第四章 ふたたび川湯診療所で その3

翌朝は雨が止んでいたが、空は曇っていた。いつもの様に顔を洗い、朝食を食べラジオを聴いていると、もう患者が来ていると事務の和子ちゃんから連絡があった。昨夜の女学生達が待っていた。四人はカニ族のスタイルで横長のリュックを背負い、朝一番の列車で旅立としていた。軽装のハイキングスタイルが新鮮だった。ガーゼを交換して醜くないように包帯を巻いてあげた。
「今朝の食事はどうしたの」と聞くと、
「食事の時、門歯は直接に門歯同士がぶつかり合わないから食べられた」と言う。歯は消毒し、ゴムの充填の入れ替えをした。彼女は手鏡を取り出して顔を十分に確かめて、笑顔で出て行った。
事務室に入ると、和子ちゃんが、
「お茶を入れますから。昨夜は大変でしたね。先生がカルテに処置をきちんと書いてあるので、計算するのが楽です」と、言いながら立ち上がり、お湯を沸かす準備をする。丸顔のキュートな感じの女の子だと改めて気づいて、彼女の動きを見る。緑茶を飲みながら、ぼくは、
「診療所で対応できないような患者が来たらどうしたらいいのかな」と、彼女に尋ねていた。これは看護婦か事務長に聞くことであったが、なんとなく彼女に聞いてみたくなっていたのだ。
「その時は、先生、国立弟子屈に送ったほうがいいかもしれませんよ。私がいるときにそんな患者が来たら、私の知っている先生に連絡を取ってみるから」と、実に明快な答えが返ってきた。ぼくは、それは当然だと思った。それ以上は釧路に送ることになるのだ。
「その先生の名前は何て言うのですか。教えておいてください」と、ぼくは和子ちゃんに要請した。実はこの先生は彼女と婚約していることを後で事務長から教えられた。
山本事務長は、9時を過ぎてもまだ来ていなかった。バスに乗り遅れたらしい。9時半頃あたふたと現れた。患者はもう10人以上も来ていた。中年の女性がリヤカーでいかにも農家の叔父さん風の男性を連れてきていた。早速、診察を開始した。その男性は56歳で、昨日から何も言わないし、何も食べないで寝てばかりいると言うことである。農家を経営している人であった。話かけてもぼんやりして何も言わずに反応もない。瞳孔の不同があり、左が大きく対光反射が弱い。右の顔の麻痺が見られる。上肢を上げてみると、明らかに右は弱く麻痺があった。看護婦は血圧が高いと報せてくれた。190/104mmHgで、脈は40台と報告してくれた。これは明らかに脳卒中である。脳内出血か脳梗塞か鑑別は難しいけれど、診療所での治療には限界があると考えた。奈良看護婦に弟子屈に送ることを伝えた。
「それなら和子ちゃんの彼氏に連絡したら、引き受けてくれるよ」と、言う。ぼくは先ほど彼女が伝えてくれたことが現実になり、驚きながら国立弟子屈病院に電話をした。内科の布施医師が電話に出た。意外と気さくな対応をしてくれたので、ぼくは少し緊張が取れて、今いる患者の状態を説明し患者を引き取って貰うことにした。この頃は救急車などもなく、どこかの空いているトラックを探さねばならなかった。山本事務長があちこちに電話をして遂に車を一台調達した。和子ちゃんは、
「私が患者について行ってあげる」と、言って車に乗り、出掛けて行った。1時間もあれば戻ってくる。色々なことが起こりそうな予感がぼくにはしていた。いずれも臨機応変に対応しなければならないと腹を据えていた。奈良看護婦は、
「和子ちゃんは彼氏に会えるから、張り切って行ったのだよ」と、独り言を言っていた。それから、徐に看護婦が、
「先生にお礼をしたいと言う美人4人が来ていますよ」と、教えてくれた。玄関に出てみると、昨日の4人の女性たちが微笑みながら立っていた。患者は、どなたなのかぼくは記憶になかった。一人の面長の容貌の女性が名乗りを上げた。ぼくは健康になったその女性に丁寧に挨拶されて、少し気分が良くなった。

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