第四章 ふたたび川湯診療所で その2

「先生!彼女がチンピラに追われて逃げようと走っていたら、石に下駄が引っかかって転倒したのです」
「そんなチンピラがいるのですか?」
「温泉にはいませんが、よそから入って来た奴らです。大体見当はついていますがね」と、言って、巡査は、先生がいるから安心しなさいと優しく諭していた。女の子は川湯観光ホテルの浴衣を着ていた。歯の状況をみて、これは歯科的な処置をする必要性があると思い、加藤先生に電話で相談をすることにした。電話をかけると、受話器の外す音が聞こえ、と同時にピアノの音が流れてきた。微かに聞こえる音はショパンの曲らしかった。あの女性が弾いているのだろうか?
「もしもし、加藤です」と、返事があった
「加藤先生、夜分に大変失礼します。川湯診療所の後藤です。今、急患で、転倒して口を強く打撲し、門歯を折ってきた患者がいます。神経が垂れ下がっているのですが、どうしたらよいですか」と、助けを求めた。
「折れた先の方はどうしたのですか」
「どこにもないんです。多分転倒した所にあるかもしれませんが、この夜中じゃ見つからないと思います。患者はかなり痛がっていますが、先生に、来て治療していただくにしても、もう車はないでしょうし」
加藤先生は、
「それなら貴方が臨時に処置を行ってください」と、処置の方法を教えてくれた。受話器からはピアノ曲も流れている。確かにショパンの夜想曲の一つだった・・・。ほどなく電話は切れた。誰が演奏しているのだろうかと思いながらも、我に帰り、患者を歯科の診療室に連れて行き診察台に座らせる。ライトをつけてみると、右門歯が完全に真ん中で折れていた。白い神経が露出して見えた。ぼくは歯科の細い穿刺針を取り出し、神経を巻きつけて引いてみた。すると、神経は簡単に断裂して切れた。神経の抜けた小さい穴に歯科用の消毒剤を充填し、ゴムを熱して折れた歯の全体を包んだ。擦過傷で汚れた鼻、唇、頬を消毒して化膿を止める軟膏を塗り、ガーゼを当て包帯を巻いた。女の子は泣き止んでいた。よく見ると、可愛らしい顔をしていた。もう心配は要らないこと、残念ながら無くなった門歯は入れ歯で修復が出来ることなどを説明した。四人は礼を述べて帰ろうとしていた。そこで、明日の朝出発の前に必ず来てくださいと告げた。カルテを整理し警察に提出する診断書などを書き終えて部屋に戻ったのは、夜の11時を過ぎていた。
遅くになって霧雨が本格的な雨になり、トタン屋根に一定のリズム音を刻んでいた。先ほどのピアノは誰が弾いていたのだろうか。暫く歯科の部屋の椅子に座っていた。雨の音を聞いていると、ぼくの心には亮子の姿が浮かんでくる。どうしているのだろうかと思慕の思いが募ってくる。恋人の亮子は、内面的な女性だ。冷静な女性である余り、自分を表に出さない所がある。愛情の表現についてみても控えめである。信仰の話になると、真剣な瞳で話が弾み出すのだ。ぼくはそれを聞くのが好きだ。亮子の藤学園はぼく達が生まれる前の1925年に、ドイツのフランシスコ修道会により5年制の札幌藤高等学校が設立された。亮子は自宅が近いこともあって、中学生から藤に入学し、常に優秀な成績を収めて卒業していた。謙虚な所が常にあり、ぼくには理想の女性として感じられた。藤の名の由来を聞いたことがあった。亮子は、
「昔から札幌には藤の野生が沢山あり、それを図案化したもので、真ん中に三本の縦の線は謙遜、忠実、潔白を表しているのです」と、聞かせてくれた。目を閉じながら、ぼくは清純な亮子を心の中で抱きしめていた。

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