第三章 はるかの家と友人 その1

道東の弟子屈の街は、摩周湖と屈斜路湖に挟まれた間にあり、釧網線が北から南に貫いて走っている。3万年以上前に活動した火山の名残であるカルデラの底部と考えられる地域ではないかと考えられる。屈斜路湖からは湖水が源流となって釧路川が流れ出し、清明な流れのままに北西から弟子屈の街の中を潤し、街で釧網線に合流するように南下している。道路は東西南北から街をめがけて集中している。北は網走から野上峠を超え、西は北見から美幌峠を通る。もう一本は阿寒横断道路である。東は羅臼・中標津から、南は釧路から道路が集まる。小さい町ながら交通の要所である。そして、もっと大切な摩周湖周回道路に繋がっている。北海道の名付け親、松浦武四郎の著書『久摺日誌』には約100年前の弟子屈の様子が記されている。当時の弟子屈は深い原生林に覆われ、住む人は無く、屈斜路湖畔に僅かに17戸ほどのアイヌの人々が住むコタンがあるのみであったという。

弟子屈の周辺には今でも原生林の名残が点在していて、癒しの空間を提供している。アトサヌプリ(裸の山)は、3万年前からの火山活動を今に伝えている。明治10年頃から硫黄の採掘が始まり、馬と船で硫黄山から釧路まで硫黄を輸送したという。明治21年にはアトサヌプリと標茶の間に硫黄山鉄道が敷設された。この鉄道は弟子屈の繁栄をもたらした。しかし、硫黄の枯渇に伴い、急速に汽笛の音は9年間で幻の如く消え去ったという。そんな弟子屈に明治19年に初めて温泉旅館が開設された。それが弟子屈の温泉の始まりと言われている。川湯にも同じ頃、料理店兼温泉宿が出来たが、間もなく廃業したらしい。 

その後の川湯の本格的な開湯は、明治37年に本格的な温泉宿を開くのを待たなければならなかった。明治23年から25年にかけて、多くの囚人たちの苦役により開通した野上峠を通って網走方面からも人々が来るようになった。釧網線が開通したのは昭和6年である。そして、昭和9年に阿寒、摩周、川湯、弟子屈を含めた国立公園に指定された。広大な土地に国立公園が占めている。阿寒と弟子屈を結ぶ横断道路は、摩周湖さらに屈斜路湖とを結ぶ構想のもとに考え出された。東大出の永山在兼なる土木出身のエリートが釧路土木派出所長に赴任したときに計画されたものだったという。昭和3年に着工、昭和5年に開通した。原生林の生い茂る山峡に新たに道を作る難工事を想像する事が出来る。いまだに舗装されていないけれど、中学生の時にはその道路のことを大変な悪路と聞いていた記憶がある。今は、その砂利道を原生林に粉塵を浴びせながら、定期的にバスが走っている。弟子屈の町には各方面からバスに揺られ、人々が集まってくる。それにしても、町は艶やかな温泉街で、商店街は無く落ち着いた雰囲気を持っている。

しかも、弟子屈の街は、全体にくすぶったような平屋の民家が多く、明治時代の名残を残す。そんな雰囲気の中、駅前の晩翠橋にほど近い川沿いに加藤先生の新しい洋風の家がある。

はるかは、久しぶりに戻った自宅2階の自分の部屋でくつろいでいた。10畳の広い部屋である。窓を開けると、夏の爽やかな風が気持ちよく吹き込んできた。机に向かい腰掛けていたが、読んでいた本を置くと、風でページが音もなくめくれていった。手で本を抑えながら窓から身を乗り出すと、直ぐ近くには曲がりながら流れている釧路川の清流が見えた。水面はきらきらと輝いている。はるかはこの景色を見ると、気持ちが落ち着いてくるのを感じるのだった。対岸の家並みは最近少し増えているようだ。その向こうに釧網線の軌道の路肩がよぎっている。定刻になると、4両編成の機関車が走り込んでくる。黒煙の霞んでいく向こうに緑の丘をかたどっている。街は、駅を中心にその緑の丘陵に囲まれている。快晴の日には弟子屈飛行場を飛び立つセスナの爆音が低く聞こえてきた。水面をじっと見つめていると、様々なことが頭の中をよぎっていた。

一昨日、東京から夏休みで帰宅したばかりのはるかは何もしたくなかった。義父との会話も未だ十分にしていなかった。今夜はゆっくりと東京の学校の話でもしてみようと思っていた。幸い友人たちが訪ねてくれる。はるかは、部屋の中を見渡し自分の部屋の殺風景な様子に少し苦笑したが、これも仕方がないかなと思っていた。部屋には母の使っていたオンコの木で出来ている化粧台と5段の箪笥があり、自分の持ち物の殆んどが納まっていた。上には黒髪の長い日本人形が変わらぬ姿で真っ直ぐに前を見つめていた。直ぐ横には亡くなった母の若いときの姿を映した写真が枠にはめられて飾ってあった。白いブラウスに黒い長いスカート姿である。学生時代のものだった。その写真の下には、古く変色しかかった航空帽子をかぶり戦闘機の前に立つ一人の男性の小さな写真が挟まっていた。残されたはるかの父の写真である。はるかの誕生日のときの写真も置かれ、両親と一緒に写る。はるかは子供の頃は随分と大きいと思っていたガラス戸つきの黒檀の本棚には中学生の頃から読んできた様々な本が並んでいた。世界文学全集、日本文学全集、源氏物語などの様々な本が並んでいた。受験の参考書はそろそろ整理しなくてはと考えていた。青山学院大学文学部3年生の自分には必要のないものであった。壁には、義父が描いてくれたバラの絵と屈斜路湖と藻琴山が描かれた油絵がもうずっと以前から同じ位置を占めていた。

押入れの前の服掛には、白地に大柄なバラの花が描かれている夏の浴衣が掛けてある。盆踊りまではもう少し時間がある。夏の夜、大柄な花模様の帯をしめ、浴衣を着て川べりを散策するのも悪くないと考えていた。

はるかは大学生になってからも真面目に勉強をしていた。札幌の藤学園を卒業して青山学院を受験するといったら、友達もシスターも驚いていた。青山はプロテスタントの大学だから、はるかの行く大学ではないと友達には随分と言われた。しかし、このプロテスタントの大学はのびのびと開放的な自由があり、おおらかな気分がはるかには合っているようだった。東京の下宿は義父の紹介で入ったので、何の不安もなく3年間は几帳面に夜の門限を守ってきた。昨年あたりから学生の学内騒動が東京のあちこちの大学で持ち上がっていたが、青山学院は静かだった。

青山学院は米国メソジスト教会の宣教師により創立された大学で女性の生徒も多かった。山の手線渋谷駅からそう遠くなく行ける。静かなキャンパスは緑溢れ都心にあるとは思えない。マタイ福音書5章13~16にある「地の塩、世の光」がスクールモットーであった。はるかは、カソリックの藤学園を出たからキリスト教には十分な理解があった。まだ信者になり、神を受け入れるようにはなっていなかったが、そのような気持ちはあった。藤学園と同じ朝の礼拝はパイプオルガンの響きと共に始まり、キリスト教信仰を建学の精神に生かす原動力になっていた。はるかは卒業論文のことを考えていた。英文学の何を選んだらよいかまだ迷っていた。

最近話題になっているクローニンの小説を取り上げてみようと思っていた。クローニンの小説には医師が活躍するものが多いけれど、『城砦』や『天国の鍵』を取り上げたいと思うのはキリストの福音とも関係があると考えていたからである。

窓から見ていると、小学生が川べりに来て賑やかに遊んでいる。自分も以前はあのように無邪気に小石を投げて遊んだことを思い出していた。川の流れは意外と速く流れている。川の中に入り、足をとられて流された時、義父が青い顔をして飛んできたことが思い出され、はるかは苦笑いをした。そのころ、母は生きていた。出来て間もない新しい弟子屈国立療養所に入所していた。母の病気はかなり重く、家に帰ってくることも、また、見舞いに行くこともなかなか出来なかった。

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