書くことを進められたときも、そんな理由で躊躇すると、彼女曰く、「それは起きることが決まっているから起きるだけで、 小説を書いたから起きるのではない」と。ただし、『世の終わりの贈りもの』という短編ファンタジー集では、幸せな余談もある。『恋うた』を読んだ人や制作 に関わった人の中で、40代を過ぎていても独身返上になった人が多かったのが、とても不思議!であった)

さて、プランナーと言えば、実質的には、いま現在私は、自社のプランナーになっていることになる。つまりは、夫が生き方の中からクリエイティビ ティーが生まれるのだと言ったように、肩書きなどどうでもいいことなのだ。現実に必要なときに人は、何にでもなれる。まさに、学ぶべきは「人間学」であっ た。

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