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1999年08月:「サッチー騒動」に見る世紀末の「空気」の研究 | 稲田芳弘コラム
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1999年08月:「サッチー騒動」に見る世紀末の「空気」の研究

 世紀末の日本に「サッチー・ミッチー騒動」が沸き立っている。
 人の噂も四九日どころか、すでに四カ月目に突入した。ヒマと言えばヒマだし、平和と言えば実に平和な話である。それにしてもこの騒動はなかなか面白い。
 最初はのぞき趣味程度のスタートのようだったが、最近ではなんやら、哲学めいたコメントも飛び出すようになってきた。

 「不安と自身喪失の時代にあっては、はっきりと確信を持ってモノを言う人、つまり自信家が引力を有するんですよ。それがかつてのサッチー人気の社会的背景としてあったと思います。ところがその確信の根が腐っていたことが分かってきた。そこで世の中の空気が一転したというわけです」
 なるほど、哲学的だ。こうして芸能界から政治家、評論家、学者と、この騒動に巻き込まれる人々が増えていく。そのうちに科学者や宗教家たちまで次々と巻き込んでいくのかもしれない。

 この騒動を見ていてぼくが面白いと思うのは、「空気の研究」にもってこいだからである。これはもうサッチーとかミッチーといった個人の問題を超え、空気社会日本の姿を丸裸にしてくれている。
 この騒動のポイントは「空気が変わった」ことであり、その結果サッチーは天国から地獄に墜落することになった。「空気」がサッチーの評価を逆転させてしまったのだ。
 この大逆転劇をまのあたりにして、サッチーはきっと目を白黒させているに違いない。つい四月までは人気絶頂でTVの視聴率稼ぎの女王として君臨、だからこそTV出演や講演依頼も相次ぎ、参議院候補としてプロポーズすらされた。それなのに、それがある日のミッチーの一言で、一挙に逆転してしまった。こうなると全てにケチが付き出していく。それまで味方だったはずの空気が、いまやすっかり敵になってしまったのだ。

 空気が変わった。そう、それまではサッチーを押し上げてくれていた空気が、ミッチーの一言であっという間に変わってしまった。いったいなぜそうなったのか。何が空気を変えてしまったのか。
 空気を変えたのは、「事実」であった。ミッチーが「迷惑を被った事実」をTVでコメントしたとき、そこから空気が変わり始めたのである。

 『空気の研究』の中で、著者山本七平氏は、以下のように述べている。
 ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊する。
 その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人々を現実に引き戻す。

 これは二二年前の言葉だが、まるでいまのサッチー騒動にコメントしているようではないか。
 そう、空気は昔も今も日本の社会を不気味なまでに支配し、時として空気が恐ろしい竜巻に成長していくこともある。かつての戦争も空気に煽られて発火したものだったし、あの狂気のバブルも空気で発生してはじけ飛んだものだった。空気は人々を呪縛して極限まで上昇し、水を差されることによって一挙にしぼむ。空気の横暴に水を差すのは、常に目の前の具体的な事実なのである。

 日常的な「空気と水」の体験を、きっと誰もが持っているはずだ。
 例えば、気のあった仲間同士で夢を語りロマン膨らませる。話はどんどん発展し、徹夜もまた楽し。まるで夢が実現したような気分で浮き立っているところに、誰かが一言静かに口をはさむ。「しかし、先立つものがねぇ…」。
 この瞬間、すべてがしぼむ。沈黙が続く。しかり、現実は厳しいのだ。先立つものがない。その事実が突き付けられたとき、空気が崩壊する。
 空気と水の関係は、天と地の関係のようだ。
 空気は上へ上へと昇り、水は下へ下へと流れる。重力と浮力だ。理想と現実だ。いずれも必要なものであり、いずれもバランスが不可欠。人が生きるためには、空気も水も大事なのだ。
 仲間たちのロマン(空気)程度なら、先立つものの一言(水)ですぐ現実に戻ることもできるが、社会や組織の空気の場合には、そう簡単には水(事実)が利かない。いったん社会がある空気に呪縛されてしまったら、いくら真剣に事実を示しても無視、拒絶、排除されてしまうのだ。

 それは戦争のときにも起こったし、バブルのときもそうだった。無謀な作戦である事実がはっきりしていても、その場や社会の空気がそれを拒否、排除した。それどころか、事実を示して水を差した者、すなわち空気にはむかった者は、非国民と呼ばれ、村八分にされ、あるいは臆病者と呼ばれ、窓際に追いやられた。
 いざ空気が集団を支配してしまうと、事実が事実として受け止められなくなる。空気が宗教的な絶対性を帯びて、すっかり人々の心を支配する。ここに空気呪縛の怖ろしさがある。
 一般論としての空気はともかくとして、企業にも絶えず空気が発生する。
 例えば会議。会議の場の空気を左右するのは、多くの場合、ボス自身である。ちなみに社員からある提案が成されたとき、みんなはまずボスの顔色をうかがう。提案の内容を自分の頭で評価しようとする前に、ボスがそれにどう反応しているかをチラリと見るのだ。
 そして、もしボスがそれに乗り気のようだったら、すかさず提案をヨイショするコメントを述べ、もしボスが嫌な表情をしたら、「しかしねぇ」と提案にケチを付ける。発言の内容はまさにボスの顔色しだい。こうしてボスの作り出す微妙な空気が、あっっという間に会議の空気を決定してしまう。
 会議の空気が決定されてしまえば、空気に支配されて、みんなからどんどんその空気をさらに強化する言葉がほとばしり出る。空気に乗ったほうが利口なのだ。そんなときにわざわざ数字や事実を示して水を差すのは野暮であり、その人は決まってみんなの冷たい視線を集めることになる。いくら事実を事実として示したとしても、空気に逆らって水を差すやつは異端児とされるのだ。
 少なくても、かつて集団主義で何かを決めたときはそうだったに違いない。
 重要なことはほとんどその場の空気で決まっていた。その空気はボスが作り出すこともあったし、世の中の空気が会議の場に侵入して支配することもあった。が、その多くはやがてはじけ飛んだ。いまどんどん破綻しつつあるテーマパークやリゾート開発、第三セクターなども、たぶん空気の犠牲者なのだろう。

 ところで、いまの時代を支配する空気とは何か。空気は何をしようとしているのだろう。空気と水のバランスを考えるとき、ぼくには水(事実)が社会を重々しくしているように思える。その事実とは、倒産、リストラ、失業、借金、自殺等々が身の回りで起こっているという事実である。
 だからこそ空気が、厳しく重々しい事実とバランスをとろうとして、無理矢理大きく膨らもうとしてきたのかもしれない。暗い事実など見たくもない。嫌な話など聞きたくもない。そんな空気が発生して久しく、それがいまや人々を呪縛するまでに成長しているのではないだろうか。
 そんな中で、あるいはサッチー・ミッチー騒動も起こってきたのではないか。サッチー騒動に目を奪われてさえいれば、嫌な現実を見なくて済む。不安な事実を忘れることもできる。その意味で、この騒動がいまや人々の心の安定剤になっているのかもしれない。
 しかし事実は、やがて間違いなく空気を打ち砕く。実際、サッチーも事実を突き付けられて墜落した。人気が不人気に変わり、引力が斥力に変わり、空気の浮力が失われて重力で落下した。
 バランスをとることは必要なことだが、暗く厳しい事実をあまり隠そう隠そうとしていると、日本もそのうちに、無理矢理膨らませた空気が破裂して落下することになるかもしれない。

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