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1999年04月:いまどきの若いもんは……自分勝手考

 「いまどきの若いもんは…」というセリフは、もう何千年も前からつぶやかれてきた嘆きだそうである。要するに大人社会の考え方(常識・価値観)からすれば、若いもんの考え方はさっぱり、まるっきり理解できない。これは、家庭にも学校にも職場にも共通した嘆きのようである。

 自分勝手、無責任、無気力、周囲への無配慮、忍耐不足、不摂生、礼儀知らず、倫理観の欠如等々と、彼らに対して向けられる「嘆き」を数え上げていけばまさにきりがない。もちろんいまどきのすべての若いもんがそうだというわけではないだろうが、一般にそうした傾向がありそうだ。そしてこのことが大人たちに、国家や社会や企業の将来に不安を感じさせることにもなっている。
 大人たちのこの嘆きはいったいどうしたら解決できるのだろう。やっぱりしつけや教育を強化するしかないのだろうか。子供や若者たちをペットや家畜のように調教、訓練し、管理を強め、罰則を設けて大人社会のルールを徹底的に身につけさせていく。もしそこにしか出口がないのだとしたら、これは空恐ろしいというか、寂しい限りだ。

 そんなことを考えていたちょうどそのとき、インドの大学教授、クムクム・バッタチャヤ女史のお話を聴く機会に恵まれた。テーマは「サンタルの村に育って」…。サンタルとは東インドに住む最大の部族の一つで、彼らは文字が読めない、つまりサンタルは文字なき文化の申し子なのである。
 ところで問題は、なぜサンタル族の話が「いまどきの若いもん」につながるのかということだが、結論的にいえば、いまの若者たちが「サンタル化」しつつあるように思えたからである。しかもそのことは不安とか心配というよりは、むしろ好ましいことなのかもしれない。なぜならサンタルの村に育った子供たちは、やがてとても平和で心豊かなコミュニティを形成してゆくからである。

 いきなりこんな結論を出してしまうと、文明否定、社会秩序否定者に見られてしまう恐れがある。そこでこの問題を考える前に、「文字なき文化」の意味するものを考えてみなければならない。つまり、なぜサンタル族は文字を持つことを嫌ったのか。というのも、彼らは文字を持つ能力がなかったのではなく、確信犯的に「文字を持つことを拒否」した経緯がその歴史にはあるからである。

 長い部族の歴史のある時点で、文字というものについて彼らは考えた。「文字を使うと必然的に文書が発生し、文書が発生すると、それを管理する二種類の人間が出現するようになってしまう」と…。
 二種類の人間とは、一つは人々の精神を支配する宗教的な支配者、すなわち司祭や神官、そしてもう一つのタイプは、同じく文書を根拠に人々の暮らしを支配する役人や政治家たちだ。
 さらに彼らは直感した。「文字を使えば文字の一部である数字の呪縛や、すべてを数字に換算するという思想が現れてくるにちがいない」と。
 かくしてサンタル族は文字を拒否することによって「歴史に入る」ことにノーを宣言し、その結果、文明化や経済発展とはほど遠い暮らしを続けてきた。にもかかわらず社会にはストレスがほとんどなく、子供も老人たちも元気そのもの。もちろん階級社会とはまるで縁のない、自由と個人主義による平等社会を実現させているという。

 この話は実にショッキングだ。なぜなら文字、数字、歴史、経済等々は、人類ならではの進化の証であると考えられてきたからだ。だからこそ文明社会の子供たちはまず文字や算数を習い、それを通してさまざまな知識を身につけていく。実際、知識の記憶量が競争に勝つための基本であり、それが秩序あるヒエラルキー社会をカタチづくってきた。が、その果てに「幸せな世の中」は果たして実現したのか。数字や数学を駆使した経済が「豊かな社会」を作ってくれたのか。
 そのことを考えると疑問を抱かざるをえない状況がますます色濃くなっている。だからこそ「サンタルの村に育って」の話が面白く、「いまどきの若いもん」の感覚に興味を抱いたのかもしれなかった。

 バッタチャヤ女史はサンタルの村の人間関係を次のように言う。
 「彼らは個人主義をとても尊重し、お互いに干渉はし合いません。プライバシーは侵されず、頼まれない限り余計なお節介はやかない。子供はしばしば不品行を犯しますが、大人はそのことにそれほど強い反応を示さず、多くの場合は見て見ぬふりをします。というのも分別があればもはや子供ではなく、子供とは不品行をするものだと心得ているからです。もちろん子供に自殺やいじめなど全くありません」。
 かといってみんなバラバラかといえば、決してそうでもないらしい。
 彼らが何よりも大事にしているのはラスカと呼ばれる「ばか騒ぎのスピリット」で、ラスカは饗宴、ダンス、歌、飲酒などを通じて、「楽しいひとときを共にすごす」という言葉と同義という。なるほど、ラスカこそが彼らの人生の目的や意味とつながっているようだ。
 こんなふうに紹介してしまうと「要するに原始的で単純でバカなだけだよ」と一蹴されてしまいそうだが、事実は決してそうではない。
 ちなみに子供たちはお父さんからいろんなことを学んでいくが、自然や環境などに関する知識はどんな学者もかなわないほどすごい生きた知識と大変な量を身体つける。それも食糧や医薬など暮らしに関する知識はもちろん、飢饉や洪水に遭ったときの対処法までも。だから天災などで死ぬ人の数は極めて少ない。彼らは下手な大学教授とは違って、実際に役立つ知識と情報を大量に持っているのだ。
 その意味では、全員が学者であり優れたタレントである。いくら日本の子供たちが必死で勉強しても、彼らの自然に関する知識にかなうはずがない。なぜなら彼らは子供のときから遊び楽しみながら、それを体に刻み込んでいるからである。

 こうして考えてみると、知識とは何か、幸せとは何か、人生とは何のためかといった基本的な命題が、サンタルの村からメッセージされてきていることに気づかざるをえない。
 いまどきの日本の若いもんは「自分勝手、無責任、無気力、周囲への無配慮、忍耐不足、不摂生、礼儀知らず、倫理観の欠如」等々と揶揄されるが、それはあるいは自由より秩序、個人より組織を重視してきた日本システムへの無意識の反逆であり、「生きる」ことの本質的な意味を改めて問い直している歴史的プロセスといえるのかもしれない。実際、大人社会そのものが、いまや「文明化・経済発展の反省」を問われているのではなかろうか。

 またまたラディカルな方向に走ってしまったようだ。しかしサンタルの村にストレスや欲求不満がほとんどなく、子供から老人に至るまですべての世代が楽しく静かで自然で安らかな暮らしを営んでいるというその事実を知らされるとき、高齢化対策や教育対策、景気対策、失業対策、金融対策、犯罪対策等々に振り回されている日本の現実がなぜか滑稽にも思えてくる。
 なぜなら経済や教育や民度などの面で、数字の上では圧倒的に優位にあるはずの文明国家日本が、「幸せ度」に関してはサンタル族に学ばなければならなくなってきているようにも思えるからだ。それもたぶん「幸せ度」は決して数字には換算も還元もできないからであろう。それは個人が自分の内側に感じるものであり、それも自由度が大きく左右することになる。
 「自分勝手=自由」と「社会の秩序=安全」は常に綱引きをやってきた。
 しかしサンタルの村には、どうやら「自分勝手=自由=社会の秩序=安全=幸せ」という方程式があるらしい。そしてその根っこにあるものは「おおらかさ」のようだ。日本がもしもこの方程式を実現できないとしたら、サンタルの村に移住したい気さえする。

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