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2000年11月:「諦職者」たちと、ノーベル環境賞?! | 稲田芳弘コラム
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2000年11月:「諦職者」たちと、ノーベル環境賞?!

 友人の会社が、いまたくさんの「失業者」たちの身の寄せ場になっている。いや正確には、まともな仕事から見離された人々(諦職者?)の吹き溜まりと言うべきだろう。失業者と諦職者…、両者はいったいどこが違うのだろうか。
 27歳のA君は子供の頃の病気の影響で思うような仕事ができず、これまでに一度も正規の社員になったことがない。いわゆる親のスネをかじり、フリーターとして適当に食いつないできた一人だ。
 62歳のBさんは失業してからもうかなりの年月が経つ。最初のうちこそせっせとハローワークに通い続けたものの、いくら捜してもなかなか納得のいく仕事が見つからない。いたずらに職捜しを続けても、交通費と時間と体力を浪費するのみ。そこでついに諦めて友人の会社に身を寄せている。
 59歳のCさんはほんの少し前までは会社の社長さんだった。が、倒産と破産のダブルパンチで生きる意欲もそがれてしまった。そんなとき友人に出会い、ハローワークには無縁のまま、毎日友人の会社に足を運んでいる。そこに出向けば、少なくてもストレスが軽くなるからだと言う。
 ほかにもたくさんの諦職者たちがいる。いったいなぜ彼らは友人の会社に集まるのだろうか。理由は、友人の会社に仕事があるからではない。そこにあるのは、ただ自由気ままに過ごせる空間だけ。そう、実は友人の会社もまた、不況の影響を受けて広いオフィスに閑古鳥が鳴いているのだ。
 そして重要なことは、彼らは「失業者」としては認められていないということだ。というのも、失業者とは真剣に仕事を捜していながらも仕事が見つからない人のことを指す言葉で、「仕事捜しを諦めた人」はもはや失業者には数えられない。要するに、ハローワークから遠ざかって縁のない人は失業者ではない。また、たとえハローワークに通ってはいても、月に数日間仕事をすれば、彼はもう失業者には数えられないのだと言う。
 こうして「失業率」の数字には、求職活動を諦めた人は含まれていない。しかし現実には、仕事探しを諦めざるを得ない状況がどんどん色濃くなっている。それは特に中高年層に顕著で、たとえ運良く就職できたとしても、そこには過酷な労働が待っている。過酷というのは肉体的というより精神的なものらしく、早い話、人格がずたずたに引き裂かれるような惨めな思いもするそうだ。
 だとしたら、仕事捜しなど諦めて、気楽な時間を過ごしたほうがいい。ということから友人の会社に大勢の「諦職者」たちの足が向くのである。
 その友人、本業のかたわら、さまざまなボランティア活動を指揮している。たとえば解体される運命にある建物から、再利用できるものを取り外す作業など、あまり人のやりたがらない作業を、たっぷり時間のある失職者たちといっしょにやっているのだ。
 つい最近では築十年のビルから、たくさんのキッチンセットや照明器具、ドア、暖房器具などを取り外した。もし取り外さなかったらビルは重機で打ち砕かれ、立派に再利用できるものも産業廃棄物として埋め立て地に運ばれ、挙げ句の果て土や水を汚すものとなる。つまり、まだ使えるものをゴミとして捨てずに再利用するために、彼らはボランティアをしているのである。
 この図は、どこか悲しく、どこか滑稽だ。しかも鋭い警告を秘めている。なぜなら、そこには廃棄物(ゴミ)に対する深い洞察があるからだ。と同時に、失職者ではあっても社会的廃棄物ではない…という誇りもそこからは感じられてくる。
 実際、地球環境にとっては、彼らの行動にこそ価値があるというものだろう。大量生産、大量消費、大量廃棄という環境破壊サイクルに、彼らは新たな出口を作りだしているからである。
 東京都のゴミの最終処分場を巡って、大きな騒動が持ち上がった。こうしたニュースを耳にするたびに、やりきれない気持ちになる。というのも、「ゴミを出し、ゴミを捨てる」という方程式をそのままにして解答を得ようとしているからだ。
 ゴミとはいったい何か。それは、不要なもの、役に立たないもの、邪魔になるものということだろう。しかし生ゴミをカラスがあさるように、人間にとって不要なものも、カラスにとっては大事なエサだ。つまり、要不要は決して絶対的なものではなく、自然界ではそれは互いに連鎖し合っている。大事なことは、不要なものを、それを必要としているところに手渡してあげることだろう。
 シツレイ、例が悪かったようだ。生ゴミをカラスに与えよ、というのではない。誰かが不要と思っても、それを必要としている誰かがきっとどこかにいるということだ。ちなみに友人が取り外したキッチンセットは、それを必要としていた人にちゃんと無料で手渡された。無職のボランティアたちは、「ありがとう!」という笑顔に接して、「ボランティアに参加して良かった!」と心から思う。そのとき彼らの顔は輝いている。
 要不要のつながりが作り出す絶妙のバランス、それは自然生態系の作用そのものである。すなわち、動物が吐き出した不要の炭酸ガスを植物が必要とし、また植物が不要の酸素を吐き出してくれるからこそ私たちは生きることができる。落ち葉や糞尿もしかりで、それは決して地球にとって不要なものではない。
 にもかかわらず、企業や組織が吐き出した「不要なもの(者&モノ)」を、社会もまたいっしょに不要扱いにする。これではバランスのとれたエコロジカルな社会は実現しない。そして、このいびつなシステムが、いまの日本社会を覆う不安の根として伸びているのではなかろうか。
 ある社会学者は、仕事には男性型の仕事と女性型の仕事があると言った。前者は工業など、効率よくモノを造り出すお金になる仕事であり、後者は看護や癒しなど、効率やお金とはあまり縁のない仕事である。この両者を同じ物差しで測ることはできないが、両者はバランスされなければならない。つまり、ビルを造る会社の社員が食えるのと同じように、ビルから再利用できるものを取り外す作業をする人たちも、等しく安心して食えるようにならなければならないのだ。
 しかし現実は、両者の間には雲泥の差があり、前者は社会的勝者、後者は敗者と見られている。が、異性の交わりから新しい命が生まれ、動脈と静脈があって血液が循環するように、人間社会もまた異質な者たちの多様な生き方のバランスシステム(エコシステム)こそが必要なのだ。
 というのも、これからいよいよ大失業時代の幕が開くように思えるからだ。いや「失業」ではなくて「諦業・諦職時代」の幕開きだ。企業では効率化を目指すリストラ旋風が一段と激しくなり、IT革命もそれを加速する。そうなったとき、企業から不要と言われた者はどうしたらいいのだろう。東京都もそれこそ今度は、「諦職者の最終処分場?」をどこかに探し出さなければならなくなるにちがいない。
 友人たちのボランティアを見ていて思ったこと、それは、ゴミとされるものの多くは決して邪魔で無用のものではなく、生かしさえすれば立派な宝物ということだった。それどころか「ゴミなるもの」を宝物に変えてしまう彼らの行動は、地球環境から見ればむしろノーベル賞ものであろう。
 20世紀のノーベル賞というのは、環境破壊のシンボルでもあるダイナマイトから芽ばえてきた賞だが、21世紀のノーベル賞には「ノーベル環境賞」が加わってほしい。それこそが20世紀的社会のつけ(ゴミ)を解決するものだからである。
 友人のところに身を寄せる方々は、失業や倒産という人生の危機に直面して開き直った。それまではお金だけを見つめて生きてきたのだが、いざ開き直ってみると別の風景が見えだしてきたのだ。
 危機に直面したときに重要なのは、ファーストアクションだと元ブルーインパルス(曲芸飛行野郎)の別な友人は言った。つまり、頭で考える以前に条件反射的に適切な行動がとれるということだ。最初の行動が間違っていなければ、生き残ることができるが、逆に、間違ってしまうとボタンの掛け違いで被害は甚大なものになる。雪印事件などはまさにその格好の例であろう。これまでのファーストアクションはお金を目指すことだったが、21世紀はそうであってはなるまい。エコロジカルな感覚こそ求められるのではなかろうか。

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