第二章 川湯温泉の診療所で その2

その夜は、患者からの電話が来るかと思いながら、午前1時くらいまで起きてヘッセを読んでいた。老夫婦はとっくに休んだはずなのに居間にあるラジオがいつまでも話をしていた。ラジオのスイッチを切り、電燈を消して部屋に戻る。ぼくは本を再び取り上げた。デミアンは日本人のぼくにとって、わかりにくい小説である。第一次世界大戦後のドイツの若者たちに歓迎され、アメリカでも支持されたと言われている、それに引きかえヘッセの初期の作品はわかりやすい。『青春うるわし』『郷愁』『車輪の下』などは、みずみずしい少年から青年への移行する時の、不確かな人生の憧れやあきらめが、故郷に対する郷愁と共に美しく書かれている。小説デミアンの主人公はエミリ・シンクレアである。彼は暗い、内向的な少年である。仲間の中で強がりを言ったために、脅しを受ける羽目になる。

ぼくも少年時代の一時期、中学2年生のときに悪への道に誘われるような苦い経験があった。街のチンピラの脅しで何度も金銭を出さなければならない弱みを見せてしまっていたためである。シンクレアはデミアンに救われていくのだが、シンクレアが直面しているこの世の中の二面性のうちのネガティブなものからの脱却を最後にすることで自分自身に帰る。自己の新しい確立をすることが出来ると言う内容なのだと思う。ぼくも受験勉強に追い立てられている最中、高校生から女性に対する憧れを密かに抱いていた。それは、成長する性欲的な欲望ではあるけれども、本質的には女性に対する男性の持っている高い境地への憧れを実現させるものと捕らえてきたつもりだ。「人を愛すること」の茨の道とぼくは考えていた。決して甘いものではない道であった。肉欲的なものでは無く精神的なものであった。

何回かの失恋の後、ぼくは亮子に支笏湖の湖畔で会った。それ以来ぼくは亮子に魅せられてしまった。精神的にも肉体的にも全てが捉えられてしまった。亮子はぼくのただ一人の女性だと思っている。ぼくは恋人の亮子とは話をすることはあっても、手を握ることさえなく、5年は過ぎようとしている。ある意味では一方的なプラトニックな状態で過ごして来た。

一昨年、二人で恵庭岳を登山した時でも、同じ部屋に宿泊したのに何も起こらなかった。秋空の素晴らしい10月10日の一日だった。亮子は誰が見ても素晴らしい美人である。友人はぼくに、

「何年も付き合っていながら何も無いなんておかしい。そんなことなんてあるのかな」とも言っていた。ぼくは亮子を知ることで自己の確立が出来ることを喜んでいた。亮子を知ることは、イエス・キリストを知ることでもあったのだ。大雪山に行ったときの彼女の話はその大きなきっかけになっていると思う。中学時代に聖書の話を聞かされてから、聖書への誘いは時々あったが、多くは理解しないままに打ち捨てられてしまっていた。だからぼくは密かに聖書の勉強を始めようと決心した。聖書を理解すためには聖書の背景を理解していかなければ聖書を理解してはいけないことも解った。聖書から得られる多くの素晴らしいことは、今のぼくの実在を確かなものにする筈だった。神を信じて、平安な心を持って一日を過ごすことが出来る筈であった。

それらの思いを打ち消すようなことがあの時起こっていたのだ。あの阿寒バスの中で見かけた女性に気が取られるとは如何したことだろう。ぼくはその姿を打ち消そうと努力していたのに。しかし、その姿、雰囲気は亮子にも似ていると思った。亮子の顔立ちは瓜実顔であり、彼女は丸顔である違いがあるだけであった。背丈は同じくらいで、立ち居振る舞い、バスから降りていく後姿も亮子に似ていると思った。それが歯科の先生の娘であるとは。間違いなく歯科医の娘であると確信が持てた。暗い天井を見つめているうちに、ぼくの胸は亮子に対する思慕で高鳴っていた。亮子の姿を求めていた。すると、歯科医の「お嬢さん」の姿が現れてきて、益々ぼくの頭は混乱に陥いていた。何かが起こりそうな予感があり、堂々巡りをしているうちにぼくはいつの間にか眠りに入っていた。

 

翌日、六時半には「婆さん」が起きて朝食の準備を始める音が聞こえてくる。ぼくも昨夜の悪夢で重い頭を抱えながら起きて、障子を開けると外は曇りである。よく見ると、深い霧に包まれていた。緩やかに霧が診療所の前庭から柳の梢に絡まるように流れていた。この天気は、おそらく晴れていくのだろうと思って起きた。静かな朝が始まろうとしていた。三人で朝食を取り終えると、いつものように「飯塚爺さん」は新聞を抱えて便所に入り、そう簡単には出て来ない筈だ。ぼくは新聞も読めずラジオを聴いていた。朝の診療が始まる前に昨日の患者が来ていると連絡があり、診察室に行ってみると昨日の患者がにこにこして座っていた。

「おはようございます。尿は出るようになったのですか」と、ぼくは尋ねると、

「先生、昨日のあの注射はずいぶんと効いたようですわ。12時過ぎには尿が少しずつ出始めて、今朝はばっちりと出て気分は爽快です」と、患者は赤ら顔をほてらせて勢い込んで話をした。

「それは良かった。あの薬は、昨日も話しをした様に女性ホルモンの一種で前立腺肥大に効果があるので、尿が出るようになったのです。少し高価な注射であったのですが、それをする以外には方法は無かったでしょう。大阪に帰っても治療は続けなければ駄目ですよ。下腹部の注射痕は問題ないですよ」と、ぼくは念を押した。その患者が診察室を出て暫くしてから事務室の受付で大きな声で怒鳴る声がした。看護婦が診察室に戻ってきて、

「あの大阪の質屋はとんでもない人ですよ!薬代が高いと言って、事務の相木さんに文句をつけているのですから!」と、慌てている様子だった。

「事務長は未だ来ていないので、どうしょうかしら?」

「判りました。ぼくが説明をしましょうか」と、言って看護婦と事務室に入った。患者に渡した請求書を見ると、患者は保険を使用していないことが判り、それで薬代としてはやや高価になっているのであった。

「患者さん、ぼくは高価な治療をしたつもりはありませんけれど、決められた最低のことはしたつもりです。保険を使用していないことで、全額貴方が、個人が支払いをしなければならないからなんです」と、ぼくは付いてきた妻を見ながら言った。妻は眼鏡を掛けたふくよかな中年の女性だったが、昨日あんなに夫が苦しんだことはぜんぜん知らないようであった。

「先生の言うことは判るが、一回分の薬代としては高い!」と、まだ矛先を収めようとはしないでいた。横の威勢の良い看護婦が遂にたまりかねたように、

「お父さん、昨日、苦しんでいたときに何て言ったか覚えておいでですか。いくら金を出してもいいと叫んでいたのではないですか。だからと言って、いくらでも金を頂くつもりは無く、治療した分だけ支払うのが道理と言うものでしょう!」と、言う。半分は怒りに燃えているようであった。山本事務長も来て、いったい何事があったのかと怪訝そうに患者とぼくたちを見つめていた。暫くの沈黙のうちに患者は財布を取り出し、治療代の950円を支払いした。そして、何の礼も言わずに出て行った。朝から気分の悪い話であった。

「時々ここではそんなことがあるのですよ。気になさらないでください」と、事務長は話をしてくれた。あの患者は、北海道の川湯でまさか尿閉などを起こし楽しい旅行を台無しにするとは思っていなかったと思うが、時には生死にかかわることが不意に起こるなどと、少しも考えていないのだと思うと空しく、寂しい気がした。せっかくの楽しい旅行はこのことで全てが悪い想い出になることだろう。

診療所の玄関前を見ると、自転車が数台並んでいて患者が来ていることが判った。空は朝早くより明るくなり、霧が晴れていっているようだった。事務長はまずお茶を飲んでから仕事を始めましょうと言って、熱い緑茶を入れてぼくの顔を見ながら、

「歯科の先生は、絵が上手いから一人であちらこちらにスケッチをされに行くのですよ。仲間が出来るのは楽しいのでしょう。先生は絵をおやりなるのですか。どの位するのですか」と、探るように聞いてきた。

「絵は本格的にしているわけでは無く、スケッチ程度なのですよ」と、ぼくは慌てて、言葉を濁して言った。ぼくは油絵をしたいと考えていたが、問題はお金の問題だった。油絵の具を買うお金などは殆ど無い貧乏医学生だった。医学の教科書を買うだけで一杯だったのだ。それで小さなスケッチを描くに留まり、それに水彩色で絵付けをするのがぼくの趣味となった。

午前の診療が始まった。何人かの患者を診察終えてから土屋と言う名の患者が診察室に入って来た。カルテを見ると再来の患者である。土屋さんは、昨日近くの土産店で木彫りをしていたアイヌの人である。頭の鉢巻をはずしてきたので、直ぐには昨日のノミを振るっていた人とは気がつかなかった。

「先生、相談に来ました。以前から色々な先生に見てもらっているのだが、一向に良くならないのですよ!いったい如何したものか。新しい先生が来たと言うので、改めて診てもらおうと思い来たのさ」と、言いながら診察椅子に腰を掛けた。ぼくは、カルテを見ながら随分と先輩の先生が色々な薬を出していることが判った。それは、慢性の鼻の炎症であるらしく、鼻炎、蓄膿症といった診断名が付いていた。腰掛けた土屋さんの鼻を見せて貰うと、鼻腔が全体に赤くはれて出血があり、鼻中隔は穿孔していて糜爛状態と言える。絶えず鼻水が流れて止まらないと言う。ぼくはこの症状を診て、その特異な炎症に驚いた。

「土屋さんは42歳ですか?治療を始めて10年くらいになるようだけど、今までどの薬も効果は無いようですね。ところで、何時から彫刻を始めたのですか」と、聞くと、病気と関係の無いことを聞くとはと、不審そうな顔をして、

「中学を卒業してからだよ」と、土屋さんはぶっきら棒に答えた。ぼくは、この症状は木彫をしていることと何か関係があるのではと疑っていた。公衆衛生学の教科書にある画像を思い出していた。重クロム酸ナトリウムがメッキ、皮なめし、陶磁器、塗装などに使われていて、その長期使用により体内に吸収されると、中毒を生じて皮膚に難治性無痛性潰瘍を形成したり、鼻中隔穿孔を出現させるという。そうした症状の画像を思い出したのだ。

「木彫に色を付けていますよね。あれは何で付けているのですか」と、聞くと、土屋さんはさらに自分の鼻の病気と何が関係あるのだと疑うように、不審そうに顔をゆがめた。

「どうしてそんなことを聞く必要があるのさ!重クロム酸だよ。昔から使っているのさ。もう30年近くなるよ」と、言うので、ぼくは驚きながら、

「この鼻の病気はその重クロム酸と関係があるのだよ。長く使うことで次第に皮膚からクロムが吸収されて、そのために中毒を起こしているからなのです。その症状を無くすためにはクロムの使用を直ぐ止めなければならないですよ。もしこのまま続けていけば、癌も出来てくる可能性がある」と、自信を持って告げた。暫くの間、土屋さんは無言になり、こんな話は聞いたことはないと、怪訝な様子だった。いずれにしても、木彫の色付けには重クロム酸を使用しては駄目であることを強調した。

「薬はあるのですか」

「残念ながら、薬は無いのです。とにかく重クロム酸を使うことを止めないと」と、重ねて話をした。確かにそれは、当時としては、防腐作用があり、暗褐色の独特な色合いを作るというので、木彫の色調を出すのに最適のものだったに違いなかった。そのため多くの木彫に使われていた。今ほど公害が問題にならない頃のことである。土屋さんは、半分納得して帰っていった。それから、いく人かの患者を診察した。窓から見えていた曇り空は、いつの間にか晴天になっていた。夏の穏やかな風が吹いていた。ぼくは、川湯の空気はマイナスイオンが多く、すがすがしく感じていた。すると奈良看護婦が一枚の紙片を持って来た。受け取って広げてみると、

「後藤先生、この日曜日、和琴半島に行きましょう。和琴半島のバス停から降りた所の近くに一軒の休憩土産店があるので、そこで午前8時に待ち合わせいたしましょう。天候の良し悪しにかかわらず実行いたします。加藤巧より」と、書かれてあった。

「加藤先生は忙しそうにしているのですか?」と、ぼくは奈良看護婦に聞いた。

「患者が7~8人はいるようだから、午前中にはまだ終わらないと思いますよ。先生!加藤先生から何の言付けをよこしたの」と、奈良看護婦が興味を示しながら紙片を覗き込むので、

「デートの約束さ!これ見て御覧よ」と、答える。別に何でもないことなので、紙切れを見せてあげた。

「ふーん、デートですか」と、看護婦は紙片を机の上に置いた。何か不思議そうな顔をしてぼくを見ている。ぼくが加藤先生に出会ってまだ3日しか経っていないのだから、もう少し説明が必要のようだった。「実はね、ぼくたち絵を描きに行くことにしているのですよ」と、説明して、看護婦の不審そうな顔つきは消えた。

昼食の時間になり部屋に戻ると、「鷲鼻婆さん」の作る昼食は今日も冷やしソバであった。ぼくはソバが好きだから黙って頂いたが、昨日の味とは少し異なると思っていた。

「ちょっと味が異なりますね」と、言うと、「婆さん」はニヤニヤ笑いながら、

「昨日のタレが残っていたので、たしまいしたのさ。少し味が濃いけど、我慢してや」と、悪びれずに言った。これで3日間のソバ昼食である。ぼくは飽きたと言う感じを持たなかったけれど、いったいこれから先どうなるのかいささか心配ではあった。

「爺さんは戻っていないの」と聞くと、

「あのやつは朝からパチンコさ。一度も景品を持って帰ったためしがないさ。ごおつく爺だから、いつ帰るかわかんないんだよ」と、投げやりに言い返してきた。食事を終わり「婆さん」の顔を見ているのも大変なので、事務室に行ってみた。未だ歯科の診療は終了していない。歯科は午後1時頃までかかるらしい。事務の二人は昼食を食べながら、会計と投薬の仕事をしていた。奈良看護婦は昼食に自宅に帰っていた。山本事務長は緑茶を入れながら、

「もう慣れましたか。午前中の土屋さんの件は私も聞いて驚いています。あんなことってあるのですか?ここらは昔からあの薬は木彫りのときの仕上げの色付けに使われているのですよ」と、教えてくれた。ぼくは土産店に並べられて黒光りするコロポックルの木筒を思い浮かべていた。もし、それが使われなければ何で色をつけることになるのかと思いながら、

「事務長、あの薬は大変な毒性を持っているのだよ。ぼくも中学生の頃、重クロム酸ナトリュウム液を素手で触って、やけどをしたことがあるのですよ。皮膚がむけて、2~3週間は茶褐色の色が取れないでいました」と、ぼくは解説した。慢性的に使い続けると、皮膚からクロムが吸収されて主に皮膚の組織を破壊してしまうらしい。

「土屋さんは相当に驚いて帰って行ったけれど、如何するのかな」と、事務局長は心配そうにお茶をごくりと飲み干した。そばにいた色白な丸顔の事務の女性はぼくたち二人を見ながら、

「色を付けるだけならば、他にも方法はあるみたいよ。親戚に木彫りをしている人がいて、草汁、木汁、墨汁、などは結構いい色が出るようだと言っていました」と、横から言い添えた。暫くは沈黙が流れたが、不意に、

「時間があれば、午後からバトミントンか卓球をしませんか」と、事務長が言う。

「卓球は、そこの川湯プラザホテルにあるから、お客が来ないうちには卓球台が借りられるのですよ」

「そう、何時頃まで卓球が出来るのですか」

「お客が入ってくる3時頃まではね、可能だと思いますよ」と、事務長は請合ってくれた。

「今日は快晴の気分のいい日なので、診察が終わったら、バトミントンをしませんか」と、弁当箱を包みながら、どことなくコケテシュな感じの女性事務員が話かけてきた。それから1時間ほどして診療は終了になり、歯科の先生が事務室に顔を出した。

「やあ!後藤先生、今日は!先ほどの、見ましたか?診療が終われば、直ぐ自宅に帰るものですから、もしやお会いできないかと思い、連絡しました」と、やや疲れ気味の顔をほころばせながら告げた。ぼくは挨拶を返しながら、

「和琴半島は初めてなのです。ぜひ行きたいです。よろしくお願いします」

「多分、川湯からのバスの時間がちょうどいいのがあるはずですから、遅れないように来てください。私はこれから自宅に戻ります。娘の友人が来るというので」と、言いながら出て行った。事務長はその後ろ姿を追いながら、

「先生には奥さんがいないのですよ。弟子屈には、終戦後間もなく、確か15~16年前に来て、歯科医院を駅前で開業しているのですよ。はじめ奥さんがいたようなのですが、結核で療養所に入院しているうちに亡くなったのですよ。娘さんを一人残して。それ以来、独身で娘さんを育て大学に入れたのですね」と、言う。

ぼくは、あの時バスから降りて行ったあの娘は、先生の一人娘であることに確信が持てた。確かにあの女性は歯科の先生と一緒に歩いていった筈だ。それはぼくにはどうでも良いことである筈なのに、内心気持ちが動揺していた。すると、事務の女性は、

「私は小学校の頃、あの子を知っていますよ。可愛いく、色白の美人ですよ。中学生になり、札幌の学校に転校したのです。それから、東京の青山学院大学に行っているそうです。私より2年先輩かな」と、さらに彼女の周辺の事を話してくれた。ぼくには彼女のことはどうでも良いことの筈だ。むしろ、先生とスケッチに行くことは楽しいことのように思っていた。時刻表を調べてみると、7時30分に川湯発、和琴、美幌峠系由北見行きのバスがあった。

「和琴までなら20分もかからないから、これで行くと、丁度良いでしょう」と、事務長がわざわざ時刻表を覗きながら、調べて教えてくれた。

「先生!バトミントンをやりましょう」と、後ろで事務の相木和子が声を掛けて道具を持ち出した。外に出てみると、夏の日差しは明るく、蝉の鳴き声がうるさいくらいに聞こえていた。玄関前の広場には両側に背の高い柳が植えられてあり、丁度手ごろな広場になっていた。ネットもないので、羽の打ち合いを暫く行っていた。山本事務長は、

「和子ちゃんは、学生の時はバトミントンの選手だったのですよ」と、言うのを聞いて、ぼくは彼女の羽の打ち込みの鋭さに圧倒されているのに気がついた。また彼女の呼び名が和子(わこちゃん)であることに気がついた。若い女性が汗ばんで溌剌と躍動しながら運動する姿は、最近は目にしたことが無かった。医師になるまでの5年間、運動は登山だけだった。考えてみると、いつの間にか登山以外の運動には無関心になっていた。先月、阿寒町にいた時は久しぶりに野球をしたけれど、体を動かすことの楽しさを忘れていたようだった。打ち合いをしながら、

「山本事務長さんは、野球はしないのですか」と、聞いてみた。年のころ40歳前後の山本さんの体つきは痩せていて、筋肉質で運動は出来そうであった。

「私ですか?私は余り野球しないですよ。卓球を少しします」と、言う。

「それならば、私も卓球は好きですから、時間があったらやりましょうと」と、ぼくは汗を流しながら答えた。躍動する若い女性の姿態を見ながら、ぼくはバトミントンに熱中していた。午後の暑い夏の日差しは、街を包む深い森の緑をいっそう濃くしていた。2時半頃になって、奈良看護婦が自転車に乗ってふうふうと汗をかきながら戻って来た。

 

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