第三章 はるかの家と友人 その3

午後6時35分の列車で来るに違いないと考えて、はるかは駅に友人を迎えに行った。駅舎の待合室には数人の乗客がいるだけで閑散としていた。夕暮れの街には電燈があちこちにつき始め、西の空は茜色に輝いて森のはずれに日は落ちようとしていた。やがて網走行きの機関車が前灯を点けてホームに入って来た。列車の窓は茜色に反射をしている。乗降口が開くと、数人の乗客の後に二人の女子学生が勢いよく降りて来た。
「やあー!はるか、今着いたよ。元気?」と、手を振りながら改札口に近づいてきた。ハイキング帽子をかぶり、白のブラウスの上にはベストを着込んで、ズボンをはいている。そんなハイキングに行くようないでたちにかに族といわれるスタイルの横長のリュックを背負っていた。二人は全く同じ格好をしていた。代わるがわるはるかに声を掛けた。
「ユリ、マリ、途中無事だった?東京からは丸一日がかりだからね。疲れたでしょう?」と、はるかは二人を抱きしめた。
弟子屈の街は、夕暮れが増していた。どこからともなく湯の香りが流れてきて、薄い闇を包んでいる。はるかは二人に、
「あの角に在る2階建てのくすんだ一階で義父は歯科医院をやっているの」と、指をさした。医院に電燈はついておらず、もう帰宅したらしい。
「弟子屈は温泉の町なのよ。今渡っている橋は晩翠橋、川は釧路川で、屈斜路湖から流れてきているの。きれいな流れでしょう」と、さらに説明していき、
「川沿いを右折して少し行くと自宅よ。あそこにひまわりが咲いている庭があるでしょう」と、追加した。夕暮にひまわりの花が咲いているのが見えた。ひまわりの花が好きなはるかが、自分で春先に植えたものだった。自宅の居間には電燈がついて義父が先に帰っていた。食卓には4人分の皿が並べられ、ガスレンジが置かれていた。二人の同級生は勢いよく玄関に入り、居間に来て加藤医師に挨拶をしてから、はるかの部屋で荷物を降ろして、旅の煙で煤けた顔を見直していた。
「二人は最初にお風呂に入ってください。家は温泉を引いてあるので、何時でも入れるけれどね」と、はるかはマリとユリを促した。
「温泉つきのお風呂なんて素敵ですね」と、二人は旅の汗を流すことにして先に入浴をした。
「二人分の浴衣を用意してありますからね。好きなほうを使ってくださいね」と、はるかは声を掛けた。若い二人が風呂を終えて髪をとかし居間にはるかと共に席に着くと、華やいだ空気が広間を占有した。加藤医師はいつもと異なる雰囲気のために気持ちが高揚していた。三人を見渡しながら、巧はこんなことは一度もなかったことを思い出し、感激して涙が溢れてくるようだった。声を詰まらしながら、
「はるばる遠い所をご苦労さん。はるかを尋ねてくれて有難う。弟子屈と摩周の景色を堪能していってください。日本一の景色ですから」と、乾杯のビールコップを持ち上げた。彼女らも少しはビールが飲めるようであった。すき焼きの鍋が温まり、肉が煮えてくるにつれ、三人のおしゃべりが元気よく始まっていた。
「昨夜8時に上野を出た青森行きの急行は殆どがカニ族の学生で、私達の乗った急行十和田も半分は学生だったのよ。車内は遅くまで歌声喫茶みたいなものでした。そのために半分は睡眠不足なの。連絡船の中でやっと眠ることが出来たのよ」と、丸い顔のユリが肉をほおばりながら言う。
「私はね、ユリ、見ていたでしょう。会社員が横に座っていたでしょう。色々話しかけられてね、どこの大学だとか、何を勉強しているのだとか、文学部で将来何を目指しているのかと聞かれてね。適当に返事していたわ。幸い途中の駅で下車して行ったけど、何で身元調査みたいなことばかり聞くのでしょうね」と、マリは口をとんがらせた。マリとユリの二人はどことなく似通っている所のある女の子で、はるかのような女性らしさを感じさせないところがあった。
「それで二人にとっては北海道初めてなの」と、巧は聞いてみた。
「初めての経験です」と、二人は口をそろえた。
「北海道の様子はどうですか、汽車から見た風景の感想は」
「そうですね、急行が函館を出て大沼沿いに走っている時の駒ケ岳は素晴らしいです。羊蹄山も北海道らしい景色ね。それに、広々とした空知平野と石狩川の流れ、滝川からの空知川、富良野から見た十勝連峰の山並み、それから狩勝峠から見た十勝平野の広大な広さ、新得を過ぎた頃から見える日高山脈もすごいわ。帰りには札幌に寄る心算だけれどね。今日は一日汽車の窓から外を眺めていたの。おかげですっかり日に焼けてしまったわ」と、マリが北海道の印象を語り出した。彼女は山登りを趣味にしていた。巧はマリの自然の描写は素晴らしいと思った。巧は、絵を描くこともあり、自然を見る目は確りしていると思っている。マリが続けて語った。
「列車が帯広を過ぎる頃は本州にはない風景があると思います。畑はどこまでも広く耕されていて豊かな感じがするのね。それが釧路に近くなると、低い雑木林が多くなり、草原が広がっている。釧路で乗り換えて釧網線に入ると、根釧平野が果てしなく広がっているようで、別世界に来たようです」
話を聞いて、巧は、彼女達がよく北海道の景色を見ていることに感心していた。
「あのね、帯広からバスで阿寒、弟子屈経由川湯行きに乗ると、3時間くらいで来れる方法もあるのよ。別な景色を楽しめるけれど、途中阿寒湖を見ることが出来るのです。道路は舗装されていないために、少し乗ると大変ですけれどね」と、言うと、はるかは道東の地図を出してきて広げた。
「明日はね、ここ弟子屈から摩周湖に行き、摩周湖を見学してから川湯温泉、それから屈斜路湖を見て美幌峠に出て、それから戻るコースを予定しているのよ。見学する所は沢山ありますから、退屈しませんよ」と、はるかは二人に説明した。
「砂湯は、屈斜路湖の湖畔に温泉が湧いている所があるの。そこで温泉に入れるわ。昔、屈斜路湖の湖底噴火が起きてから魚はいなくなってしまったのだけれど」
「露天風呂ね、湖畔のそばにあるの?」
「そうなの、入る気になれば入れるよ」
「それは面白そうね、裸では駄目ね」
はるかは、ビールを少し飲んで頬を赤らめ長いまつげをぱちぱちすると、微笑みながら行く先のポイントを二人に示した。巧は、東京で三人の大学生活はどうなのかを聞いてみたかった。
「三人は、そろそろ3年生で来年は卒業でしょう。卒業の準備は立てているのですか」と、野暮ったいことを聞いてみたかった。はるかは、
「卒論のことはあるけれど、大体決めてあるの。英文学の中のある小説家を取り上げようと思っているの」と、真面目になって答えていた。
マリは、
「私は未だですよ。来年初めに計画を立てようと思っているの。間に合うよ」と、鷹揚に答える。
「ユリさんは何を?」と、はるかが声を掛ける。
「私は未だ何にも考えていません」けろりとして返事をした。彼女達それぞれの思惑があることが巧には判った。七輪の火が手ごろな強さになって、鍋は湯気を上げていた。
「すき焼きはどんどん食べてね。未だお肉はどっさりありますからね。はい、卵を上げます」と、はるかは二人のために肉を取って、代わりに新しい肉を鍋に入れた。がやがやとおしゃべりが続いていたが、不意にマリが巧に、
「はるかのお母さんはどうしたのですか。はるかからは戦後間もなく亡くなったと聞いていますが?」と、尋ねた。はるかは、義父の養子であることについて詳しいことは級友には話してはいなかった。巧は、頭を下げ眉間には緊張した皴を寄せて、はるかの方を見ながら話し出した。
「実は、はるかの母は戦後、昭和25年にここ弟子屈の国立弟子屈療養所で亡くなったのです。はるかのお父さんは、私の親友の小松望と言います。戦死したのです。だから、はるかの氏名は小松です。東京の大学を予定より早く中退して、望は土浦航空隊に入隊し、私は望より2年遅れて航空隊に入ったのですが、はるかの父はそのとき戦闘機乗りとして練習していました。その後、特攻隊に組み入れられ、多分鹿児島近くの鹿屋に転属になりました。そこで、望に昭和20年3月20日特攻出撃命令が出て、そのまま帰らぬ人になってしまったのです。私が航空隊で
訓練中に戦争は終結したのです。戦争へ出撃の命令が出ずに終戦を迎えてしまったのです。はるかの父、望は戦闘機の操縦はすごく優秀だったそうです。だから、早く戦闘機に乗れたのかもしれません。
 戦友、望の妻がはるかの母なのです。木村美紗子が名前です。鹿屋に転属するときに望ははるかの母、美紗子と結婚式を挙げたのです。昭和18年11月3日でした。私とたった3人でした結婚式だった。望は私の大の親友でしたから、特攻に出る時に『もし自分が帰還しなければ後を頼む』と、言い残して行ったのです。私は親友との約束は守らなければと考えておりました。戦後、私は大学に戻り一年余り歯学の勉強をやり直してから、北海道の静かな町を求めて弟子屈にたどり着いて開院したのです。はるかの母は終戦前に札幌に戻ったのですが、両親をなくし、自分も結核になり、はるかを連れてここ弟子屈に昭和二十二年に来たのです。弟子屈に結核のための療養所ができたので、入院して治療をしていたのですが、結核には勝てなかったのです。今は肺結核もいい薬が出来て治癒させることが出来るようになっていますが、当時は安静しかいい薬はなかったのでね」と、巧は、寂しそうに目をしばたたかせて二人を見ていた。はるかは、そばで静かに目を伏せていた。
「それは悲しいお話ですね。戦争は嫌いです。結核も。はるか、そうだったのですか…。あなたは余り自分のことを話さないものね」二人は涙を浮かべていた。
「あなた方お二人も確か5歳くらいの時に戦争が終了したのだから、何も記憶にはないでしょうが、二人はどこの生まれなの?」と、巧は二人に尋ねた。
「私は長野の松本です」と、マリは答えた。
「ユリさんは?」
「私は岡山の田舎です」
「そうですか。二人とも戦争の惨さや残忍さを余り見てはいないのだね。岡山は広島に近いから噂は聞いていると思うけれど」と、巧は独り言のように呟いた。
巧の心の中には言い表せられない寂寞とした青春の苦しみが湧いてきていた。ビールを飲み干した。もう一杯はるかは義父のコップに静かに注いだ。それを一気に飲み干して、巧は急に意を決したようにかしこまりながら口を開いた。
「実はね、うーんと、私の青春時代の経緯をまとめて書いたのを本にして出したのだよ。これははるかに断わっておく方が良いのではないかと思っているのだが。はるかのお母さんのこと、戦死したお父さんの望のこと、はるかのことが書いてあるのでね」と、三人の前で巧は立ち上がり、机の上に重ねられている書籍の上から三冊の本を取り上げた。
緑色の表紙に摩周の絵が描かれ空の余白部分に『はるかな摩周』とタイトルが書かれていた。暫くの間、四人は声もなく沈黙していた。外は静かな暗闇で蛙の鳴き声がかすかに響いていた。巧は、立ち上がり窓辺に行きテラスの戸を開けると、釧路川のせせらぎが聞こえてきた。はるかの植えたひまわりの花が静かに揺れていた。その時が来たのだ。私とはるかの母と望みのことを記録した青春の貴重な記録を、はるかに知らせる時が来たのだと思った。気を取り戻した巧は、一つ質問があるのだけれどと、三人を見渡した。
「みんな、彼氏はいるのかい」と、明るい声で聞いてみた。すると、三人ともに口をそろえて、
「そんなものは、おりませんわ」と、陽気に答えた。
 食事が終わり用意してあるケーキを出し、コーヒーを入れる。4人思い思いのペースでコーヒーを啜りながら、満ち足りた気持ちに浸っていた。壁には巧の描いた100号の摩周湖の絵がある。紺碧な水面と蒼空の青が深い悲しみをたたえていた。はるかは、いつの間にかピアノに向かい、ショパンの夜想曲を弾き出していた。憂いを込められたこの曲を久し振りに聞いた。
その時急に、玄関に置かれた電話のベルが響き渡った。

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第三章 はるかの家と友人 その2

昭和21年の夏、はるかの母は重い結核に罹っていることが判った。近所の医師が診察して、胸部写真を撮らずに聴診器だけで肺結核であることを指摘した。はるかの本当の父は戦争で戦死したので、母は幼児のはるかをつれて東京から昭和20年3月に札幌に疎開してきていた。母の両親は札幌に住んでいた。終戦後、母は小学校の教師になる予定だったが、病気のために叶うことがなかった。祖父祖母も昭和20年と21年と続いて他界してしまって身寄りが誰もいない状態になっていた。困り果てた母、美紗子は昔、東京の学生時代に知っていた加藤巧歯科医師が弟子屈に住んでいることを頼って、22年の春に両親の菩提ほか一切すべてを整理し、丸一日以上の汽車の旅をして、はるかを連れて訊ねてきたのだった。道東の山深い弟子屈の駅に降りた日をはるかは思い出していた。加藤医師は親子を心から歓迎して喜んでくれた。はるかは、巧医師が眉の濃い顔をほころばせてはるかを抱き、頭を優しくなでてくれたことを覚えている。
「大きくなったね。叔父さんの家に来たのは本当に良かったよ。家にはお手伝いの人がいるだけで後は誰もいないからね。気兼ねなく過ごしてくださいね」
はるかの母は、巧医師に深々と頭を下げて、
「どうか、よろしくお願いいたします、私は病気で仕事をしていけないのです。何とかこの子を育てなければ戦死した望さんに申し訳なくてならないのです」と、優しい色白の面立ちの黒い瞳に必死な思いをこめ涙を浮かべながら、巧医師にお願いをしていた。
「美紗子さん!安心してください。ぼくは一人者ですし、結婚をする気は当分ないのですから」と、巧医師は、母の痩せた両肩を抱きしめた。そして、励ますように
「この家は貴方の家ですから、心配しないで過ごしてください」と重ねて言った。
「少しでも巧さんのお手伝いが出来ればよいのですけれど」
「そんな心配は要りませんよ、お手伝いが全部やってくれますから、美紗子さんの病気を治すことが一番大切です。それに弟子屈に療養所が完成したので、ますます安心ですよ」
「本当に有難うございます。よろしくお願いします」と、母は何度も何度も頭を下げていた。
はるかの隣の部屋が母と何時も一緒にいる部屋になっていた。母は昭和22年春、出来立ての療養所に入所した後は一度もこの部屋には戻らずに亡くなってしまった。はるかは父(望)の顔は全く覚えていない。戦争中に結婚した父は、戦争に行き沖縄の空中戦で戦死したと聞いた。古くなった白黒の写真が一枚手元に残されていた。その面影は、はるかのおでこや水平に濃い眉に残され、一方、丸い頬、柔らかな唇、瞳は母親似である。はるかは、母が早く結婚をしたのも戦争のせいなのか?と思った。母と巧叔父さんとの関係はどんな関係なのだろうか?はるかは、余り詳しいことは聞いていなかった。父と巧叔父さんは学生時代には大の親友だったと言うことは教えられていた。
はるかは、遠く摩周湖の空の色が変わったように思った。風が強く吹いている。確かに暑い午後の日差しは樹林の緑を白く輝かせて波打っているようだった。東の空は雲に覆われ始めていた。こんな時は摩周湖には霧が生じているはずだった。しばらく摩周湖には行っていないと思いながら、今年の夏は足を運んでみようと思っていた。はるかの想いも白く錯綜するようであった。
階下から義父の呼ぶ声が聞えて来た。
「はるか降りておいで!お茶を飲まないか?」と、機嫌の良い声であった。義父は今日、川湯診療所に行った筈だ。もう帰宅したのだ。時計は午後4時10分を示していた。コーヒーブレイクには少し遅いと思いながら、はるかは立ち上がってゆっくりと階段を下りた。コヒーの懐かしい香りが漂ってきていた。コーヒーポットの沸き立つのを見ながら、義父の巧は腕組みしてソファーに腰を下ろしていた。はるかの部屋がそっくり階下のリビングになっていて、ベランダは釧路川に向いていた。部屋の真ん中には黒光りする樫の木で出来ている丸いテーブルが置かれてあり、囲むようにソフアが置いてあった。奥の片隅には黒のアップライトのピアノがあり、ときどきはるかは無心に弾き出した。いつも食事はそこでするのが習慣になっていた。
「お義父さん、何の用事ですか?」と、はるかは、腕組みを見て相談のあることを察知していた。腕組みは、そんなときの義父の癖であった。顔をはるかの方に向けながら、機嫌よく、
「今度の日曜日は空いているかい?空いていたら、はるかを連れてハイキングと行きたいのだが、どうだろうか?実は絵を描きに行きたいのだよ。和琴半島にね。屈斜路湖にははるかと長い間一緒に行っていないのではない?」
「そうですね。お友達が今日の夜か明日の朝来て、土曜日には層雲峡に行き、旭川に行くので、空いている筈です」と、はるかは答えた。
「そうか、それでは日曜日は少し早いけどオッケーだね。弁当はいらないよ!食べる所はあるから」と、立ち上がり、義父は、コーヒー茶碗の準備をし始めた。
「友達はどこから?」
「東京よ、昨日も聞いていたくせに」と、はるかは笑いながら答えた。上手いコーヒーがゆっくりと茶碗に注がれた。義父の淹れるコーヒーは本当に上手いとはるかは思った。
「どうかな?コーヒーの味はブルーマンとモカのブレンドさ」
はるかは、砂糖を匙一杯だけ入れてかき混ぜてから、ゆっくりと啜った。まろやかな軽い苦味が口に広がり、久しぶりに義父の入れてくれたコーヒーの味を楽しんだ。
「うん、とても美味しいわ。お義父さんの腕は落ちていないわ。今日は、患者さんはもういないのですか?」
この弟子屈の街に人が増えてきたのに、近隣には歯科医がいないため患者の数は減るより増えていることが義父の悩みだった。
「患者はあと5~6人残っているけれど、夕方6時過ぎには終わるよ」
「夕方の列車で友人が着いたら食事を一緒にしたいのだけれど、よろしいかしら」
「ああ、はるかの友人ね、何人来るの」
「二人です。二人ならばお母さんの使っていた部屋に泊めてあげることが出来るし、私の部屋にも余裕はありますし」と、来る友人のことを考えながら、はるかは夕方の汽車が着くころ迎えに行くつもりでいた。義父の歯科医院は、駅前にあり、歩いて5分もかからない所にあった。
「それでは、今夜はすき焼きにしようか?はるかにすき焼き用の牛肉を買って来てもらって、野菜、うどんなども用意して貰わないといけないね」と、義父は張り切って言った。手伝いの叔母さんは夜には来ないから、自分たちで用意しなければならない。それから医院に再び出かけていった。
はるかは、2階に上がり、化粧台に向かって髪を後ろに束ね直して自分の顔を確かめ、切れ長の目を2~3回瞬かせた。はるかは、普段から化粧をしたことはなく、化粧台は自分の顔を確かめるためのものであった。それから、手さげ籠を持って買い物に出かけた。街の中を歩くのは、帰ってきてから初めてであった。高校生以来弟子屈を離れてから知りあいの人たちも見掛けなくなっていた。肉屋の叔母さんは彼女のことを覚えてくれていた。久しぶりに見るはるかを上から下まで見て、
「はるかさん!見ないうちに随分と大きくなったね。それにきれいになったこと」と、元気よく声を掛けた。白の半袖の夏のブラウスにやや短めのスカートのはるかの姿態が成熟していて、女らしさがみなぎっていた。透き通るような白い素足に下駄を履いた姿は質素で、後ろに丸めた黒髪は若さを引き立てていた。
「すき焼き用の牛肉を1kgください」
「あら、いったいそんなに沢山食べるのかい。二人だけなら500もあればいいのに」
「あのー、今日はお客が来るものですから」と、はるかは念を押して言った。叔母さんは、はるかの両肩から前胸の乳房に掛けて流れるような女性らしさにまぶしさを感じながら、
「はい。すき焼き用1kgです。まけときましたからね」
「あら、おばさん、すみません」
少し傾むきかけた日差しの中に夕昏の匂いがどこからもなく漂っていた。さらに2軒ほどの店をまわり夕食の材料を買い求めて帰宅した。たまねぎ、白玉、卵、うどんなどの材料を食べるばかりに調整し、全ての準備が終了して時計を見ると、午後6時を過ぎていた。

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第三章 はるかの家と友人 その1

道東の弟子屈の街は、摩周湖と屈斜路湖に挟まれた間にあり、釧網線が北から南に貫いて走っている。3万年以上前に活動した火山の名残であるカルデラの底部と考えられる地域ではないかと考えられる。屈斜路湖からは湖水が源流となって釧路川が流れ出し、清明な流れのままに北西から弟子屈の街の中を潤し、街で釧網線に合流するように南下している。道路は東西南北から街をめがけて集中している。北は網走から野上峠を超え、西は北見から美幌峠を通る。もう一本は阿寒横断道路である。東は羅臼・中標津から、南は釧路から道路が集まる。小さい町ながら交通の要所である。そして、もっと大切な摩周湖周回道路に繋がっている。北海道の名付け親、松浦武四郎の著書『久摺日誌』には約100年前の弟子屈の様子が記されている。当時の弟子屈は深い原生林に覆われ、住む人は無く、屈斜路湖畔に僅かに17戸ほどのアイヌの人々が住むコタンがあるのみであったという。

弟子屈の周辺には今でも原生林の名残が点在していて、癒しの空間を提供している。アトサヌプリ(裸の山)は、3万年前からの火山活動を今に伝えている。明治10年頃から硫黄の採掘が始まり、馬と船で硫黄山から釧路まで硫黄を輸送したという。明治21年にはアトサヌプリと標茶の間に硫黄山鉄道が敷設された。この鉄道は弟子屈の繁栄をもたらした。しかし、硫黄の枯渇に伴い、急速に汽笛の音は9年間で幻の如く消え去ったという。そんな弟子屈に明治19年に初めて温泉旅館が開設された。それが弟子屈の温泉の始まりと言われている。川湯にも同じ頃、料理店兼温泉宿が出来たが、間もなく廃業したらしい。 

その後の川湯の本格的な開湯は、明治37年に本格的な温泉宿を開くのを待たなければならなかった。明治23年から25年にかけて、多くの囚人たちの苦役により開通した野上峠を通って網走方面からも人々が来るようになった。釧網線が開通したのは昭和6年である。そして、昭和9年に阿寒、摩周、川湯、弟子屈を含めた国立公園に指定された。広大な土地に国立公園が占めている。阿寒と弟子屈を結ぶ横断道路は、摩周湖さらに屈斜路湖とを結ぶ構想のもとに考え出された。東大出の永山在兼なる土木出身のエリートが釧路土木派出所長に赴任したときに計画されたものだったという。昭和3年に着工、昭和5年に開通した。原生林の生い茂る山峡に新たに道を作る難工事を想像する事が出来る。いまだに舗装されていないけれど、中学生の時にはその道路のことを大変な悪路と聞いていた記憶がある。今は、その砂利道を原生林に粉塵を浴びせながら、定期的にバスが走っている。弟子屈の町には各方面からバスに揺られ、人々が集まってくる。それにしても、町は艶やかな温泉街で、商店街は無く落ち着いた雰囲気を持っている。

しかも、弟子屈の街は、全体にくすぶったような平屋の民家が多く、明治時代の名残を残す。そんな雰囲気の中、駅前の晩翠橋にほど近い川沿いに加藤先生の新しい洋風の家がある。

はるかは、久しぶりに戻った自宅2階の自分の部屋でくつろいでいた。10畳の広い部屋である。窓を開けると、夏の爽やかな風が気持ちよく吹き込んできた。机に向かい腰掛けていたが、読んでいた本を置くと、風でページが音もなくめくれていった。手で本を抑えながら窓から身を乗り出すと、直ぐ近くには曲がりながら流れている釧路川の清流が見えた。水面はきらきらと輝いている。はるかはこの景色を見ると、気持ちが落ち着いてくるのを感じるのだった。対岸の家並みは最近少し増えているようだ。その向こうに釧網線の軌道の路肩がよぎっている。定刻になると、4両編成の機関車が走り込んでくる。黒煙の霞んでいく向こうに緑の丘をかたどっている。街は、駅を中心にその緑の丘陵に囲まれている。快晴の日には弟子屈飛行場を飛び立つセスナの爆音が低く聞こえてきた。水面をじっと見つめていると、様々なことが頭の中をよぎっていた。

一昨日、東京から夏休みで帰宅したばかりのはるかは何もしたくなかった。義父との会話も未だ十分にしていなかった。今夜はゆっくりと東京の学校の話でもしてみようと思っていた。幸い友人たちが訪ねてくれる。はるかは、部屋の中を見渡し自分の部屋の殺風景な様子に少し苦笑したが、これも仕方がないかなと思っていた。部屋には母の使っていたオンコの木で出来ている化粧台と5段の箪笥があり、自分の持ち物の殆んどが納まっていた。上には黒髪の長い日本人形が変わらぬ姿で真っ直ぐに前を見つめていた。直ぐ横には亡くなった母の若いときの姿を映した写真が枠にはめられて飾ってあった。白いブラウスに黒い長いスカート姿である。学生時代のものだった。その写真の下には、古く変色しかかった航空帽子をかぶり戦闘機の前に立つ一人の男性の小さな写真が挟まっていた。残されたはるかの父の写真である。はるかの誕生日のときの写真も置かれ、両親と一緒に写る。はるかは子供の頃は随分と大きいと思っていたガラス戸つきの黒檀の本棚には中学生の頃から読んできた様々な本が並んでいた。世界文学全集、日本文学全集、源氏物語などの様々な本が並んでいた。受験の参考書はそろそろ整理しなくてはと考えていた。青山学院大学文学部3年生の自分には必要のないものであった。壁には、義父が描いてくれたバラの絵と屈斜路湖と藻琴山が描かれた油絵がもうずっと以前から同じ位置を占めていた。

押入れの前の服掛には、白地に大柄なバラの花が描かれている夏の浴衣が掛けてある。盆踊りまではもう少し時間がある。夏の夜、大柄な花模様の帯をしめ、浴衣を着て川べりを散策するのも悪くないと考えていた。

はるかは大学生になってからも真面目に勉強をしていた。札幌の藤学園を卒業して青山学院を受験するといったら、友達もシスターも驚いていた。青山はプロテスタントの大学だから、はるかの行く大学ではないと友達には随分と言われた。しかし、このプロテスタントの大学はのびのびと開放的な自由があり、おおらかな気分がはるかには合っているようだった。東京の下宿は義父の紹介で入ったので、何の不安もなく3年間は几帳面に夜の門限を守ってきた。昨年あたりから学生の学内騒動が東京のあちこちの大学で持ち上がっていたが、青山学院は静かだった。

青山学院は米国メソジスト教会の宣教師により創立された大学で女性の生徒も多かった。山の手線渋谷駅からそう遠くなく行ける。静かなキャンパスは緑溢れ都心にあるとは思えない。マタイ福音書5章13~16にある「地の塩、世の光」がスクールモットーであった。はるかは、カソリックの藤学園を出たからキリスト教には十分な理解があった。まだ信者になり、神を受け入れるようにはなっていなかったが、そのような気持ちはあった。藤学園と同じ朝の礼拝はパイプオルガンの響きと共に始まり、キリスト教信仰を建学の精神に生かす原動力になっていた。はるかは卒業論文のことを考えていた。英文学の何を選んだらよいかまだ迷っていた。

最近話題になっているクローニンの小説を取り上げてみようと思っていた。クローニンの小説には医師が活躍するものが多いけれど、『城砦』や『天国の鍵』を取り上げたいと思うのはキリストの福音とも関係があると考えていたからである。

窓から見ていると、小学生が川べりに来て賑やかに遊んでいる。自分も以前はあのように無邪気に小石を投げて遊んだことを思い出していた。川の流れは意外と速く流れている。川の中に入り、足をとられて流された時、義父が青い顔をして飛んできたことが思い出され、はるかは苦笑いをした。そのころ、母は生きていた。出来て間もない新しい弟子屈国立療養所に入所していた。母の病気はかなり重く、家に帰ってくることも、また、見舞いに行くこともなかなか出来なかった。

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