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2000年03月:腐敗物をも美酒に変えてしまうマジック | 稲田芳弘コラム
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2000年03月:腐敗物をも美酒に変えてしまうマジック

 学生時代、数ヶ月間川崎のドヤに泊まって、製鉄所で肉体労働をしたことがある。高度経済成長期のド真ん中、その頃の日本の未来には果てしない夢が広がっていた。
 まもなくドヤの住人たちと仲良くなり、汗まみれの仕事が終わったあと、酒を酌み交わしながら楽しく語り合った。
 外から見るドヤの世界は社会のはみ出し者の吹き溜まりそのものだが、いざ付き合ってみると、そこには実にいろんな人々がいる。大新聞社の元社長秘書、有名会社の元社員、また出稼ぎに出てきてそのまま居座った者もいれば、なかには出獄間もない前科者や、天涯孤独の老人もいた。
 Yという老人は歴史学者顔負けの知識人?だった。汚くて狭い部屋の万年床の周りには、歴史の資料がびっしりと山積みされ、いざ語り出すと話が止まらない。これまた講談師顔負けの、わくわくする歴史物語がいつまでも続いた。こうして住めば都、ドヤはそれまでには味わえなかった楽しい出会いの「人生市場」と化していった。

 楽しいことばかりでもなかった。ボロ服をまとって道ばたに座っていると、通り過ぎる人々の視線が心に突き刺さってくる。明らかに軽蔑の眼差しも注がれる。現場で作業をしていても、入社間もない若い社員らの視線が冷たい。さもあらん、向こうは一流企業のピッカピカの正社員、こちらはその下請けの孫請けの、ピラミッドの一番下のただの肉体労働者だったからである。
 作業現場では時々事故も発生した。ケガをする者も出れば、場合によっては死者も出る。が、その多くはそのまま事務的に無縁仏の終着駅へ。活気に満ちた日本の工業化は、そんな犠牲者を数多く飲み込みながら進められていった。
 若い日のそんな経験から、人を外見だけで判断してはいけないと思った。大企業の舞台裏では、たくさんの企業や人々がひしめいている現実も知った。そして○○教授などといった名刺を受け取ったりすると、ふとあのY老人のことを想い出す。彼は肩書きのゆえでも仕事のためでもなく、興味赴くまま歴史の隅々まで逍遙し尽くしたのだ。それが純であり、質高い語り部だっただけに、彼に学んだ歴史の面白さはいまなお深く心に染み付いている。

 ひるがえって昨今を考えてみるとき、「深い出会い」はなかなか味わえない。
 会社や仕事はさまざまでも、質的にはいずれもほぼ同じような領域で生きてきているからだ。しかしあのドヤには流れ者の自由があり、魂を素直に裸にできる潔さがあった。だからこそ人生浮沈の妙を考えることもでき、異端者・変わり者・はみ出し者を理解することの喜びもあった。
 つい郷愁じみた書き方になってしまったが、ドヤでのあの体験は「人のにおい、人生の匂い」を嗅ぎ取ることのできた日々だったような気がする。そこにはまぎれもなくある種の匂いが漂っていた。
 が、いまや「におい」は「臭い」とされ、無臭・無菌状態の清潔志向が社会全体を支配するに至っている。匂いは本来「存在そのものの証明(個性)」であるはずなのに、匂いを消し、臭いを誤魔化す技が横行している。

 さらに言えば、「匂い」は「臭い」と同義になってしまったのかもしれない。
 個性丸出しで気ままに付き合ったりしようものなら、臭いやつ、胡散臭いと敬遠されてしまう社会がいまなおあるからだ。
 ちなみに集団の中では目立ってはいけない。出る釘はやがて打たれ、爪を見せるタカはいじめに遭う。そして組織や集団に求められるのは「和を以て尊しと為す」こと。あくまでも全体の和を保つそのことのために、勝手に特殊な匂いを放ってはならないのだ。
 にもかかわらず、ぼくは「匂いの復権」を強く願いたい。匂いに疎くなっては鼻が自由に利かなくなるからのこと。なるほど、みんなが同じ匂い、それも心地よい香りの中にあれば、そこはある意味で安全で快適な空間かもしれない。が、微妙な匂いを嗅ぎ取って楽しむ能力を失ってしまうと、そこではもはや「和」のために「排除」するしかなくなってしまうからである。

 そもそも宗教戦争や民族紛争、セクト主義といったものは、他者に異臭・悪臭を感じる感覚から起こるのではないだろうか。もちろん安全を守るために異臭を嗅ぎ取る能力も必要には違いないが、ともすれば個性や価値観や文化の違いが「くさい」とされることもある。それはほとんど生理的なものにして、条件反射的な反応である。しかし自らの嗅覚ダイヤルを微調整さえすれば、異臭と感じていたものも、逆に芳しい匂いに変わりうるのだ。

 このことも、またドヤ体験から得られたものであった。見るからに普通の市民とは異なり、素性も性格も分からない住所不定の流れ者ともなれば、そこからは嫌な「臭い」が立ち昇ってきて当然だろう。実際、多くのドヤ暮らしやホームレスたちは、普通の市民から「臭い」と嫌がられる。なるほど風呂にも入っていないのだから、多少臭いのは確かだ。だが、この場合の「臭い」はそれとは全く別の理由で感じられていることが多い。
 しかし、いざ彼らと心を開いて付き合ってみると、不思議なことにそこからはとても香しい匂いが感じられてくる。たとえ汗まみれ、垢まみれの身体ではあっても、彼らの放つ匂いは個性そのもの、そこにはユニークな人生の香りがする。
 これは、親近感や好感を覚えたがゆえのことかもしれないが、「臭くて胡散臭く思える彼ら」はそこにはない。嗅覚ダイヤルを調整さえすれば、人間それぞれとも個性の香りを放っていることに気づくことができるのである。

 逆もまた真なりで、それまでは好感を覚えていた者が、急に嫌な臭いを放出することもある。気品の感じられたはずの香水が、吐き気をもよおす悪臭にも変わりうるのだ。その理由はただ一つ、「好嫌」が突如切り替わったからであろう。それくらい臭いというものは不確かであり、主観的なものなのである。

 天国とは辺り一面花々が咲き乱れ、とても良い香りがするところと言う。
 実際に行ってみたわけではないので確かめようもないが、この場合の感覚は、視覚よりもむしろ嗅覚に重点があるような気がする。
 そう、すべてのものにいい香りが感じられるようになれば、そこはまさに天国なのだ。そして天国を味わうためには、嗅覚ダイヤルの微調整が必要になってくるのである。

 と、ここまで書いて、二〇〇〇年という年の匂いをそっと嗅いでみた。
 社会に渦巻く重々しい不安感や、犯罪、事故、不景気、スキャンダル、失業率、環境問題、国家・会社・個人のサイフ具合等々、そこからは決してそれほどいい匂いが香ってくるわけでもない。
 が、注意深く嗅覚をチューニングをすれば、微かに変化の方向が嗅ぎとれる。時代の風にも匂いがあり、それはどうやら大らかな天空から流れてきているようだ。
 大らかさ…、ミレニアムの大変化の時代には、大らかに生きていくしかないような気がする。焦ったり苛立ったりしては異臭が気になりすぎるからだ。
 その逆に、大らかに生きさえすれば、嫌な腐敗臭も発酵の香りになりうる。それはあたかも微生物が作る酵素のように、腐敗物をも美酒に変えてしまうマジックを発揮してくれる。腐敗と発酵とは、ほんのわずかなチューニング具合で分かれてしまうのではなかろうか。
 それにしてもドヤの日々の香しさよ。保証のない空白の明日を抱えながらも、今という時をを精一杯生きたY老人たちに、ぼくは人生の本当の楽しさ、面白さを教えてもらったような気がする。

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