第二章 川湯温泉の診療所で その1

阿寒町を出てからすでに5時間もかかっていた。午後4時半で時間的にはちょうど良い時間であると考えながら、バスを降りたぼくは鞄とリュックを持ち、ゆっくりと歩いて川湯温泉町の中心部にある川湯ホテルプラザのほうに歩いていった。このホテルには卓球台があり、時間の空いているときに練習をさせてもらえるという事を聞いていた。すぐ左手に拓銀の保養所があり、僅かな水の流れている土橋を渡ると、左側に平屋の川湯診療所があった。それは、緑色の鉄板葺の屋根の持つ、細長い平屋の家で、その前は広場になっていた。家の後ろには広葉樹林が生い茂っていて半分は家の屋根を覆っている、真ん中に診療所の玄関があり右手には、もう一つの玄関が見えていた。この時間帯には患者は誰も見えていないようである。すでに、ぼくが今日この時間に診療所につくことを考えて先任の医師は、もう札幌に帰っているはずである。
玄関に入り声を掛けた。一人の痩せ型の事務長が出て来て、後ろにもう一人事務の女性が出てきた。ぼくは今のバスで到着したこと、直ぐにここに来たことを告げた。事務長も女性も弟子屈町の職員であり、午後5時を過ぎると帰宅してしまうところであった。ここは町立診療所なのである。ばたばたと廊下を小走りに出てきた中年の女性は、小太りな叔母さんタイプで、眼鏡を掛け赤ら顔をしている。すごく張り切った印象の看護婦である。
「名前は奈良と言います。助産婦もしています」と、挨拶した。診療所を手助けをしているとのことである。
「夜には看護婦は一人もいないので、夜の往診は先生が一人で、自転車でお願いします」と、さっそく言われた。

玄関を入ると直ぐ前には待合室があり、左に曲がると直ぐに事務室であり、廊下を挟んで右側には歯科診療室がある。2台の診療台があり歯科の先生が弟子屈から毎週火曜日、木曜日に診察に来てくれる。向かいの一室は川湯温泉研究室と名札の付いている実験室様である。古臭い書庫が立ち、反対の壁には摩周湖の古い白黒の写真と屈斜路湖の写真が張られている。窓際の机の上には試験管、薬品壜や幾つかの古い計測装置が置かれてあり、机の片隅には乱雑に温泉研究関連の書籍が置かれて埃を被っている。診療所を建設した先代の院長が温泉に興味があり、色々と温泉と人間との掛かり合いを研究していたと事務長が教えてくれた。先代の先生が亡くなられて、もう10年以上も経過していた。その後、町がこの診療所を引き受けて運営しているということであった。

ぼくは、古くなっている部屋の印象に興味を感じながら、人間に対する温泉の効用を科学的に研究していた先代の医師の姿を思い浮かべ、色あせた研究室をあらためて見直した。診療室は玄関を入った右側にあり、隣は処置室になっていた。待合室の隣は薬局があったが、薬剤師はいなかった。
その隣に薬品庫、レントゲン室が並ぶ。真ん中の廊下はドアで仕切られて隣の家に通じていた。ドアを開けると、廊下はガラス戸が4枚引かれてあり、障子を開けると、8畳の和室があってそこがぼくの居所となるということであった。その先にあるドアを開けると、この診療所の医師のために賄いをする老夫婦が住み込みでいた。事務長に案内されて老夫婦の居間に入る。
「後藤先生がお着きになりましたよ!これからよろしく」と、事務長が紹介してくれた。老婆は、70歳くらいの確りした顔立ちで、額には多くの皺がある。鷲鼻が印象的で白髪の混じった髪に手をやっている。少し背骨が曲がり出しているようだった。その夫は、短い髪の職人風の人で、泰然とタバコをふかしていた。ぼくは、丁寧にお辞儀をして挨拶をした。
「飯塚さん夫妻で退職後に、ここで仕事をしてもらっている」と、言う。持参した荷物を和室に運んでもらった。老婆がお茶を出してくれた。8畳の居間は広くくすんだ白熱電燈がついている、
「そうですか。先生も札幌からですか?遠い所、ご苦労さんでございます。先生はどのくらいここにいることになるのですか」
「2ヶ月です」と、ぼくは答えた。
「先生方は色々代わりなさるから、名前を覚えきれないですよ」
「大学から派遣されてくるものだから、長く居られないのですよ」と、ぼくは弁解気味に言う。
「お名前は何と言いましたっけ?食べるものは何が好きですか?好きなものを言ってください」と、老妻が言う。
ぼくは改めて自分の名前をゆっくりと名乗り、「ソバが好きだ」と、伝えた。

診療所の前庭に出る玄関があり障子で仕切られている。出窓には白いゆりの花が花瓶に挿されていた。窓の外は木立にさえぎられている。6畳ほどの台所は奥にあった。事務長に言わせるとこの二人は非常な変わり者だと言う。
「おいおいわかりますよ」と、言って事務長はにやりと笑っていた。看護婦が入ってきて、患者が「5人も来ているので、お願いします」と言う。
「この時間帯になると、観光客が旅の疲れで診てもらいに診療所に来るのですよ。それから往診の依頼が温泉旅館から来るかもしれませんのでよろしく」と、事務長は立ち上がった。ぼくも続いて立ち上がり、診療室に入って行った。
患者は関西や九州の方から時間を掛けて来ていた。多くは帯広や層雲峡を経由して、川湯を最後の宿泊場所にする人が多いようであった。一休みをしている内に具合が悪くなる人が結構いるのだ。夜半には3~4人の往診依頼があるのは何時ものことであるらしい。患者は、面倒なことは無く、血圧が心配だとか、お腹を壊したとか、夏の風邪を引いたとかで、重大な疾病を考えることなく診察は無事終えた。
窓の外を見ると、夏の日暮れも近く、東の空には夕暮れの桃色の雲が浮かんでいる。診療所広場の両側には背の高い柳の木立が生えていて、少しずつ暗くなっていた。診療所の前の道路を観光客が歩いている。時々診療所に入ってきて相撲取りの大鵬の実家はどちらにあるのか訊ねに来る。大鵬は、この年の春場所で大関に昇進し、七月に始まる夏場所で優勝し、秋場所で連続優勝すれば横綱に昇進するともっぱらの噂だった。しかも、ぼくは初めて、大鵬の実家が川湯温泉にあることを知った。確かに大鵬は有名になっていた。テレビは白黒の時代でも、十分に迫力のある画像が堪能できた。診療所には未だテレビは付いていなかった。

玄関を出た。川湯の町は屈斜路湖と摩周湖に挟まれていて、屈斜路湖の東側にあるカルデラ火山(アトサヌプリ)、硫黄山に囲まれた盆地にあり、白樺、エゾマツ、楡の原生林に囲まれた低い山(ポンポン山)が直ぐ目の前に横たわっている。四方が山に囲まれた盆地にある温泉である。名のある温泉旅館が4~5軒あり、インターン時代の旧友が皮膚の湿疹を一月で治癒させた御園温泉も近くにあった。硫黄の強い温泉があると聞いていた。
道路上に出てみると、大鵬の実家のある方には道路沿いに民家が立ち並んでいて、近くの十字路には映画館、その先には駐在所がある。左には消防署があり、そこを左に曲がっていくと、細い川が流れている。そこに架かる橋を渡り少し行くと、大鵬の住んでいた家がある。ぼくはそこまで歩く気になれず、振り返ってサワンチサップ山の方を見た。すると、バスセンターの方向に二階建ての川湯プラザホテルが思わぬ大きさに見えた。夕暮れが赤く輝いて町の中には紫がかった暗闇が静かに下りてきていた。風は意外と涼しく、暑い昼間から考えると、気持ちのよい涼しさを感じさせた。
それから少しして部屋に戻り「飯塚婆さん」の用意してくれた夕食を食べ終わり、ラジオを聴いて自分の部屋に戻る。そして、座り机に腰を下ろし、スケッチブックを取り出して眺めてみた。雄阿寒岳やパンケトーとぺンケトー、摩周湖の景色はぼくに初めてのものである。景色の大きさのために思うように描ききれていないことを実感していた。それでも水彩絵の具で一枚の摩周のスケッチに色付けして、簡単な便りを書いた。
既にぼくは一人の女性に恋をしていた。時々デートにも誘い出し、喫茶店にも何回か行ったりした。登山に誘って、大雪、芦別、恵庭などの山を一緒に登山をしていた。彼女はミッションスクールである藤学園の教師をしている。生徒達を連れて大雪にも行った時には同伴をさせてもらっていた。その交際を通じてお互いの愛を深めていると考えていた。彼女はカトリックに深い信仰を持っている人であった。彼女と知り合ってから、この7月で6年目になる。ぼくは、彼女は永遠の女性と考えている。しかし、この永遠の信頼がこの川湯温泉に来てもろくも崩れそうになってしまう事件が起きるなどとは少しも考えられなかった。

ぼくは、いつの間にかその渦の中に巻き込まれていたのだが、何も知る兆候はなかった。それは不意に生じるものなのか。ぼく自身も学部の4年生の時、クリスマスに洗礼を受けて、唯一の神、イエス・キリストを信仰している。彼女の歩く道とぼくは同じ道を歩き出していたのだ。ぼくは小さなスケッチに全ての愛をこめて札幌を出てからの経過を簡単に書き記した。再び逢えることを期待して。
ぼくの本当の身分は医師であるけれど、北大大学院の病理学研究の教室に所属していて、教室の教授の命令で3ヶ月間、アルバイトで、この川湯に来ているのだった。病気の成り立ちと癌の研究に興味があり、武田教授の第一病理教室に入ったのである。研究のノウハウを何も知らずにいることに少しあせりみたいな気持ちが湧いてきたとはいえ、3ヶ月は我慢しなければならないと考えていた。この日は月曜日で、比較的患者は少なく、静かな夜である。特に金曜日から日曜日の夜は観光客の患者が押し寄せてくるという。普段の午前中は地元の患者が大半であると聞いていた。一日50~60人は来ると、事務長は言っていた。あれこれ考えている内にぼくは眠りに落ちていった。
翌日、縁側の引き戸のカーテンが引かれる音で目が覚めた。障子には明るい夏の日があり、「飯塚婆さん」が朝の食事を用意する音が聞こえてきた。やがて味噌汁の匂いが流れてきてぼくは洗面をするために台所に行き、朝の挨拶をした。婆さんは洗面器の中に熱い湯を入れてくれた。夏なのに湯とはと、びっくりしたので、「ポンプからの水でよいですから」と、言わざるを得なかった。「婆さん」は、「何時もそうしているのだから」と、平然として言うのにぼくは恐縮してしまった。
「爺さん」も起きてきて、3人で朝食をする。朝食は典型的な日本食で、卵、納豆、ほうれん草のおしたしといわしの焼き魚である。味噌汁の中身は、茸のボリボリである。山のあちこちで採れるとのこと。突然「婆さん」が、「先生!朝の用事は早めに済ましてしまった方が良いですよ。何せ家の爺さんが用事に入ったら、2時間は出てこないから、爺さんは朝刊を携えてトイレに入ったらまず出てこない」と、言う。用事で座る木製の座り台は、「爺さん」の自作の洋式便所であると、言って、「婆さん」はニヤニヤと笑っていた。真正面から見る婆さんの顔は、額の皺とギョロリとした窪んだ目、四角ばった鷲鼻が目に付く人である。爺さんは特に何も言わずにとぼけたようにキセルのタバコをふかしていた。

午前の診療が始まると、患者は村の人たちが殆どであった。患者の訴えを聞いたり、血圧を測定したり、継続の治療の注射の確認をしたりして時間は過ぎて行った。昨日の看護婦は慣れたもので、患者と色々話をしながら、「今度の先生は今まで来たうちでいちばん若い先生だよ。しかし、落ち着いた診察ぶりは安心できるよ」と、陰口をたたいていた。そのうち新患の30歳くらいの女性が入ってきてモジモジしている。少し細身の面長の顔の女性で、カルテを見ると、地元の人で近くの温泉旅館で仕事をしているようだ。
「どうなさったの」と聞くと、
「実は妊娠しているので、こんな薬を飲んで調子が悪くなってしまった」のだと言う。薬は市販の下剤でどこにも流産をさせるとは記載されていない。しかし、女性は、「下剤を服用すると流産をすることが出来るのだ」と言い張る。ぼくは唖然として彼女の顔を見た。腹部も妊娠にしては膨らんでいない。
「生理現象が4ヶ月間も無い状態が続いているので、妊娠したと思います。妊娠であるのかどうか確かめる方法は無いのでしょうか?」と、彼女は真剣な顔をして聞いてくる。その頃漸く尿をテストすることで妊娠の有無を確かめることが出来るようになっていた。事務によると、試験は、釧路市内のあるラボで行っているらしい。保険はまだ適応にはなっておらず、かなり高価な試験である。その旨を患者に話し、彼女の相手は旅館の料理長であることも話してくれた。しかも、彼女は、将来その旅館の女将になる予定の人であり、そのため人に妊娠を知られたくないということだったらしい。下痢が2~3週間も続き、脱水の症状のほかに極度の貧血もあるように見えたので採血し、生理食塩水にビタミン剤を入れた補液を行って、下痢止の処方をした。数日後の妊娠反応は陰性であり、おそらく彼女の不規則な生活が貧血を起こし、生理現象がなくなったのかもしれない。血清鉄が10mg以下の低値を示していたために、鉄剤の補給もしなければならなかった。

診察の暇に事務長が現れて、「歯科の先生が来ているので、紹介します」と、言う。そこで、歯科診療室に足を運び、歯科の先生の顔を見た時、ぼくは一瞬驚いてしまった。どこかで見たような顔であり、マスクをはずした顔は間違いなく昨日弟子屈のバスセンターで見た人であると確信した。眉の濃いやや落ち窪んだ目には優しそうな輝きがあり、口元は少し厚い唇に笑みがこぼれていた。ぼくは、「始めてお目にかかります。後藤と言います。2ヶ月余りここに居りますので、どうぞよろしく」と、挨拶をして再び顔を見た。一昨日見かけたあの美しい女性の父親には似ていないと思った。歯科医は全体に色の浅黒い感じの人であり、少し前かがみに立っていた。ぼくは職業がそうさせているのかなと思った。
「先生は何が趣味ですか」と不意に尋ねられた。
「少し絵を描くことが好きで時々書いているのですが」
「ああ、それは良い趣味ですね。私も絵を描くことが大好きなのです。ここにある絵は私が書いたものです」と、診察台のある窓の両側の空いているスペースに20号くらいの絵が飾られ、夕暮れの屈斜路湖と川の流れている街が描かれていた。色彩は豊かな風景画でかなりの腕前であると見受けられた。
「どうですか、先生は日曜日、暇なのでしょう。機会があるなら一緒にスケッチに行きませんか?」
ぼくは、歯科の先生の誘いを受けることにした。
「その後ビールでも飲みませんか?酒はいけるのでしょう」と、言うと、後は何か独り言のように話した。診察室を出てから事務長は、「歯科の先生は暇を持て余しているのでしょう」と、これも独り言のように言った。そして、
「自宅にはお一人で生活していられるから寂しいのですよ」と、付け加えた。ぼくはすかさず
「子供さんはいないのですか」と聞いていた。事務長は、「一人女の子がいて、今は東京の大学に行っているそうです」と教えてくれた。ぼくはしつこくない程度に、
「どこで歯科医院を開いているのですか」と、聞いて事務長の反応を見た。
「ああ、それは弟子屈の駅前です。この診療所にはもう10年以上になります。真面目な先生ですよ」と教えてくれた。もう少し聞かなければならないことがあるように思ったが、そこで止めた。あの歯科の先生の娘があの美しい女性なのかと考えて、暫くは、今回の偶然性は驚くべきことであり、ぼくは誰かに試されているかのような感覚を覚え続けていた。その女性と今度のことは何にも関係がないはずである。それよりも、今度の日曜日のスケッチ旅行はどこに行くのか聞いてこなかったのを残念に思っていたはずだ。とりあえず木曜日にでも改めて聞くのが確実だと、考え直していた。

昼食になり、「婆さん」の居る部屋に戻ると、「爺さん」はおらず、昼食に冷ソバが用意されていた。爺さんは何時もの日課でパチンコに出掛けたまま夕方までは帰宅しないとのことであった。「婆さん」の冷ソバは冷たく、氷も用意してくれていたが、味は薄くその旨の話しをすると、
「前の先生も同じことを言いましたが、その先生から塩分の強いのは体に悪いと教えられたから薄くしているのです」と、すまして言われ、一本取られてしまった。
午後は暫くの間は患者が殆ど来なくなったので、周囲の街の中を散歩した。昨夕見た十字路の方に行くと、道を曲がった奥に古びた平屋の川湯映画館があり、上映される映画の看板が並べられ、西部劇が上映されていた。観たいと思うようなものは無かった。そこは午後から上映しているようであった。引き返して川湯の十字路の方に戻ると、診療所の直ぐ横に小川が流れており、その隣に丸太づくりの山小屋風の拓銀の寮が見えた。入浴の際はそこに風呂を貰いに行かねばならなかった。
町の直ぐ近くまでサワンチサップ山の裾野が迫り、改めてよく見ると、赤エゾマツ、白樺、ミズナラ、シナノキなどの針広葉樹の混合樹林が覆っていて、深い森に囲まれているこの街の落ち着きを感じさせる。十字路から屈斜路湖方面に国道がゆるく弧を描いている。近くに、川湯では古くからある御園ホテルが見えた。その並びには土産店があり、観光客がまばらに品定めをしていた。その土産店の一つにぼくは引き寄せられるように入った。熊が鮭を捕らえる姿を櫟の木に彫刻をしている。似た様な壁掛けなどもあった。店の片隅で材料に彫刻をしている40歳前後の男性がいた。顔を見ると、アイヌの混血の人である。濃い眉と深い目のくぼみ。口ひげとあごひげを伸ばしていて、少し浅黒い皮膚である。右手は巧妙にノミを動かしていた。店を一回りして、ぼくはある一つの彫刻が目に付いた。オンコの木を20cmくらいに切り、丸い頭部に人の顔を彫刻してあるものに興味が湧いた。頭部を持ち上げると、中が空洞になっていて煙草入れか小間物入れになっていた。これは何を考えて彫り付けたのですかと、ぼくは思わずその男に聞いた。
「それはコロポックルの神を想像してこしらえたものですよ」と、ぶっきらぼうな返事が返ってきた。

それは、小学生の頃の国語の教科書にあった「蕗の下に住む小人の話」を思い起こさせてくれた。コロポックルはアイヌ民族より古くから北海道に住んでいたのだろう。アイヌより小柄な人であるに相違ない。しかしコロポックルはどこに行ってしまったのだろう。今は、アイヌの守り神か、幸運を呼ぶ精霊に扱われているのだろう。この頃はまだコロポックルが観光客の話題になるような時代ではなかった。しかし、ぼくは、どことなく懐かしく、寂しげに彫刻された顔を見て、黒光りする小さなコロポックルの頭をなぜていた。
「お客さん!それ気に入ったかい、まだ買う人がいないんーでね、安くしときますから」と声を掛けてきた。
「なんとなく欲しい気がするけど、今はだめ。財布が無いし」と、ぼっそりとぼくは言い訳をした。
「お客さんはどっちから来たんだね?」
「ぼくかい、札幌。いや、ぼくはそこの診療所からさ」
「診療所?あれ!また診療所の医者が変わったのか!わしも時々診療所に行くから今度相談したいことがあるから、頼みますよ!」と、ノミを動かすのを休めて、ぼくの医者としての品定めをするように見つめていた。観光客が3~4人店に入ってきたので、会話はそれで終わりになった。
「また来るね」と、言って土産物店を出た。暑い夏の昼下がりは観光客もまばらで、時折、バスがほこりを巻き上げて通り過ぎていくぐらいが変化である。住んでみると数日前までいた阿寒町と変わりの無い田舎町であった。

午後4時を過ぎると、ぼちぼちと患者が来る。殆どが観光客である。関西から来たある70歳の男性が唸りながら診療所に入って来た。受付で早く見てもらいたいと叫んでいた。看護婦が案内して診察室につれて来た。ぼくを見るなり彼は叫んでいた。
「先生!何とかしてくれ、助けてくれ、俺は今日の昼から全く小便が出ていないんだよ」
ぼくは、患者を診察台に休ませて診察をする。下腹部が膨張して張っている。前立腺肥大による尿閉である。長い間バスの座席に座っているために下腹部の充血が生じたのだろう。看護婦にネラートン・カテーテルを出してもらい導尿を試みるも尿道が狭窄していて導入は不可能であった。導尿が管では出来ないので腹部を穿刺して尿を採る以外には方法はないと考えられた。ぼくはその事を説明すると、患者は何でもいいからこの苦しみを早く取ってくれと懇願している。血圧も上がり冷や汗もかいている。
「俺は大阪で質屋を経営している。金はいくらかかっつてもいいから早く楽にしてくれ」と、大声で怒鳴り出していた。
ぼくは看護婦に一番太い針と注射筒を出してもらい、恥骨の上部を消毒し、局所麻酔を行ってから穿刺を行い約600ml余りの尿を取り出した。直ぐに患者は気分が楽になって来た。前立腺肥大症に効果のある女性ホルモンの注射と前立腺肥大を抑える薬を処方して、「今夜は水分の摂取は抑えるように」と指示し、もし尿が出てくるようであればそれに合わせて水分の摂取は可能であると説明した。来た時の苦しそうな様子は嘘のように消え患者はにこにこしながら、
「今夜のホテルはプラザです。尿がたまったらまた来てもいいですか」と、質問する。ぼくはそこのプラザであれば夜に来るのも仕方が無いと思いながら、
「溜まって辛くなってきたら、来てください」と、返事をしていた。

つづく

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